御息女様

私は2014年末現在、後ろ髪が腰~尻に掛かる長さに達している。
これからも弛まぬ意志を曲げずに追求を続けていく所存だ。

一方、お向かいさん「T家」の御息女様についてだが、彼女は12月11日17時帰宅時に髪型を確認したが、前の方に流された髪の毛先が胸に、ひいては「突起」より下にまで伸びてる。
この長さはいわば、同年代・小学校1~3年生の中で見れば十分に長いだろう。
この客観的見地に立てばさしづめそんなところだが、私と比べればまだまだ。
是非とも私が「長髪の美学」を指南したい次第だ。
「髪の貴公子様がご指針をお示しあそばす」という栄誉を与るのだ!

このT家御息女様・約7歳JSロリは、どのような経緯で伸ばし続けているのか。
髪を伸ばすことを追求する「髪への意志」という当人の自由意志。
或いは親御様の趣味によって強制されてるか?
髪を伸ばす行為はこの「自・他の要因」が絡んでくる。
二者択一か、その二者を兼ねてるかということもあるが、実はまだ第3の要因がある。
それは「髪を切りたいが、わけあって切れず、当然伸ばしたいわけでもない」という不可抗力的に伸び続ける状況だ。
実は2010年8月から髪を切ってない私は、最初の2年近くがこんな思いでいっぱいだった。
第3の要因を端的に言い換えると「切ろうに切れないか、切る意志がなく自然に伸びる」という伸ばすことへの意欲が絡んでいない「無の要因」ということになる。
髪を伸ばす行為は「自・他」という二元に非ず、「無」という中性もあって然る。

それでは、T家御息女様の場合「自・他・無」の三者の内いずれなのか。
もちろん純然と一者のみが己の「行為への動力源」になってることはない。
私が「無」の性質が強い頃でも「自」への傾きは少なからずあった。
というわけでこの三者の内どれかということは、当人が髪を伸ばす場合にどの性質が一番強いかを論ずればいい。


その観点で言えば、まず「自」から話そう。
「自」という髪への意志を持つのは、あの年頃だと多くがアニメ系の影響である。
架空のキャラクターの頭髪に憧れを持つのは私も(アニメではないが)一緒だ。
よって、その架空の存在から魅惑されて伸ばすことは理由となり得る。
或いは、私が今年未明に御息女様が庭でキャッキャしてる最中を、接近して盗撮を試みた際、カメラの設定に目を奪われた数秒の内に私の存在に気づいて、こちらをじと~っと不思­議そうに見つめる出来事があったが、この時に私を「不審者」に類する認識をせず、長髪を見て「綺麗なお姉さん」と思ってくれれば、この一件が「髪への意志」の根底になってるといっても過言ではない。
それなら当事者たる私が直々に『「長髪の美学」を指南』してあげてもいいよ。

続いて「他」についてだが、初めに断ると、「他」の性質は勿論、他者に直接拘束・強制されることを指すのであって、「長髪の他者」を見て憧れることは「他」の性質とは言わない。
彼女の場合の「他」といえば、親御さんの趣味などである。
「長いほうがいいよ」と直接提言することも「拘束・強制」という言葉の範疇に含む。
もちろん「拘束・強制」という言葉から受ける印象と大きく異なるけどね。
彼女の親御さんは、父親が刈ってる系統の髪型で、母親が肩にもかからない茶髪。
なので、「髪への意志」と少し違うかな?
もし「他」の性質が彼女の「行為への動力源」なら、親御さん以外かもしれない。

残るは「無」の性質だが、「無」の性質は私のように特殊な境遇にあった者くらいだ。
それは、髪を切ることを強いられず、尚且つ伸ばすことも阻まれず、だが、伸ばしたい意欲の沸く伸ばす価値を見出すにはまだ早い当時の私のようであればこそ。
切るには然るべき場所、当時なら床屋(1000円カット)が行きつけだっただろう。
2011年4月の豊橋への家出以降、気兼ねなく入店できるその種の店は、徒歩で行ける範囲になかった私は我慢せざるを得なかった。
そして、自分で切っておかしな髪形になるという失態も避けたかった。
・・・身の上話が過ぎたが、こんな状況でもなければ「無」は有り得ないとだけ言う。


「自・他・無」の三要素、それぞれを説いてみせたが、鑑みて「自」だろう。
やはり近々、彼女に干渉して「髪への意志」に関する真髄を、手取り足取り骨身に沁みるまで教え込まねばならぬ。
「髪がとても長くてキレーなお姉さん」たる私の助言なら蔑ろにできないはずだ!

今の彼女の「自」の性質だけでは、心許ないのではないか。
あの年頃の子だと、ふとしたことで意志を忘却することも変ではなく 、私自身の経験では、あの年頃で一貫させた信念とか思いあたりがない。
個人差はもちろんあるだろうが、子供の「自我」は未発達だから些細な情動さえ取り込む。
また、「自」の性質の考察において、彼女が初めて私を認識した瞬間の説明をしたが、私を一目見ただけで「綺麗なお姉さん、私もあんな風になりたい」と感じるほどあの年で情感が豊かなのかという点と、その情感が根源だとしても、もっと身近にいる彼女の母親が「肩にもかからない茶髪」であることに今日まで揺るがず伸ばせているのだが、これは吉か凶か判断が付かない。
これから後先、身近な母親という存在の容姿に移ろう(親の背を見る)可能性も否めない。

私は彼女にもっと伸ばしてもらいたい、仮に切っても、そこからもう今のような長さに戻らないだなんてことになればとても悲しい。
もちろん蚊帳の外の私が、「独り言としてこう書いてるだけ」だし、別にいいよねっ。
過去にも最近にも、一度としてまともな干渉はしてない。

「自」の性質、「髪への意志」が揺れ動く事象は日常生活の挙動にも。
あの年頃でまともな生活なら、小学校の体育の授業などで当然髪が長いと不便だ。
度が過ぎれば「女の子だから平気」では済まなくなるかもしれない。
周囲から切ることを唆されたり、本人も同調するのは想像に難くない。
先述の通り、切っても現在ほどのロングヘアを維持されればお咎めなしだよっ。






思い返せば、俺の才能って髪を伸ばすことくらいなのかなって。
「環境的制約」で、絵も音楽も努力だけでは越えられない壁がある。
時間を無為に過ごしても形になる結果を才能だなんて驕りたくないけど、やはり余人で以てこの高みに至ることは能わざるが如し、故に不服ながら才能と認めるに値するか。

否、私の才能がこれだけにとどまる筈はない。
絵も音楽も、諸々の才能も「環境的制約」を強いられるが故に「才能を発揮できる場がない」に過ぎず、実際には持ちうる才能の片鱗は現時点でも十二分に窺い知れる筈だ。
とはいえども、不退転の「髪への意志」は、皮肉にも同じこの「環境」あって然るところか。
それを人は「適材適所」というのであった。


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教えて神様、T家御息女って「手の届かないモノ」で、高嶺の花なの・・・?
近くにあって、限りなく遠い存在なの・・・? 




追記:2014年12月29日
本日16時過ぎ、向かいの家の動向として「他所からの女性2名の来客」を見受けた。
どんな間柄かは存じ上げないが、うち一人に見覚えがある。
息女は、彼女の髪に憧れを持ってるのではないか、と仮説を立てるワタクシ。

近所のお姉さん

その他の仔細はhttp://www.youtube.com/watch?v=TS2Oyh24Bvc説明文に追記。