18歳 少年 モラトリアム

2015年「あけましておめでとうございます」。
同時に、1月とは私の年齢が1つ加算される年になる。
去年の1月にも、17歳となる誕生月に際して17の数字に肖り17日に記事を投稿したが、今年は元日投稿ということになった。

今回の記事は「18歳」という、社会的な制約の変化が大きくなる節目を迎えての思惟。
「14・15歳」「20歳」というのも、これまた社会的に個人へ与える影響は大きい。
その数字を持つ人間に対する世間体と、法令上等での制約や解放。

私としては、それら「社会性」と特に縁を持ちえてないため意に介さず。
なので、今回の記事は私の研鑽活動における加齢との付き合いについて触れる。

年を逐うごとに焦燥感が募るか?
それは、研鑽を重ねて自身の状態に楽観できる変化が生じているどころか、老化が重なって頭が鈍く、あるいは体が利かなくなるか。
正負とも目立って変化が生じずとも、向上が自覚できない場合、切迫する。

研鑽のみに数十年費やすことを望む私。
あたかも、山に篭った修行僧のごとく。
自身が「濁世」と称している、安穏が続きがたい現代にどれほど維持できるか、という国家や世界普遍の疑問。
より狭まった領域では、個人や家庭の範疇だが、著しく住居を移る私や家族。
5年以上同じ家に住んだことが人生で一度もないが、今の豊橋市内では果たしていつまで続いてくれるだろうか。
研鑽とは無関係だが、向かいの家の娘を窓越しで見守り続けたい、と思った。

先述の「山に篭った修行僧」とは、私のイメージだと鎌倉時代あたりになる。
この時代の当該人物は果たしてどのような生活体系だったのか。
私の研鑽活動はほぼ金銭の消費を伴わない反面、私自身に稼ぐ手段もない。
彼ら修行僧は、仏道修行のみならず、農業等で生計を立てたりもしたのではないか。
現代のように葬儀・墓地等の葬祭業も執り行っていたのだろうか。
やはり自ら稼がねば基礎的には脆弱で、あまりにも心許なく、金があるに越した事はない。
然るに、金を稼ぐことを頑なに拒む。

上の弟が「遊びたくて小遣いを週に3000円(月12000円以上)受け取っているが、まだ足りない。もっと金が欲しいからバイトをしたい」などとのたまうそれは、金銭欲である。
私は「学び続けたいが金を稼ぐ必要は現状ないし、これからも金を稼ぐという選択肢は外したい」として、「もし食ってゆくことさえままならなくなれば、私は死を受け入れる」と、これは虚勢か。
死を受け入れるという覚悟は、時が来ても動じないなら「豪胆」と表すに尽きる。
これについて、以前「そんな豪胆が元来備わってたら、今頃どんな人間になってることか」と自嘲的に綴った。


何にせよ、一つ上のリンクの記事でも「生来その道を授かった、「世俗の名利」とは無縁な境涯を先天的に与えられた。これを自覚して揺るぎない修行をしようではないか。俺。」と書いた通り、生来、金や世俗における成功と縁が遠い以上、その道を自ら断たねばならない。
無為にゲームや遊びで時間を潰すよりずっと有意義な研鑽生活。
これこそが私に最も適した生き方、至上の処世(?)手段なのかもしれない。
その資質とは、因果に紡がれた半生を顧みて自明の理だと再確認。

畢竟、私のモラトリアムとは、俗世との隔絶された空間での研鑽に打ち込む使命を課せられた、長久で終わりを知らない、生涯の命題課題のようだった。





昨日(12月31日)の

メモ帳更新

(見栄え損なわせるほど仰々しく書いたんだから目を通せゴミ共が)

寵愛者「子羊らい○」に

学ぶメタル道

"The Anecdote of Hubris

by Amadeus"


・・・当記事のタイトル「モラトリアム」同様、ラテン・ギリシャ系英単語全開の記事。
あ、ラテン語といえばその前の記事で"Deus Ex Machina"についても綴ったね。
ラテン・ギリシャ系は某者できっかけを掴み、某小説でも引き込まれた。
この学習が英造語等の創作活動に一役買うので勉強中・・・

1月2日はお正月にちなんで、書初めではない書道に関する記事をメモ帳に投稿する予定。


2015年 五濁

2015年 二〇一五 弍千拾伍 五濁悪世 伍濁惡世の年になる?
2014年は8月以降だけでも災害が激しかったけど。
西洋発の紀年法上で5が含まれることを、日本の仏語と結びつけるのって変だけど。