asubha bhavana bhaavanaa 性欲 断つ 不浄観 不淨觀 不净观

2015年12月20日からオナニー・射精しない時間が続いて2ヶ月を迎える。
最後のオナニーは格別の感度あり、人生における性的行為のピークであろうか。

表題に「抜こうと思うだけで尿道が痛む」とあるが、これは題名のための粗略な表現であり、もっと厳密に述べるならば「オナニーしようと思う前に勃起する段階、更に極度な場合は性的コンテンツを見るだけで尿道が窮屈感を覚えて性欲が減退する」となろう。
三次ポルノ・AVにせよ二次エロ絵・CGにせよ、女性の肌の露出の多さや男・女性器・裸体に吐き気・・・とまで言わずとも、興奮を得なかったり複雑な感情より抵抗を覚える場合が多い。

抵抗無くとも、且つは性的興奮を覚え、且つは背徳感の故に尿道が締め付けられ(比喩表現でも事実でもある)、そんな逡巡が幾度とありながらこの2ヶ月を経てきた。
子供の中、いな大人であってもエロ画像に生理的嫌悪感を覚える人間がいる理由は今、どうであれ体験を通じて理解できてきた。
このように、19歳となって一月を経るや否やの人間としては有り得まじき身体的(精神的でもあろうか)異常事態に当たっている。

性欲に係る現状、これは一過性の現象とは思えない。
人生が80年続くとして「1年オナニーしなかった」などと言えば、さほど短くはないが、齢20に達しないうちからこの非オナニー歴を積み重ねれば、どうなろうか。
所詮、寿命が100年以上あろうと、一生で2世紀を跨ごうと、仏教の世界観である無始以来の輪廻転生の久遠劫から惟れば一瞬に過ぎず、須臾の間にも及ばない。

今の生を見るに、その日を起点として、夢精など不可抗力的現象や逆レイプ等の例外的事態が無ければ、死ぬまで射精することは無いように思う。
仏教の悟りの階層で言えば「四沙門果」の「預流果」に当たりそうだが、それを自称(僭称)することは控えておく。
歴世の覚者たちの如く、性欲は速やかに断尽されるべきか。
その「須臾の間」である人界一生のうちに、過去遠々劫・未来永劫の苦境から抜け出せるであろう仏教の尊さを、みな知らねばならない!
永劫に苦境の三界・六道で流転し続ける愚かな我ら凡夫を、最高の幸福境涯・成仏へ導かんと念を懐く仏様の慈悲を、みな知らねばならない!

性欲・色欲があるようでは、尊き仏教・清浄なる教えに俗なる欲を混ぜ込みかねない、厭かずんば道に非ず。
性器・裸体に欲情していかなる利益があろうか、私は今の境地はベターであって猶飽かずに上を目指してゆこう、かの欲望は仏道において障礙としか為らず。
非僧非俗などと自称して悦に入った、かの俗僧の如き者を仏は赦し給わず。

・・・あんまり言いすぎないようにしよう、前にも後にもおませな小中学生時代を語るから、対比すれば自分が極端に移り変わる人間と見えてしまう。 
否、私は誰よりも早く世俗の道を極め、誰よりも早く諦観をもって世俗を離れたという異端の存在であるから、何ら愧じる必要は無い。
但し、やはり極度にエロスを嫌うなら、これまた一つの執着・妄執であろうから悩む。 



今でも可愛い二次元美少女イラストは見て愛でたいと思うが、アニメ視聴・鑑賞を2012年からしないよう、普通のオタク系の人のような気兼ねない収集活動などは長年できない。
萌え絵を描く創作については、今でもぼちぼち。
早寝早起き・性欲なし、老人みたいな日々だが、創作・研鑽には支障を来たさず活動が継続できている。
執筆活動は、何度も書くように本家ブログ記事メインch動画の供給は乏しくとも、日記メモほかもろもろ広く盛り続けている。 
寝るときは最近まで陰茎と陰嚢と睾丸に配慮した姿勢・寝相を取り続けていたが、平常時チン長もタマのぶら下がり具合も増した今は逆にこれら股間のブツを気にしない寝相で肉体的・精神的な問題などが無い。

些か性欲が残らないと、創作関係の原動力あるいは潤滑油が欠乏してしまう。。。
未だに音楽や絵などへの執着は深い凡夫の私である。
でも、本家2015年中の絵の練習記事にも綴られるよう、オナニーという享楽主義的行為は、芸術という耽美主義的行為と区別すべき旨を示したわけだし、お絵かきの頻度こそ落ちても(作曲は弥増す)、全体的に大きな支障は無いように思う。
「オナニー」は体で快楽を享け、「芸術」は心で美感に耽る。
18歳になったからというわけでもないが、性的描写が含まれる絵の割合が増えている反面、今年1月10日の記事にあるよう、オナニーの頻度は相変わらず疎らなままだ。性的快楽は「享楽主義」の業であって、私の絵の練習は芸術に向く、即ち「耽美主義」となり、双方は表裏一体。芸術の心中耽溺であるから、形としての性的快楽を得る必要はない。別の哲学思考でいえば、唯物論・唯心論の相対にも似ている。確かに、性欲たまっていたら発散する方が時として創作性が向上するかもしれないが、私にはわからない。
引用: 『まとめて掲載、絵の練習記事 (1) 2015年3~6月



小6・中1のころ手に取った90年代発行の医学書には「自慰(マスターベーション)によって自分を悲観視してしまう男性が多くいるが、生理現象なので気にしなくてもよい」と書いてあった記憶がある。
当時、「オナニーすることがそんな悲観的になる原因になるの?キモチーのに」と甚だ疑問に思っていたり、先述の「エロ画像に生理的嫌悪感を覚える人間」がなぜ存在するかという疑問も「セックス・交尾が生物繁殖・種の繁栄の大前提なのだからエロを嫌がる心理の方がおかしい」とまで思いもしていた。
転じて、今の自分(18・19)はその「悲観視してしまう男性」に当たるのであろうか。
だが、多くの「悲観視してしまう男性」とは志を異にすること、私の文面に顕然たり(顕然とか○然っていうの全部タリ活用だと思っていたんだけど顕然について調べてから紛らわしくなった、やめてほしいなあ運命よ)。
いわゆる、射精後に至る「賢者タイム」という状態や、オナニー前から賢者タイムを恐れる心境とは別であろう。



今の私は、進んで禁欲する(我慢する)のではなく、ただ性的欲求が減退するだけの状態にあり、1ヶ月や2ヶ月オナニーせずいる時間を更新し続けることは単なる「結果」に過ぎないし、先のチン長増加も偶発と見る。
固くオナ禁することによる健康的ご利益は期待外であるが、副次的に好影響あらば、それも良いものであろう。
その一種の美学というものを1月5日の日記メモに綴ってある。
15時50分台、久々にエロ動画(中国)鑑賞をしてみて、まあかなり勃ったのだけれど、一度も陰茎に触れずして萎ませた。前回のオナニーが2015年12月20日であり、2週間以上抜いていないこととなるが、このまま可能ならば今月ある誕生日まで継続させたく思う。一度くらいはそのように禁欲・禁性欲の期間を1ヶ月ほど持たせてもよいのではないか。まあ、固いオナ禁の類ではなく、普通に生活するうえで一定の性欲を抑える結果に、たまたま1ヶ月オナニーしなかった、という程度の「オマケ」を求めているのであるが。要は、芸術の才能が極まった「ついでに」有名になるのが良いのであって、名誉の為に芸術を追究することが誤りである、といった美学に通ず。



私が性欲を抑制・・・というより性的コンテンツに拒絶の傾向が出たという現状には、仏教の研鑽の影響・その功の顕れであると意識している。
性的コンテンツへの拒絶の傾向(性嫌悪)ということの前に先立つ、先述の性的欲求の減退があるが、性欲減退にせよ性嫌悪にせよ、論理面は然ることながら(例えばオナニー・セックスは放逸・放埓であるといった思考)、本能の方面においても影響が及んでいるのである。
理性を過ぎて感情にまで到達する、これは悟りの階梯と同じステップアップと見る。
今の私は一過性の性嫌悪にあるのではなく、悟りの道程における通過点を踏破しており、悟りを願うなら決別し、還るべきでないから、もう「最後のオナニーから1ヶ月だしそろそろ抜きたい」と思うことは無くしたい。

その上で、つい1年前ならば「高位の悟りを持つ僧侶が披瀝した性に対する見解」に理解ができなかったが、今ではそれなりに同情し得る面もある。
その見解とはこのようである。
 
「碧眼で色白・眉目秀麗の美人がいるとしても、所詮、人体などは、集めた糞の塊に白い粉を降り掛けたものに過ぎず、焼け爛れた屍を鮮やかな絹織物で覆って繕ったようでもある(天台大師智顗・説、章安大師灌頂・記、摩訶止観・巻第九、取意)」

このような見解について、各自どう思われよう。
細かい表現への難など多種多様にあろうが、今の自分ならばそれなりに同情し得る。
このような諦観(不浄観)とは、いわゆる止観の修練により、本心でそう観じ、感じ取り、本意として心に置くものであるから、こう述べる僧侶らは止観の修練によってこのような諦観を得た境地へ到達した。
私もまた、その境地に迫ろうとしつつあるが、今の位を退転シコシコしたくもある。
まだまだ断惑には遠い「未断惑」の私であった。
若し至心より出離を願わば、須らく精進すべきのみか。 



一度、英語が読める人(当ブログ読者の中にはいないだろうが)は"Arahattamagga Arahattaphala"という上座部仏教(テーラワーダ)僧侶マハー・ブーワ氏の著作の英訳版"The Path to Arahantship"を読まれたい。 
先述までの不浄(Asubha)観と関連する文言が33ページ以降に見られる(PDFプレーヤー側のページ数ではなく書面に付されたページ数であることを留意されたい)。

参考(35ページ付近)→"Asubha meditation is insight into the repulsiveness of the human body. This is the body’s natural condition by nature, it is filthy and disgusting. Essentially, the whole body is a living, stinking corpse—a breathing cesspool full of fetid waste. Only a paper thin covering of skin makes the whole mess look presentable. We are all being deceived by the outer wrapping, which conceals the fundamental repulsiveness from view. Merely removing the skin reveals the body’s true nature. By comparison to the flesh and internal organs, the skin appears attractive. But examine it more closely. Skin is scaly, creased, and wrinkled it exudes sweat and grease and offensive odors. We must scrub it daily just to keep it clean. How attractive is that?

ほか、「皮膚とは大いなる詐欺師である。全体の皮膚組織を少しでも剥いてみれば何ら美しさは無いばかりかおぞましい光景ですらある、どこが美しいかよく自問してほしい(取意)」として、実に表面的な美に囚われて(執らわれて)はいけないと34ページ中に綴られるが、まさに先に引いた摩訶止観の一節と同様の旨を述べている。
「焼死体を絹織物で覆う」という表現は、このように肉体の表層について述べる比喩であり、大乗でも小乗でも1000年前も今も、この不浄観を得てはみな同様に覚めるようである。
両者とも、性欲・淫欲・婬欲を断つ上で、このような観・想・念を推奨している。

まあ、グロ耐性・スカトロ耐性などを強く備えている私などには向かないであろうし、そもそも集中的な瞑想なども私の性分ではなかったりする。
その私がノーマルな性的コンテンツに嫌悪感を持ち始めている現状も、偏に研鑽の中で綿密にされた思考が、本能や六識にまで作用していようと受け止める。
あるいは日々に続ける行・学(修行・修学)の功徳であろうか。 

仏法の縁を持ち、私であっても暫くはアレコレ淫楽に興じてはいたし、仏法を破った妻帯僧侶が日本中に蔓延するばかりか、世法の性犯罪を犯す事件なども稀にある以上、実際には少し仏教を学ぶだけで性欲や愛著(あいじゃく)を断つことは困難を極める。
ただ己という人間(下人・非人)が、世間的な名利に遠いとの諦観を持ち、世間から形式のみならず根本から解脱せんとの道心を発して仏教に向き合うならば、私のように自ずと性欲は抜けてこよう道理を、最後に示す。
但し、今の私では当然、学も信も浅く、行も智も足らないわけだから、私を最上の手本とすべきものではない。

雖復高眉翠眼皓齒丹脣。如一聚屎粉覆其上。亦如爛屍假著繒綵。 - Asubha Bhāvanā






最近のメモ帳更新一覧
02月03日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/plus-january-2016.html
02月11日 http://lesbophilia.blogspot.jp/2016/02/pc2015121.html (ちゃんとパーマリンク設定しておけばよかった、ほんとBloggerの自動検出は無駄機能な上にセンスねーわ)
02月15日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/2ji-3ji-gokan.html (反映関連の誤操作の影響で何度も指定とパーマリンクの文字列を微妙に変えてくる、未指定では"_15.html"なのに自ら"_15.html"を指定してみれば"15_15.html"としてくるなど、アレコレややこしいくらい変えられる、ここまで歪んだクソ仕様ブログはない、結局適当なリネームを施した)



起草: 2016年2月11日18時
やはり旬な話題を旬なうちに記事として生産し、鮮度あるうちに投稿の出荷をすべきか。
ただし、いつも書くよう、投稿タイミングは前後のペースを考慮して早すぎずある必要性も考慮するから、13年9~12月なら3日に1記事、ある時は1週間、ある時は2週間・・・今は2週間~1ヶ月に1記事といったペースで固定させる。
その観点から、当記事の2月20日投稿は時期も時機も相応にあると言える。

ちなみに本文中、ある2つの記述は依拠とする「偈の一句」がある。
成仏へ導かんと念を懐く仏様の慈悲→「毎自作是念」
このような観・想・念を推奨している→「応作如是観」
共通する字が2つ(作・是)あり、最後に「念」や「観」といった精神的な作用を表す文字が使われる・・・だから何かといえば、私の言葉遊びである。
「念」や「観」を含む「偈の一句」といえば、「念彼観音力」が有名なフレーズか。



ところで、性欲なく2ヶ月オナニーしない、といえばアニメを見なくなった2012年8月から今や3年半であることも連想される。
アニメ業界だとかオタク界隈というものも、商業的・即物的な愛や楽や癒しというもので固まっている以上、私が楽しもうと執着する分野ではない。
一般的なゲーム業界にしても、あらゆる話題に疲れる。
新作アニメ・ゲームは全て蔑視すべきで、ほかのファンと楽しみを共有する願望などは「空虚な夢想」に等しい。

まあ、オナニーにしろ、アニメ・ゲームにしろ、体ブッ壊すくらいシコシコしたり大金ドロドロに溶かすくらいグッズなど買い漁ったり、それで幸せとなるならばそれも良いだろう。
だが、私には少しのオナニーで苦悩や負担が大きく、アニメ・ゲームなどにハマる(著"ぢゃく"する)ことでも苦悩や負担が大きいわけだから、どうして無理に楽しもうとするか。
ご覧の諸君がアニメ・ゲームにハマり続ける生活はどこまでも構わない、仏道は個々人の意思で決定すればよいとは思うが、今一度深く考え直す機会を読者諸兄に勧める。 

本文中に述べたように絵や音楽などの創作関係は、「耽美か享楽か」などのように区別しているので、いくら臨終までに打ち上げられたロケットの燃料タンクの如く、切り離す必要があるとはいえ、暫く楽しんでおきたい。
日本仏教において、歌道だとか文芸だとか伎楽だとか美術だとか武術だとかを嗜む僧侶は当然多かったと同時に、仏道の本質に関係ないから、これらの外道の趣味に執着すべきかは議論が分かれる傾向にあった。 
ただやはり、仏道に背きすぎない(道を外れない)範囲であれば構わないという考えから、寧ろ世事(世俗の職業など)に没頭・腐心したり悪事をしでかすまでに堕落するよりはずっと健全で、例えば現代だと先のアニメ・ゲーム趣味や娯楽(ゴルフ・麻雀など偉い人が好きな遊興やパチンコなど社会悪まで)から、放逸なる自慰行為に飲酒・喫煙といった心身を害する習慣に浸かるより良かろうと言える。

現代三戒「抑自慰戒(抑自婬戒)・抑飲酒戒・抑喫煙戒」的な?
造語「自婬(自慰行為)」を大正蔵DBで検索して、仏教的におかしいか調べると、まず有名な「大般涅槃経(曇無讖訳)」に「若自婬若教他婬」とあるが、これは前後の文脈(若自偸若教他偸ないし若自妄語若教他妄語)から見ても、五戒に関する教示(婬は不邪婬のこと)なので「オナニー」を意味する単語ではない。
ほか、出曜経や梵網経などにも「自婬」のあと「教」 の文字が見られる。
大正蔵に載っていない注釈書「梵網經合註」は梵網経の「若佛子。自婬。教人婬。」の文について「自婬者。自作汙行。教人者。勸他作汙染行」とあるが、これを字体改め読み下すと「"自婬"とは自ら汚行を作すなり、"教人"とは他の汚染行の作すを勧むるなり」となろうか。
「自ら汚れた行いをなす」ことが「自婬」であるが、「オナニー」を指す言葉として説明していると見るには不明瞭である。
また、検索結果で唯一仮名交じりの書として「蓮門學則」に「夫婬欲ハ非梵行ニシテ。清淨ノ道ニソムク。男女他婬及自婬一切皆悉禁ズ」と見られるが、その意は「淫欲とは仏教の行いにあらずして仏道に背くものだ。男女間の性行為および自ら淫欲に耽るなど全ての淫行を禁じる」となる。
よって、ここでの「自婬」とは、「オナニー」の意に相当することが明白である。
 


追記: 2016年3月10日
不浄観ということを思うに、例えば幼少のころに「おしっこ・うんち・げろ」といったものは、実物ならば自分の物は触れたがらず、他人のものを主に毛嫌いし、アニメや漫画(特にギャグ系)などの描写であっても嫌悪したろう。
大概は、人間的(動物であっても)本能によって「これは食物でない」と臭いや外見・味などから察する。
おしっこ・うんち・げろに関わる口腔や性器・肛門など、他人に備わる不浄の穴になぜ子供が喜ぼうか?
小5の私であっても「おまんこ・マンコ」には抵抗あり、小6のときの某掲示板コテハンでタメの女児(男になりたいと語る)が「うんこ漏らしたorz」と書き込んだネタすらも甚だ厭わしく思え、そのレスを機に軽蔑・決裂した経緯もある(これは不浄観というより「女の子がそんなけしからん!心身が穢れとる」という貞操観念によるかもしれない)。
それとは逆に、仏法によって新たに不浄観を得たという状態はどう相違があるかといえば、やはり子供の「無垢(むく)」なる性質と、成長に伴う欲に塗れた「著垢(ぢゃっく、造語)」を経てその「垢重し」の煩悩を厭う「離垢(りく)」の境地といった3段階のうち、無垢・離垢に区別できる。

世間ですら、不純な欲の無く無邪気な状態を「純真無垢」だとか、特に「子供は無垢」と言っている。
それから成長期の欲望真っ盛りな時期や、これが長引けば50を超しても絶えず欲望に囚われて各種犯罪に及ぶ者も世間に多くいるが、そのような垢が重くて愚かしい状態を脱すれば大いに賞賛に値し、特別に「離垢」と呼ぶべきではなかろうか。
元々成長期・成人後も無垢なままでいる稀有の例もあろうが、そのまま仏門に入ればそれも「離垢」と呼ぼう。

私は無垢の性質が強いまま育ったことは学習環境においても大いに認識しうる(小3・アニメ見ない宣言なども同種か)が、エロに目覚めるもとい垢のクセを覚えるや、卑猥な発言を連発してバカキャラ作りに磨きをかけた。
中3ころにはスカトロ・リョナ(蟲・異種も)など先述の異常な性的嗜好・パラフィリアの耐性(二次・三次で好き嫌いはあるが)も付いてきて、寧ろその方面のエロこそが抜けるものと追求をもしていた。
今は耽美面を残すのみだから、それらエロにノーマルもアブノーマルも追求しない。
未だ可愛い女の子イラストには目を輝かせて已まない私であった。
この私くらい凄絶過酷な経緯がなければ、弱冠にして不浄観を得難い。