獅子吼 ブログ 破折 コメント

これぞ法悦である、なかなか来られがたい優良な読者だ。
ある種、孤高の立場にある矜持を保ってもいたかったが、やはり一人でも同類が欲しいという孤独さえ感じそうなところに「如渡得船」、渡りに船を得たるが如しだ。
濁世においては有象無象、三障四魔が跳梁跋扈するのは必定といえども、私自身がそれに交わらない故に現世は半ば地獄にも似た空間であって、そこに魔を征伐する光明の化身たる者は無きものと思われた。
然るところ、このようなコメント投稿者が仮に一度きりの出現に終わるとしても、顕れ給うことは稀有・殊勝であり、「盲亀浮木」にも似た、法悦の至りである。
http://masashi.doorblog.jp/archives/42432770.html←記事における2番目のコメント(07月01日)

仏法には「悪友・善友」という表現もあるが、これは世間で「友情」などとチヤホヤされる間柄のみ指す言葉ではなく、悪友とは仏法に暗い者達で、善友とは共に仏法を受持する行者に対して指され、これこそが真の「友」だ。
こういった悪友には迎合する必要も関与する価値も無いが、善友・正定聚(蘭室の友)の輪を求める必要は希求される。

世間の一般人などは多くが「悪友」にあたると私は思う。
真理である仏法は、ことに日本においても表裏はあれ浸透しているはずだが、身近ゆえに価値がわからぬか、或いは傍にあっても背き続けているのか。
正法を傍に置きながら取り合わないことはとてつもない冒涜行為にあたる。
あまつさえ疎んじている者や、教義にない誤解を持つ人々も多い。
生きているうちに多くの「悪友」と蜜月のようにつるんだところで、後生の支えに足ることは一つとしてありもしないのだ。

対する善友とは、その一般世間にあって実に「値い難し」。
善友畢竟じては仏となる。
今は値い難い善友との交流はできないが、悪友ならなお必要なし。
私は世間の「悪友」自体、長年持っていない(小6説等あり)上で、善友には生まれてこのかた未だ関わり得ていないが、せめて私が正法の仲介をしようと、時折仏法の大事を文字に説いており、口に説くこと能わざる身にして、些かなりとも法を弘む役目を賜ったことはまた法悦に数えられる。
然るにこの法は「難信難解」であるから、今のところ数多の度し難い魔には正義が微塵も伝わらないようだ。
仏法の正義を少しでも見聞きしたとき、機根が優れた人は即座に「善友」足り得る人に尊大な気を懐かない。

この仏法の正義は、愚昧な凡庸読者達が未だ知るところにあらず。
仏法は「衆生済度」が要であるから、曲がりなりにも求道者たる私に接近する魔には冷や水を浴びせて正義に目覚めてもらいたく、日々文字を立てる。
正しい行者ならば、その魔や悪友を滅ぼすのではなく、むしろ正義を説き、仏法をもって迷妄から救う努力=修行をせねばならない。



思えば、真摯な行者に対して競い起こる障魔というのは、いかなる道理より生じてくるのか。
学び始めた頃から既に「猶多怨嫉況滅度後」の金言を覚えていたが、近頃は認識が希薄になっていた。
正法受持の信行には、世間における怨嫉が付き物である。
もちろん、私が仏法を本格的に学び始める以前、否、生来奇怪極まる境遇であるが、それは多くの過去記事に詳述されてきている。
でもそういった、世間での艱難辛苦を経ずして、正法に向き合うことは本来私に叶わないようで、機根の弱さを実感しつつも、正法に値うことは逆境の故であると思うとき、強ちに悪友を全否定できないことを痛感する。
多くの悪友による疎外が、正法の価値を際立たせた、と。

釈尊の出家・成道に比べると、私のこういった求道への経緯が家出ありと雖もみすぼらしく、締りが悪いようであるが、それでも今の時代にあって稀有・殊勝だと使命感を強めたい。
これからも、各種研鑽が叶ううちは探求を続けて参りたい所存だ。






このほか、7月6・7日あたりにも反映予定の下書きアリ。

というわけで本日7月5日には、かの正師のごとく勇み、某所にて仏教関連のコメントを2つしてみた。
コメントは承認制にしてあるようなので、未だ(これからも?)反映はされていないが、あらかじめ当記事にて改行オフ・校正込みで掲載する。

コメント1
ふとした経緯で一週間ほど前に初訪問しました者で、1年半前の記事に恐縮ながらコメントします。「一念三千」の教義は、天台智者大師が法華経を読み解いて摩訶止観の中で表したことは周知の通りですが、語自体は弟子の章安大師が四字にして唱えたもの、という複雑な経緯がござりますね。「上行菩薩」についても、法華経の会座において大地から涌出した菩薩衆の棟梁であり、日蓮宗系で重視されることは当然、ご存知の上で論っておられますよね。日蓮聖人ご自身が、釈尊の滅後(後の五百歳)に法華経を広宣流布するという上行菩薩(この点は曖昧で薬王品には宿王華菩薩)としての自覚を明かされていることから、後の弟子たちにも尊ばれました。まして日蓮宗系では法華経・涅槃経以外「小乗経・爾前経」として切り捨てていますから、それらの経で「上行菩薩」がどう扱われようと、教義上に有利も不利も生じないことと思われます。最後に、貴殿の持つ調査に割ける時間・あてられる能力については、若輩の私(18)として見習う点があると敬い申し上げつつ、失礼致します。

コメント2 (後で結構いじった)
僭越ながら、二度目のコメントを申し上げます。大乗仏教は中国で大成し、日本に流れ着きました。大乗経典自体が釈尊滅後の長い時間を経てからの成立であるから、釈尊が本当に説いたことなのかとか、一部は中国の創作であるとかと、仏教学者に疎んじられてしまっている現状があり、その漢訳経典には中国独特の思想(儒教・道教・陰陽)の片鱗が出ているなど、それらに通じた解釈がなくては、中国人にインドの思想が理解できず仏教も浸透しないといった意見が出ており、実際に儒教じみた「孝養」アピールが偽経と断定されるに至った例もござります。そうである以上、結局「コレ」と決定(けつじょう)することは些か盲目であっても、信心に一存されます。ですから、上座部・チベット仏教や、過ぎずとも密教こそ至高として、仏教の原点と見る日本人もいる、といえば極論に近づいてしまいますね。「中華」の経疏や論の中にも、その原点を探求しようとしたものがあると思わなければ、逆に貴殿の記述に「都合・底意」が滲み出ているように捉える人が現れかねないでしょう。以上、不肖18歳の不遜なコメントでした、御寛恕の程をお願い申し上げます。



まともなコメント投稿者なら、私くらいの"カス"程度にまでは正しく文章を読み、知識の共有が行えなければ無慚というほかない。
もちろん、上掲2コメントを読まれた件のブログ運営者の方がまた、これをどう受け止めるのかは私にも分からないし、人生の常例の如く顰蹙を買うかもしれない。
だが、せめて少しばかりここの読者諸兄には、上の階層にステップアップされ、論理性が増されることを願う。
そうして己の向上を願い続けたのが、何を隠そう私自身であった。
自利利他ということで、同じく読者諸兄の智が増されたく思う。