親子喧嘩
6月5日の母・弟の喧嘩音声と各種映像・写真資料→http://www.youtube.com/watch?v=enCDlBIKTXc
 
今時の母と下の弟の喧嘩は、かつてしばしば発生した騒々しい親子喧嘩と異質な上、頻発している。
二人の会話が険悪となることは、およそ母親を原因とするものだが、今回話題にする一件や8月27日の草むしり闘争などは弟の不手際などを原因とする。
近頃は弟の暴力も強まり、しかも常態化しているわけで、母親も日々の一挙一動に狂いが出ているから泥沼そのものである(いわゆる精神崩壊が近いか)。

2016年6月5日の外出中、図書館で財布を無くした知的障害の弟と、母が喧嘩した。
まず概要を述べると、6月5日の出来事を日記メモで記録し、その後の知的障害の弟の部屋の「ボンド地獄」については実際の光景が、上リンクの動画に映像として載る。
ほか、同じ動画で「参考資料」と題する写真類も載るが、当記事で改めてそれらの写真を増やして載せる(弟が同日レンタルしたDVD類については動画の所載に任せる)。


【目次】 (過去記事と別タイプ)



【日記メモの記録】

財布 紛失 図書館

6月5日

15時20分、風呂を終えて2階にいた弟が1階へ降りてきて母親に「財布を無くした」と告げた。この弟は母の帰宅(12時50分ころ)から数十分ほど後にそれまでの4時間ほどの外出から帰宅した経緯があるが、今になってこの件を母に告げる動きとなった。母親は、特別支援学校に通学する上での定期券の紛失などを問うたり、セブン系のポイントカードなどについて「ポイントが無駄になったね」と責めていた。ポイントカードについては、そもそも最近まで、弟が正しく使えていない状況などを責めていた(5月22日など)。この際であるからか、無くする人のポイントカード作成などを禁じたり、買い物を控えるように告げた。それからは一旦、両者が争いに発展しつつ、母親から厄介払いで切り上げた。

15時42分、俄かに弟が彼の自室で大きな物音を立て、次いで1階に降りてくるも、それまでは母の反応が感じられない。弟が、母のいる1階リビングに出現すると、母は奇声を発した。弟は母親に怒声を発しながら襲い掛かるが、無論派手な暴力は行わない。その後にも何らかの危害を加えたであろうと見られる程度で、それ以上に判断材料はなく推量の余地もない。再度弟が2階に上がって以後も奇襲が俄かに起きたり、彼をなだめるべく、財布を無くしたであろう図書館へ連絡する展開もあった。なお止まない弟の威嚇に、母は「明日学校行ったり市役所行ったりするから忙しいし腕切られたら何もできなくなっちゃうじゃん」といった反発を繰り返していた。母も弟も2階に上がって以後に2度ほど電話があったようである。16時半からは財布が発見・保管されているとの情報が入ったか不明だが、母親が弟へ現地へ行くよう指示を出し、弟は家を出た。現地たる目的地とは、イトーヨーカドー豊橋店か豊橋中央図書館かは不明である。

17時台に母は家の周辺をうろついたり私の部屋の窓の蜘蛛の巣をほうきで払った後、玄関でおかしな独り言を始めたと思いきや、その場で数回大きな打撃音を立てた。その後は2階で数十回も同じような打撃音を連発していた。この音は、金槌か何かで打ち付ける音のようである。過去に弟が何かを破壊した際、金槌で損壊個所を修復していた。もっとも、現場も見ていないしどういう損壊の具合かも知らないため、金槌での修復など実際に行っているかは断定ができない。参照: 6月21日 8月27日



ボンド遊び

6月6日

11時5分、洗濯物である上下スウェットを母の部屋のバルコニーに干し出してから弟の部屋に上がると、凄惨なボンド地獄が広がっていた。弟は木工用ボンドを無駄遣いして遊ぶ悪癖が今年から確認され、最近も一度、ボンドを使いたかった母親を使えずに困っていた。彼には元々、紙を塗りつぶして消しゴムで消し、消しカスを丸める遊びがあった。この度はボンドの中身を部屋のTV付近に垂らして乾燥させていた。弟としてはストレス発散のつもりであろうが、母親の与えた悪弊の大きさには両者を憐れまずにいられない。母親の非は悉く悪業となって悪果と帰しているが、そういった悪果には一喜一憂し、また他人の悪行とのみ見て他人への批判の口実としかしないで自己反省などまるで無いから、修羅と畜生そのものと見る。

(中略) 今まで休日に稀に来る客の車かと思っていた。2階の弟の部屋からI家の男性を見ると、禿頭が分かりやすい。なお、前日彼が無くした財布が彼の手元に戻ったか確認したが、部屋を探す限りは確認できない。彼の財布の外見は、黒っぽいディープグリーンの折り畳み型である。

(中略) 前日の夕に続き、今夕も弟が一人で料理をして自分で食べた(当記事: 今年から弟に定着した口癖「お母さんの料理まずい」関連)。彼が1階に滞在した時間は、17時過ぎから17時40分ころまでである。母親に色々注意を受けてから料理を始めたため、彼は肉を焼いて食べた以外は何かを食べた様子を感じない。他に食べたものがあれば、菓子類くらいと見る。前日メモにあるよう、米やご飯がなければ、麺類の調理も許可されていないのであろう。母親は例のごとく、20時台後半から1階リビングに居座り始めた。



ボンド地獄

※6月7日に入り、2階の弟の部屋は前日よりもボンド地獄が拡大し、彼の机の端にまで広がっていた。
6月7日であっても、弟と母親が帰宅してから2階での喧嘩が起きたり、夕食は別々となっていた。
寂しい話だが、20~21時台に1階リビングにいた母親は、一人でテレビを見ながら大声で途切れ途切れの笑い声をあげていた。
2人の関係という先入観が色眼鏡となって母親の惨めさが浮き彫りとなる。
「母親は浅慮で、一喜一憂しかできない残念な人である」と身近にいて痛切に思う。
だからこそ、ちょうど一年前である2015年6月10日に「不爲實於無根草 我亦如是而自戒」と漢詩を作った(忠実な原意は多少異なるが本意でいえば母親を反面教師にしている点で一致)。
ところで、同日6月7日と財布喧嘩以前の6月2日に母親は、「脳神経外科」と称する医療機関で受診(脳MRI撮影など)し、いずれも2種の漢方薬を多く処方されたようだが、どういう症状を自覚し、そこでどういう相談をしたかは不明である(薬の俄かな摂取は薬剤師の資格を持つ人間の哲学でないが、母親の場合にはよくある)。

※記事投稿日である6月8日13時台の様子としては、ボンドがすっかり乾いて透明度を増し、はがれやすい状態のものと、まだベッタリとしていそうなものなど、程度の差がある。
どういう状態であれ、6月5日以後のボンド遊びはストレス発散でなくとも、狂乱の故に常軌を逸した奇行である。



【参考資料と解説】

知的障害の弟が財布を無くした問題に伴う親子喧嘩が発生した6月5日以前より、母親が連絡帳の中で、家庭での彼の暴力性を教職員に訴える記述が見られる。
2016年6月5日11時に初確認をした(当時2人は外出中でありまだ財布の問題で喧嘩はしていない)。
以下の写真2枚の場合、恐らく5月末~6月4日の期間の文章である。
写真2枚は共にカラーでなく、色調を明確にし、モノクロ化をしてある。
これを掲載し、一応、私の方でも原文の通りの表記でテキスト化をしておく。

特別支援学校 連絡帳 保護者 教職員 PTA
例1: 先生に云っても仕方ない事と想い 云っていませんでしたが 日々暴力がひどく困っています。ここ2、3日は包丁を振り回し、死ね、殺してやると事あるごとに叫んで暴れます、何とかなだめて、静止させていますが、何とか卒業にこぎつければ あるいは 中退させるべきなのかと思う日々なのです。本音を云うと療育は難しい。→裏面へ (以下略、教師の返答も少々あり、「そういう年頃の子供は親をウザイと思っている(彼もウザイと直接言うことはある)」、「少し距離を置いてみてはどうか」、「同じ問題で悩んでいる障害児の親御さんはよくいる(単純な一般化)」等)

所感1: 「先生に云っても仕方ない」という考えがあり、そもそも他人に相談する発想も本来は持ちえない母親が、ようやく他人に胸襟を開こうとした心境を見るが、現状は教職員と連絡帳で簡易の文通をする程度しか手段がない。こんな母親が心理カウンセラーの講座だか、資格もオフィスも取得しないで「サイコセラピスト」を名乗って架空のクリニックの所在地付きでホームページを公開していたわけだから、精神的な異常性を疑う。現実主義者が現実に乖離する逆説的な道理である。低俗なテレビ番組を見てゲラゲラと笑ったり呟いたり、ほぼ無意義の勉強の類をするなどの時間を、少しでも自身や家族に関する身近な思索に当ててみてはどうか、と思うが、慈悲も徳も欠ける不適格の母親には難しいか。真面目に考えずにいて困る者は、結局、母親自身であるが、そういった自覚も無ければ改善への努力は不可能に近い。だから、事あるごとに喜怒哀楽や一喜一憂を繰り返しては、ほとぼりも冷めぬうちにだらしない精神状態に戻る。なんと怠慢の輩であろうか、慈悲や徳がある母親の姿ではない。こういった哲学性も無いうちは、また無機質に薬剤師の仕事へ戻ればよいものを。



特別支援学校 連絡帳 保護者 教職員 PTA
例2: インドに 私の インド人の 友人が数名います なので インドに災難が起きる事を 毎日 のぞんでいるのです。毎日 家庭では インドに災難が生じれば「お母さんがかなしくなるでしょ わ~い わ~い」 と云われてましてどうしたものかと困っています。とに角 毎日 絡まれてます 本日は"針"攻撃でした (私を)針山に見たてて刺す行為です。(教師筆: 詳しく書いて頂いてありがとうございます。)

呑気な弟の記述「今日はインドをかいじゅうのすむところにすることをそうぞうしました。 (教師筆: いろいろなことを想像して楽しいですね!)」

所感2: まず、インド国内にインド人の友人がいるという話が誰にでも滑稽であろう。そもそも母親に「トモダチ」らしい友人はおらず、それが海外になど到底いようもない。親戚とすらまともに連絡を取りもせず、認知症を患って手に負えない母の実母である母方の祖母が、その長女たる母に尻拭いを任される程度の間柄でしかなく、俗に言う腐れ縁しか持っていない。仕事をしても、職場の利害関係から一時的な仲良しごっこを演じる程度であった。インドの友人といえば、海外旅行ブームのバブル時代に大学生だった母親が、少しインドなどの現地で人と交流したことを「友人」であるように言う程度でしかない。続いて揚げ足取りとなるが、「どうしたものかと困っています」という一節は、まるで、あの母親に「寝とぼけ」と評された父親が2014年10月1日22時28分に母親へ送信したメール中の、「どうしたもんだろうか」の一節と酷似している。嫌い合う夫婦が似た者同士とは、皮肉で笑える。

知的障害児 手紙 絵 イラスト 殺人
オマケ・5月16日発見「殺人のメッセージ(画像クリックで動画ページへ)」



【重ねて所感を述べる】

※実は既に5月7日の日記メモで「まさに親子喧嘩の本質を観ずべし」と書き出した文言に、同様の意味が記述されている。

こう見れば、自覚も反省も努力もできない両親や弟らであり、両親は度重なる夫婦喧嘩・別居を経た結果、離婚に至った。
上の弟は2012年8月に我が家から追放された経緯もある。
しかし、母と下の弟の現状は、別居や離婚や義絶や勘当という、生易しい程度に留まらなさそうである。
下の弟は衣食住を著しく母に頼っており、それが強い反動の法則(振子や天秤)で、殺害によって親子の縁を切る展開も想像し得なくない(我が豊橋に隣接する豊川市の一家5人殺傷事件が重なるも適切な例ではない)。
私としては、よもやあるまいと思いたいが、さてどうなろうか。
殺害には至らずとも、常態化している険悪な関係や、彼の暴力性が緩やかにエスカレートしつつあるから、いずれは凄惨な展開も考えられる。

彼らのような反省・努力の精神性に欠け、何ら哲学性を持たない者たちは、さながら畜生であり、修羅であり、私の付言も忠言も諫言も一笑に付するか拒絶する以上、畜生界や修羅界の「本末究竟」を待つしかない。
事あるごとにブチ切れて喧嘩したり一喜一憂に終始する様は母親に限らず、父親も同類で、元夫婦が似た者同士であるものの、互いに嫌うのみで反面教師とせず、相手を一方的に非難したり、子供に責任転嫁さえする。
また母親の畜生らしさは母自身が嫌う実母=私の母方の祖母である友子さんとよく似ており、悲鳴の声色もそっくりで、「実に親子なのだな」と嗤う。 



このように度し難い者とは、個人レベルに限らず、素晴らしい仏教や和の思想をいくら聞いたところで、理解が持てない国家や文明もあろう(支配下の民衆も同じ)。
泥沼状態は、今や世界的規模に見られているではないか!

イスラム圏の争乱が難民を生み出し、難民を受け入れる人権屋たるEUに加盟する欧州各国の民衆が不安と不快に苦しみ、その国々の民意に閉鎖性や排他性が生まれて保守政党や極右政党が台頭・躍進する。
これは中国やロシアや北朝鮮の今なお止まない強硬的な姿勢や、台湾の独立派政権(蔡英文総統)の誕生、スコットランド民衆がブリテン連合(GB)を嫌って独立を望み、イギリス(GB)民衆が欧州連合(EU)のしがらみ(移民政策の悪弊)を嫌って離脱を望み、アメリカ民衆が異常かつ浅薄なる大統領候補トランプ氏への熱烈な支持を起こすなど、類例は数を知れない。
もっとも、私は彼ら余所の国の政治体制に、批判の横槍を入れる意思はないが、理性に欠けたナショナリズムの世界的な加速は懸念すべきであろう。
オバマ大統領の核軍縮も、現状は実質的な進展が鈍く、軍事強国を自負して核廃絶の先導を謳いだした北朝鮮もお為ごかしであるし、どこの核保有国も、諸刃の剣である核兵器を手放せないですらいるのに、世界への仏教や和の思想の流布を望めば、どれほど困難であろうか?

是くの如く国家間の疑心暗鬼は著しく、世界情勢は殺伐としており、正しい議論(和の心)や譲り合う余裕(和の心)はもはや見られない。 
母・下の弟(加えて父や上の弟や私自身も)のみならず、世界中の人心が、今までの近代文明・物質文明とは比べ物にならないほどに荒廃してきている。
自他は不二、親子も不二、更に依正不二と来れば、こういう時代や家庭環境にある以上、「我関せず・他人事」とは有り得ず、私だって狂ってしまいそうである(実際に狂っていようといまいと仏教徒はその自覚を持って反省・努力ができる)。

人心が荒廃しているから、私が一応は仏教などから高尚な精神性を説いて人々の救いとしようとも、その教説を人々は聞かず、聞いても理解せず、理解しても関心を持たないであろう。
結局、その慈悲や情けは、己に帰するのみとなる。
仏教での慈悲の修行は、他人を救い、自身の心を養う功徳がある("情けは人の為ならず"という俚諺は"ならず=ナリ活用否定形"の本来の文法で解釈しても語弊がある)。
「他人を救いたい」という道心から仏教を説いても語っても、詮ずる所は自身の功徳とする修行の一環である。

あらゆる修行は自他の功徳として回向されるはずだが、今の末法・末代の凡夫には機根が限られている実感が身に染みる。
多くの狂える他人は、その功徳を受け止めず、漏斗のように漏らしてしまう。
仏教は「一切衆生悉有仏性」といって一往は凡夫の機根の平等性を認めても、再往は自覚の無い者たちが「難解難入」の法門であろう。
よって、これからも自他の功徳や利益を願って私は仏教の研鑽と布教をネットで行うが、強く願わずに自分の意志のまま続けよう。



仏教や和による人間関係の円満とは、世間に言う「お互い様・喧嘩両成敗」を自覚し、相手の悪はもちろん、自分にも非があろうとして、実質的な原因を云々するよりも、互いの反省を促して今後は予防できるようにしたり、争いを不必要に発展させない努力が肝心である。
もちろん、実質的な原因をも、その後に考慮するようにして多方面から改善と予防に努力すべきである。
単に相手の悪に寛容で大らかで、虚心坦懐に自虐しても思考の放棄である。
子供向けのアニメなどによく、いたずら好きの人物と、しっかり者で真面目な人物が喧嘩し、そこに第三者の仲裁で「いたずらして悪かった、ごめんね」、「こっちも怒って酷いことを言っちゃった、ごめんね」と仲直りするシーンなどがあるが、これは和の思想、和合や調和の姿の一端である(同時に相手の悪も治すよう忠言し合って互いに了承すべきでもある)。
その、絵に描いたような美談の真似はできずとも、和睦への努力はしてほしい。
 
また、自他の悪に限らず、自他の善を認め合うことも大事であろう。
善悪の判断基準は、仏教が理解できていれば自然と整うので、ここで定義しない。 
自他の善も悪も、実質的に、実利的に中身を問うものではない。
何が善で悪であり、片方が悪である理由をぶつけあっても反発するのみであろう。
互いが認め合う心を以て接することで、自身の心を養い、他人の心を救う「自利利他」の徳となり、相互に有益であることを自覚すべし。
無論、現代人にはこの意義は難解であり、況や先の度し難い者たちをや、である。
最近の動画で私が歌った歌の歌詞ではないが、少しずつでよいから仏教という真如の光明を見つめ、改善への努力をしてもらいたい。

 

今、私は法悦を覚えている。
最近、リアルでは同じ趣旨の独り言(世界的な異常傾向・自覚と自他の反省と努力・末法の凡夫の機根の低さ・仏教の価値を説く慈悲は自他に及ぶものだが現状は自分を養うのみとしかなっていない)を続けてきたが、母・弟の喧嘩を機縁としてこのような説法をネットで行える。
こういった経緯のために、私の日々の独り言も憶念も無駄とならず、自他の功徳を育む慈悲の修行に顕れる。
ところで、最近の口癖である「自覚・反省・努力」とは、「戒・定・慧」の三学のように、並び順を追ってこそ成立するわけであり、仏教用語に置き換えれば、自覚=信心(信仰・信解)、反省・努力=破邪顕正だと思ってもらいたいが、思えば2014年10月の父への諫言メールにも「自分にも非があることを自覚し、改心せねばならない」と同じ趣旨の文言が見える。
仏教的に自覚すべきことは、人間の誰にでも具わる仏性(自己の可能性)という性善や、反面、人間の誰もが罪を犯すという性悪であり、その生来の善悪を共に自覚し、反省・努力の破邪顕正を、日々に追及する。

再度、この意義を述べる。
「自覚」は、己の善悪の2つの性質に気付くこと(善は仏性・悪は罪業)。
「反省」は、己の善によって発菩提心をし、己の悪の懺悔滅罪をすること。 
「努力」は、信解・持戒・禅定といった修行に精進すること。
そうして「改善」を得ることが、仏道では智慧を得ることに通じる。
日々にこのプロセスを繰り返し、仏道ではついに悟り・解脱に至る。

仏教の教えは、私のように理解できれば、最上の教えであると感動に浸る。
今の国連であるとか、オバマ大統領などの人権擁護・民主主義・平和主義の理想は、古来二千有余年の仏教で既に理論として完成していると言っても過言ではない。
また、民主主義と社会主義の良い面が自然と含有して実現された古来日本の「和」の思想に立脚した政治も必要である。



しかし、仏教などでの平和的解決法は、今の時代だと、先述の通りに人心の荒廃もあって机上の空論に近い。
そうなると、まさしく「教滅尽」のようだが、ここに顕正会の教義を思い起こす。 
「諸天善神」の力用によって世界・日本国に災難や政治分裂や戦争を起こす(自界叛逆難・他国侵逼難)ことで、「正しい仏教(顕正会・日蓮大聖人の仏法)以外に救いがない」と自覚させ、それで仏教が広まるという。
高尚なる教義や道徳を他人に宣布しようとも、他人は理解しないし興味も関心も持たないので、諸天善神が仏法のために理解を促す客観情勢を生む、という。
人々が仏教を信じて行う功徳が、個人から集団や国土や世界全土(一閻浮提)に満ちて災害や災難を鎮めるという。
これこそ窮状のどんでん返し、デウス・エクス・マキナではないか!
 
多少強引のようだが、こうならない限りは、仏教の布教・広宣流布・弘法・弘通が困難であろう。
顕正会などの教義は、一番簡単な解決策が唱えられていて信ずるに値する(教団に所属する願望は無い)。
一見して危険思想と思われようが、何もオウム真理教のハルマゲドン教義のように人為的なカタストロフの画策はしない。
諸天善神の力用によって自然と国土に各種災難が起きるというのであり、人為的に起こせば本末転倒となるからである。
逆に、いわゆる「他力本願・絶対他力」のような教義でもなく、やはり顕正会員など「正法を行じる者たち」の苦労も同時にない場合はバッドエンドになるらしい。
ここら辺のバランスが絶妙に取れており、広宣流布という勝利の甘露を味わおうと、彼らは日々、折伏と称する布教活動で革命闘争を続けているのであろう。



私もまた、熱心に真摯に仏教を研鑽し、慈悲の修行による自他の救済を願ううちに、自然と信じてくれる他人が増え、自身の現世における健康や延命や、輪廻転生からの解脱も叶う果報を、仄かに信じている。
もっとも、今の私が熱心で真摯な修行者であるとは、到底言えないわけだが、その自覚があるからこそ、反省と努力をして改善に向かうのではかろうか? 
今までの人生はその積み重ねであり、今からの人生も果てしない追求は続く。

やはり読者、全日本人、全人類に、少しずつでもよいから、この仏教を見聞させ、 少しずつでもよいから、理解を得てもらい、そして自身の生き方に反映してもらいたく願う。
私のブログ活動で、主に2015年以降(最初は2014年6月)に仏法をつまんで語る記事が増えたが、主にこの慈悲からその意欲を生じさせている。 
それで仮に、一人として私の言葉に耳を傾けず、心で受け付けず、理解をしてもらえないとしても、その実質を問わず、すべての慈悲が自身の功徳に還元されるのだから、悦ぶべきであろう。
素晴らしい人生を歩ませてもらった歓喜を覚え、諸法や諸仏や万物に感謝する。





5月22日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/idol-and-idea.html

6月02日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/plus-may-2016.html

最新投稿動画
以下のほか、YT日記チャンネルに多数あり。
5月22日 http://www.youtube.com/watch?v=L6ZdAF3Y5T8
5月28日 http://www.youtube.com/watch?v=sZiVWuhTUtU
5月30日 http://www.youtube.com/watch?v=XBATZO5mKFg
※重述所感の段に「最近の動画で私が歌った歌の歌詞ではないが、少しずつでよいから仏教という真如の光明を見つめ、改善への努力を~」とあり、動画へのリンクもつけてあるが、5月30日投稿動画はその動画である。



「不爲實於無根草 我亦如是而自戒」という自作の漢詩について、今後投稿予定のメモ張記事より解説文を引用する。
2015/06/10の日記メモに前半部分が読まれ、後の趣旨から2015/12/19の日記メモでこの二句版に増強した。

母親がどうしようもなく「残念な人」であることを示す際に詠んだ詩であるが、それは父親も同じように「残念な人」である。一応、親や先祖には日本に生まれ育ち命を繋いだ功労・恩恵に感謝をするものの、両親への尊敬など誰ができようか?その末裔であり、子たる私もまた「残念な人」であるに違いなく、夫婦も親子も不二の状態であるという東洋の思想から「我亦如是」と続ける。しかし、その東洋の思想の理解はそこに留まらず、愚物の親あってその子であるからこそ、自戒する心を持って努力しようと謳っている。これこそ、仏教徒の姿勢ではないか。他人がクズならば自分もクズである。その自覚があるからこそ、成仏や往生や涅槃など、いわゆる「解脱」という境地を目指す努力を仏教徒は行う。同じクズ=全人類=凡夫でも、自覚のあるクズは一歩進んでいる。


喧嘩の本質は、世間に言う「お互い様・喧嘩両成敗」である。
これらの言葉は、互いの身体能力や知的能力が等しいためにその者たちの間で喧嘩が生じる、という単純な解釈に留めず、互いの精神レベルの低さが相似しているから喧嘩に走ってしまう本質であると捉えねばならない。
もっとも、一定の身体能力や知的能力があれば、等しい場合は殴り合いの衝突が危険であるという認識を生むわけだし、先のハード面の等しさの理論も排除しない。
また、対峙する者同士の精神レベルに細かい優劣を求めてもいけない。
どちらがどう優れている、と相手を褒めても貶しても、自讃や自虐をしても本質的な解決には遠い。
互いが、その衝突の原因である自覚を持ち、反省し、予防の努力を常に心がけ、再度衝突しそうな状態に進んでいる意識があれば、平常心を維持すべきである。
怒り、憤怒、瞋恚のために、普段の穏当な判断が多少失われ、冷静な分析に支障を来す。

※世間で「いじめは被虐者・加虐者どっちが悪い」という議論があるが、そんな論題では平行線のままとなり、水掛け論である。問題の当事者は、みな悪を持っている。単に高圧的でも単に弱腰でも、精神レベルは低い。個々のケースの細かい原因などは、論じるまでもない。いじめる者は優しさを知り、いじめられる者は勇ましさを知り、更に互いの弱点を知り、少しの問題にも感情が先走りせぬよう自制するなど、相互に自覚・反省・努力をすれば解決し、いじめ発生も多少は予防される。まあできれば、ね。現代の人間には無理か。今なお件数が増加する児童虐待も人心荒廃の一端だが、親から子へのしつけ・子供の失敗(飲み物をこぼす・言うことを聞かないなど)の改善策は多々ある中で、子供の失敗に腹を立てて暴力に手を出す親がいる。それ以前に子供への疎ましい気持ちやいじめたい気持ちがあると既に大問題である。問題のある親の元では子供も多くの問題を解決できずに育つか、大人になる前に命を落とす。


私は何も、喧嘩をしないでいるために思考も捨てて行動も捨てるという極論、敷衍すれば人間がみな死ねばよい、といった極論を弄しはしない。
それこそ、仏教に背く「虚無主義・厭世的思想」に陥る。
虚無主義の悟りは「狭い中道・絶無」であり、仏教は「広い中道・超越」と思ってほしい。
私の母は何事も中途半端と両極端を極めているから、分裂型両極端であり、そのために一貫性のない人間ではあるが、私は広大深遠ながらに玄妙深絶の中道の仏教に根ざした思想であり、母と私とで真逆である。
仏教徒は、やるべきことはやり、言うべきことは言う反面、やるべからざることは抑え、言うべからざることは慎むといった、絶妙なバランスを理解せねばならない。

・・・それが理解できる人間ってそういないし、理解できても実践は難しい。
繰り返すようだが、今愛知県内で共に住んでいる母親や下の弟、加えて埼玉県内に住む父親や上の弟などは普段、そういった自覚が無いから反省も努力もせず、その愚昧なる境界の本末究竟まっしぐらである。
人から言われても、反発するか、理解ができないまま無機質な社会生活を続けて毒された両親はもちろん、基礎的な理解能力に乏しい2人の弟も度し難い。
人間だから仕方がないというか、末法の凡夫、現代人だからか?
やはり、私の慈悲も、他人には詮無く、読者もまた然り、多くの人類もまた然りとなれば、自ら功徳とするばかりで「大乗」とならない。
それでも、慈悲は捨てられないから、いつかは一人でも多くの人間に甘露の法雨を恵み、真如の光明で照らそうと、研鑽や修行は続けてゆく。
強く願わず、強く求めぬがままに。