聖人 大聖人 徳

当ブログでは2015年以降、多くの記事で法話じみた話を書き、活動の多くで仏法を取り入れたり記述に活かした。
2016年以降の当ブログ記事4本では、毎度、抹香臭さを芬芬と漂わせてきた。
今回は、日々に研鑽を絶やさない私の「聖人観」の披歴と、その実行性の記録を交える。

さて、智者・賢者に対する「聖人」とはどのようなお方であろうか?
当記事では、「聖人観」と「体験」の書かれた記録を御馴染みの(?)日記メモより引用し、簡単な解説の後、より分析的に詳述した本論に入る。
私は2016年5月4日11時30分台に、以下のような予証をしたので、日記メモより引用する。

※赤字カッコの注釈は当記事による。

「母親は直すべきところを指摘されても、それ(直すべき誤謬思考や行為)が普通のこと(思考・行為)だと思い込むから頑なに拒む。普通か否かの価値判断を除いて人に言われた旨を受け入れる寛大さもない。元々、恣意的でご都合主義的な価値判断をする人間にはそんな協調性も無かろうが。だから、賢い者はそんな人間にあえてアレコレと指図しても気苦労を負うに過ぎない結果を覚って口を噤む。私も大人しく母の振る舞いには隠忍自重に徹して賢い者でありたい反面、そのように閉口したままでも仁義に悖るようではないか、と二律背反に悩み続ける。正さるべきの(自ずと)正されむを願うほかない。」



果たして翌日、2016年5月5日に具現化した。
何たる奇跡であろうか。
こちらも日記メモより引用する。

「8時0分ころ、小便をしてトイレから出て部屋に戻ったタイミングに、リビングで髪を乾かしながらテレビを見ている母親に呼び出された。用件は、『昨日スパゲティを作って食べたか』との質問であったが、あの流し台の状況は母親が作って食わせたものかと思ったが、スパゲティの皿が1つだけしか流し台や乾燥のカゴに出てない状態に違和感を持ったのみである。どうも夜中に弟が一人で調理して食べたようである。私は簡潔に母親の問いに答え続け、必要以上の言葉を慎んで終えた。昨日に続いてこんなメモ→『智者・賢者は口を慎みます。摩擦を起こさぬ処世術であります。しかし聖人は、たとえどんな結果となろうとも正義を貫き給います。しかも大概は良い結果となりますし、悪い結果であっても気高くございます。聖人の御振舞は是の如しと雖も、況や日蓮大聖人は加之(しかのみならず)、生涯に多大なる御事跡をあそばされたのでありまするから、大の字を聖人の頭に著けて固有名詞となりましょう。大聖人と名づくるは日蓮御一人のみでございます』」

「8時20分に母は突然2階へ上がって弟の部屋ノックし、スパゲティ云々ではなくゴミ袋云々と問うていた。そのゴミ袋云々のせいで目にビニール袋が当たったと言い、不機嫌な経験による怒りを爆発させていた。その中で『○ちゃん(私)に聞いたら×ちゃん(弟)だって言っていたよ!』ととんでもない言い方をしていたが、母親がよくする言い回しで、人の非を責めるときに他人の言葉に自分の怨念を込めて歪めた主張(我田引水)をする。誤解の無きように告げるよう願いたく、悪癖を直されたい。先ほどのメモや昨日のメモを書いた私は、流石に聖人の勇姿を仰いでいるわけだから、言うべきことは言い、知らすべき旨を告げんと奮起した。母親がどう曲解したり反発しようがそれ以上争わず、意味だけを訴える。母親は水を差された思いから、怒りの矛先を私に変えてアレコレ暴言を続けた。」

「8時28分になって再度不満をぶつけられ、『邪魔ばっか・ややこしくしないで・(弟の行為を)叱れなかった』と激昂していたが、母親の主張に対して穏便・丁重に反論した。そうして母親が窮してきたころ、本旨とは別件であるゴミ袋の問題を説明したがってきて何度もキッチンに出てくるよう求められたので、応じてあげることにした。弟がスパゲティを調理する際にゴミ袋の扱いに問題があったそうで、これを直す過程で母の目にビニール袋が当たったという。また、今年度より当地が燃やすゴミのみ市の指定ゴミ袋制に変わったことに関連する話もされたが、元々自分で分別し、燃やすゴミは小さい袋だから独自で出さずにキッチンの大きいゴミ袋に混ぜていることを伝えつつ、10Lサイズの指定ゴミ袋を受け取った。聖人の振る舞いを体験した。」



以上の如く、私の聖人観を主に2度に渡って披歴しつつ、1度目の翌日にして2度目の当日である5月5日の8時台にこれを実行してみせた(そういえば1年前の同日も諫言云々と)。
文章中の聖人観は聖人の御振舞の一端であろうが、それはまさに聖人の御振舞の一端と看做し得ようか?
また、聖人観の極意とは何であろうか?
聖人の御徳はまさに「忍従」および「慈悲」と端的に表現しよう。
わたくしめは、小賢しき智者・賢者まで至るとも、聖人の御徳を体現するに適わぬ器であろうか?



私による母への忠言とは、慈悲のためである。
孝子なるが故の慈悲を以て、四悪道を流転する愚かな母親を諫め、誡め、正しく変えねばならない。
5月5日メモにある「悪癖を直されたい」を指す。

母が正しい時や、母が執拗に求めることに、私は応じる。
5月5日メモにある「求められたので、応じてあげることにした」を指す。

私からは母親に物質的な要望はあまり求めず、母から自ずと与えられる。
かえって私から与えられるものは、渋味の強い良薬であり、その良薬(法華経云: 是好良薬)は、人の病を治すための慈悲から生じるものであろう。 
故に聖人の振る舞いは是くの如しと言え、その御徳は気高い。





長かったろうか?本論に入る

私の「聖人観」は雑駁かもしれないが、日本・中国の思想と仏教の思想の折衷である。
本文では、「忍従」と「慈悲」をあげたが、忍従については別の意味で智者・賢者にもあることは5月4日の文章にも説かれる。
智者・賢者は悪しき現状において足を踏み出さずに隠忍自重に徹してやり過ごす。
聖人の忍従は、慈悲ありきでなかろうか。
悪しき現状を慈悲で以て好転させるためにリスクを恐れず、仮に悪い結果となろうとも結果論として甘受できる。

大聖人の忍従とは、法華経の正義を顕揚して布教する中で、異なる教義の信奉者および権力者から種々の法難を受けた、それを忍ぶという「忍難」である。
あれほどの法難を多く受けられた理由は、慈悲のために他ならない。
一切衆生を成仏せしめる大法を宣布せんがために法華経の勧持品の偈にあるような大難(悪口罵詈等及加刀杖ないし数数見擯出)をも受けられたが、その大聖人の御振舞は「忍難慈勝 (開目抄云: 難を忍び慈悲のすぐれたる事)」といい、私の言う「忍従」は聖人の徳行として「慈悲」ありきの「忍難」である。
「言うべきことはしっかりと言い、その結果に自分がどうなっても構わない」、これは滅私奉公とか自己犠牲とかという言葉もあるが、法華経でいえば常不軽菩薩の修行であった。
聖人の御徳を仰ぎ見る思いである。

※「言わなくていいことを好き放題に言った結果、いつも争いや諍いに発展する」という人格とは全く別である。



「聖人」に関して大聖人を引き合いに出しながら、日蓮大聖人の聖人観を示さないのも些か問題があるため、一応は確認しよう。
まず個人的に思い浮かぶ御文・・・というよりも御書(御妙判)の題号だが、「聖人知三世事 (聖人は三世を知る)」ということで、大聖人が示された「聖人」の徳は「智慧」であろう。
ほか、撰時抄には「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」とある(この"内典"の詳細は不明だが"外典"の方は「戦国策-趙二: 智者見於未萌」か)。
「聖人知三世事」では、「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」と書き出され、その後、儒教、外道(バラモンか)、小乗仏教の二乗・菩薩などと次第に、誰がどれほど過去・未来を知っているか示され、法華経の教主である久遠成道の釈尊に至る。
聖人といえば儒教や道教の思想、この大聖人の御書(儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず)にある通り、現在の状態のみから聖人を定義する。
しかし、大聖人はそれに留めず、過去・現在・未来の「三世」を正しく知悉している者こそが真の聖人である、とお説きになっている。
ちなみに、「その『三世』を知悉する」といっても、「歴史上のできごとなどを勉強して暗記する・未来予測が的中する」という意味でないことは論を俟たない。

同書では自ら「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」と仰せである。
大聖人の仏法においては、現世における尊い振る舞いのみで「聖人」ということにはならない(無論片方のみであっても不足であるから共に必要な前提条件)、実に深遠な法理と拝察する。
その立場から、日蓮大聖人の大聖人たる所以も自ずと見えよう。
同時に、ここで披歴した私の聖人観はまだまだ卑小であり、それをもって大聖人の御一代の振る舞いについて語ることは摧尊入卑であったと。

大聖人を奉じる者たちは、法華経などの大乗経典や大聖人の御予言を疑わず、指針として戴くべきである。
その予言は、単にオカルトの類でなく、妙法の理に通暁して三証の根拠がある「聖人」の智慧を含んだ慈悲の言葉である。
よって、私の聖人観は「忍従 (忍難・忍辱)」「慈悲」「智慧」としたい。
より的確な順序を付ければ、「透徹の『智慧』を持ち、それを『慈悲』の心によって弘め、どう嫌われようと『忍従』する」御徳であり、この3つを完備して「真の聖人」と見よう。
就中、日蓮大聖人は大聖人とお呼びするにふさわしい。
そんな聖人に、私はなりがたい。


↑ここまでの文章を書いた5月6日の翌日、たまたま面白い言葉を知った。
「智・仁・勇」について動画で語っている人がいる。

ネットで調べなおしたが、まさにこの「(儒教における)三徳」は、私の聖人観の3つのキーワードに置換でき、3つのキーワードも三徳に配当できるが、どうしてそう言うかはご覧のみなさん自身で考えて学んでほしい。
動画自体の主題が「和」であったが、この「和」の思想が「異なりを認める」という前提を持つ点も、過去に私が至った答えと符合している。
「和」の略説がされている記事
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/11/10.html





最近のメモ帳更新一覧
4月16日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/04/blog-post.html

4月24日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/04/blog-post_11.html

5月04日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/plus-april-2016.html

最新投稿動画
4月12日 http://www.youtube.com/watch?v=qfDX4-PyPTM
4月23日 http://www.youtube.com/watch?v=zjO2ZmKRL2Q
4月24日 http://www.youtube.com/watch?v=IpXtg7SJNTI
4月25日 http://www.youtube.com/watch?v=87TkRVU_ATI
4月30日 http://www.youtube.com/watch?v=uvvCkJ8_EUg
5月06日 http://www.youtube.com/watch?v=VEAVerL0q3g

4月12日の動画はWebカメラ実写映像のみ、4月23~25日の3本は音声メインの編集動画、4月30日の動画は長めの音楽動画、5月6日の動画は編集+BGMである。



当記事は少し専門的な話をしたが、インターネットなんて便利な道具がある諸君らも、私の教説によってにわか仕込みくらいは容易であろう。
文字数も、最近の記事と比べれば、さほど多くない。
内容が難解なものであれば、実は先の2016年の3記事も、漢訳経典なり中国論文なりパーリ語経典なり英語論文なりといったものを多々引用したわけだから、全容の理解はなお困難である。
他の文言の援用を措き、私の言葉に関しても心得がたいであろうから、それを理解しようとするほどに、深い思考を要し、元よりいくらかの人生観だとか知恵がないと厳しい。

その方向で言えば、私がわざわざ読者の教導のためにこの記事を当・本家ブログに投稿する必要もなくなるが、ほかに投稿する話題もない。
唯一、絵の練習記事が滞っていて話題が蓄積し続けており、そもそも去年12月に起草した下書き記事が未投稿である。
だから次回こそは、絵の練習記事を投稿できる程度に整えて投稿したい。
当記事はそれまでの繋ぎだと思ってくれればよい。



ところで、当記事をここまで読んだ人、いないと思うけれども、もしいる場合は、まあ95%以上のアクセス者のUAでSoundCloudの音楽は再生できるであろうし、以下2016年5月5日朝の投稿から再生が1つも増えていない音楽の再生をして存在を示してほしい。
再生回数の観念が強くて数字を増やしたくないならば別に再生せずともよいが、私は再生回数の高低に執着はないからこそ、同じくその執着や観念のない「貴殿(いない)」が再生することで、存在を示してほしい。
良心のある「貴殿(いない・空虚に木霊する)」ならば、心が通じてくれよう。
https://soundcloud.com/masashi00/nichijo-to-gekijo
一応モバイル版→https://m.soundcloud.com/masashi00/nichijo-to-gekijo



追記: 2016年5月14日
「聖」の字義について詳述した部分を反映せず、消失したことに気付く。
そこでは、甲骨文だとか、「聖」を"ひじり"という和語で訓む例が日本書紀(構成の読み下しかもしれないが)の「何妨聖造」などに見られる、と色々と深く掘り下げた内容を書いたが、残念無念である。
一部の記述だけを復元する。

」の字は「耳・口・王」の字の合わさりに見えるが、旧字体・繁体字だと「王」部は「壬」であり、より本来の字の構成は「耳+呈」である。「耳」の意味が強調されるため、実際に知識が広い人などを指すが、時代が下るとその人々が尊敬や崇拝を集めて神聖視されるようになり、その神秘性が字義に加わった。 (面倒なので中略) 「聖」の一文字だけで「聖なる人」の意味は足りるが、そのような字義が主要となるに随い、別に「人」の存在を強めて「聖人」、あるいは「賢人」といった言葉と同じような用法のためには必要であったろう。(あと、仏教僧に関する話もし、これも元々の和語の後から仏教僧に限定される用法が一般化したされた、等と書いた記憶があるが、こう見れば「聖」の字の原義は「智慧」に近く、仏教僧としての「聖(ひじり)」は慈悲などの徳に溢れていそうである)