孤陋

私、引きこもりの研鑽活動は滑稽に見える者も多くいる。
改まって言われずとも、そのような一般論が罷り通ってることは承知している。
「研鑽しても閉居してる者は視野狭窄する」そうだろう、そのような御高説は、隠居者について思索を深めれば蓋然的に達する俗説となる。

近代より仄かに「独学孤陋」という四字熟語にも表される。
確かに恩師や学友というものがとても貴重な存在だとは、私もひしひしと感じている次第だ。
「況やそれら存在の恩恵に肖れる者をや、それらを軽んずべからざれ」とまで。
この思想については、2010年の中2・不登校以前にも「友達に囲まれて幸せな者は自らを『非リア充』と卑下(僭称)せず、感謝して胸を張れ」とネットで主張し続けていた。

飽くまで、邪説への反駁をする気概など私にはない。
我が理念に悖れる「独学孤陋」説の誤謬を正す気は毛頭ない。

 

結局は一般人という余所者は余所者であって、虱潰しに摧破しても不毛ではないか。
当事者たる引きこもりにあらずんば、研鑽美学など毛ほども通用しないだろう。
故に「馬の耳に何とやら」のことわざ通りで、責めるつもりも毛頭ないのだ。
私としても、溝が深すぎる者との棲み分けを計りたいが、案外当事者っていないものだ。
 
泡沫の如き毀誉褒貶を意に介さぬ姿勢が、胆力が、今の私にこの上なく要求されている。
それをいち早く身に着けなければ意志の根底から崩される。
他を責める力などは険悪である。



私が私に課せられた境涯を、本分を全うする・・・
常々「世俗の名利に無縁」と称している以上、世渡りのために標準化・画一化された教育も生活も、何ら我が身に整合性はない。
また、世渡りの適正がない人間へ否が応でも世間の「健常者」に舞い戻る訓練をさせる必要があるか、その「画一化」こそ忌める同調圧力なのだ。
 
私のように、自身の常軌を逸した境涯を理解して順応する、賢明な事だろう。
千差万別の才能だとか天性だとかを、全く「画一化」されたものに、愚昧なことだ。
そういった主張に通じることは「健全な社会性」の導きだろうが、私の境涯では外道だ。
故に私はこの道にいることが至上の道筋であり、余人が口を挟める余地はないし、また、私には彼ら一般人の思考に反駁せず、価値観の相違として甘受せねばならない義務がある。



某小説の主人公は自分のあり方を否定されようと「お前の主張はお前のものだ、俺が反論する権利はない」とし、また己の道を踏み誤ってはならないことも説いている。
容易く他人に流されて、己の責務を全うできずにいるのは愚鈍なのだろう。
私の使命にしても、一般社会の見地では好ましくないだろうが、中途半端に凡人としての道に戻ろうとする邪念を持ってしまえば悪しき過去の轍を踏む。
この主人公も「俺にできることは殺しだけ、殺戮人形だ」と自身の本分を見定める。

私もその主人公も一般人と相容れないことを割り切って、何も低劣な社会性に準じて同調することもないのだ。
1年前の今頃にも、類似の発想があったが、具体的な言語化には窮していた。
今では様々な思想が言語化に至ってるようで、伊達にヒキ生活してたわけじゃないと安堵さえある。
繰り返される経験の中から、突然の閃きがあるという道理だろう。

某小説や諸宗教のサイトなどが、無尽蔵な知識の宝庫、依り所になっている。
これに欠いてた1年前の今頃とは、これまた大きな違い。
知性には僥倖足りし哉。




直近10日間のメモ帳更新!!

地名についてhttp://lesbophilia.blogspot.com/2015/01/blog-post_27.html
腫瘍の所見http://lesbophilia.blogspot.com/2015/01/blog-post_28.html
学問分析http://lesbophilia.blogspot.com/2015/02/blog-post_1.html
臭いの嫌悪http://lesbophilia.blogspot.com/2015/02/blog-post.html

直近10日間のメモ帳更新!!
(仰々しいわ!)

「虚しかる 我が慈しみ 誰が為ぞ」・・・誰が(たが)

この頃の本家ブログ更新頻度が、辛うじて2週間以内に1度になってることが怖い。



↓見なくてもいい(どうしても気が済まない俺だったが、邪説反駁ではない)

かの者は、無闇に褒めちぎったと思えば、遠まわしに否定をする者。賛辞から罵声までなんと空々しいこと、所詮は凡人なる者とは得てして・・・。17・18歳たる私より5つ以上に歳の高き者ら、大学生だ社会人だの虚名を振り翳しても、人格は10代前半のままで、1世紀に渡る余にいと劣れり。彼らは私を降り回すことを画策した、悪魔の囁き・誑惑である。そして、研鑽美学も部外者たる凡人になぞ説いた覚えはないわ。
かの者は23歳の女だが、2014年6月にもおかしな曲解に度々戒めており、乃至倦厭して厄介払いしていたのにずっと思い上がったまま14年末~15年も絡んできた。
挙句、私が甘んじてやろうと気を緩めた矢先に、ヒソヒソ私を別所にて謗った。
その内容のスクショとURL付のタレコミがあったので、婉曲的だが、こうしてブログで取り上げよう。
かの者に限らず、数多の俗物とまみえるも、往々にして翳眼を以て謬見と為す。
謗りもさることながら、愚人に褒められたるは第一の辱なり。

褒貶は浮雲。謗るも嗤うも汝の自由。
我の本質も本懐も、我自身か神のような者しか知らず、他人の知るを覚めず。
某小説も、賢しき先人も、その正鵠を射た表現があって奥深い。