髪 切らない 6年 1m 1メートル
当時の写真と今まで過程の写真を比較掲載(各年10月の写真を用いたが2012年と2016年の写真は8月) 

長い髪で1mを達してきつつ、1歳から術後ハゲを持つ私である。
2010年8月の1000円カット利用を最後に、特定の条件での散髪・断髪などが一度も無い時間が続いている。
その特定条件といった、こまごまとした定義付けは差し置く。

髪を伸ばすきっかけ・動機については2014年12月14日投稿の記事で「自・他」の二元論に「無」という中性を加えた三つの要因を挙げ、それらが一因に限らずして複合的に関係している、と哲学的に考察した。
仏法に「自・他・共・無因」という力の作用の区別(四性計)があるが、これを知らずしてそれに準ずる分析を行った当時の私の卓見には感動を覚えた。
私自身の主要な変遷としては、無(2010~12年)→自(2013年以降)であるが、より達観すると、他者との相関性が無の因子や自の因子を向上させているとも言え、やはり「これ一つ」と言い切ることはできない。
難しいながら端的に換言すれば、「相対性の縁起」である。
しかし、強いて一つに限定するならば、無(2010~12年)→自(2013年以降)とするのみ。

無の因子が強かった当時の状況について、当該記事にはこう綴る。
「無」の性質は私のように特殊な境遇にあった者くらいだ。それは、髪を切ることを強いられず、尚且つ伸ばすことも阻まれず、だが、伸ばしたい意欲の沸く伸ばす価値を見出すにはまだ早い当時の私のようであればこそ。切るには然るべき場所、当時なら床屋(1000円カット)が行きつけだっただろう。2011年4月の豊橋への家出以降、気兼ねなく入店できるその種の店は、徒歩で行ける範囲になかった私は我慢せざるを得なかった。そして、自分で切っておかしな髪形になるという失態も避けたかった。
この文章に見る状況は、他人の存在が介しないながらに外的要因の拘束が見られるため、ある意味で「他」の因子と見られなくはない。
無を要因とする場合、いわゆる「無為自然」の姿、仙人のように生きてあまり気にせず、無理をせずに為すがまま為されるがまま為さぬがままに自然と伸びる状態が望ましい。

しかし、それほどまでに超然と伸ばすことは、超人でもない多くの人間や、今の私であっても大変厳しい。
日常生活で様々な支障が生じてくることは論を俟たない。
前髪が短いうちには短いうちの違和感、伸びて来れば新たなる違和感が付き物であり、私ほどに伸びても問題が消えては生まれる、不生不滅・不増不減の如きモグラ叩きが続く。
物事は完全に消滅することなく、消失は姿を変えた誕生でもあり、誕生も旧来の物事の消滅であり、それを「空」と仮に名付けて中道と説き云々。

以下に、そういった問題をまとめてみたいと思うが、今の私にとっては特段大きな支障とならず、問題視するにも問題視はしていない。
なぜならば、伸ばし続ける意志を持ち(自力)ながらに伸び続けるもの(無為)とみなしているからであり、問題の生滅を「空」と知っているからである。
余人にとり、難解の言説だが、私の心境は「言語道断(不可説)」である。



日常生活での問題

今の髪の長さの場合、長いために座っている状態では床を撫でるが、そこから立ち上がる際は髪を一本でも踏んだまま立ち上がらないよう、多少の注意を払う。
座っている状態から立ち上がる際に髪が抜けることは稀にある。
伸ばし続ければいずれは直立でも地面に触れたり、地面に引きずるような状態になる、と想像に難くないが、この懸念は現状において憂慮すべきでない。
ほか、風呂場で髪が床に触れるとか、私はもちろん母・弟でもあまり使用しないから洗われることの少ない不衛生な浴槽に触れるといったことは今、あまり気にしていない。
料理・食事などでは様々な行為の中で髪が料理に触れたりもしそうだが、思えばこの注意は、前髪の長さが半端な時(特に2011年中)、前髪が口に運ぶ料理に付かないように当時は多く要求された。

残りは、何といってもトイレ・便器であろう。
トイレでは、あの絵のような状態を忌避し、髪を右にまとめ、前からマフラー状にして首に巻き付ける。
偏袒右肩の意義からすれば、髪は左にまとめる癖を定着させたい。
このように、便器や便座、局部やその排泄中に、そういった場所で髪が留まる状態を回避している作法があるものの、それでは毎度のトイレが煩瑣というものであるから、先述の「問題とは完全に滅する(解決する)ものでなく別の姿に変わって生じる(発生する)ようなもの・不生不滅」と「空」の義を述べた内容に通じている。
問題に絶対的な消滅も減少もない、これは私が説くだけで俄かに理解できる教理ではないので、読者が日々仏教を学び、思考を絶やさずにいれば、深く理解できよう(私の文章を熱心に読んでくれる読者もいないのにそんな真面目に思考する読者など皆無)。

髪とは関係ないが、トイレでの作法は2015年9月5日の日記メモに「(前略) トイレに行く。座せば、私の流儀として常に反射的に印契のようなものを両ももの上で組む。起きたばかりでだらしなく腰を曲げることも、すぐに姿勢を正す。」と書かれる。
トイレでの排便促進の方法については「トイレに移動して便座サマパバ(サマタ・パヴァナ)を行った。畏まった座り方(両足揃え背筋を伸ばし手を太もも・股間の上に置く)のまま便所においてひたすら念ずること20分、陰部の菊は開花した(2016/02/08)」とか「『排便の秘術(過去に何度も綴ったサマタ・パヴァナとはやや異なる)』と称して脚を少し閉じ、背筋を伸ばしながら両腕を上に伸ばして下すなどもする(2016/07/27)」といった文言もある。



今後の展望 

先の女性2名に対する説法動画でも、髪の長さを問われて自分は今後も切る予定は無いと断言した(8:30-)。
既述の通り、私は髪を長く伸ばそうと願いながら、自然性に任せて伸ばすという、自と無の因子を兼備している立場を示した。
今や長髪の美徳をかまびすしく説こうとも思っていない。

これを他人が無理に切ろうとするならば、まさに同じ動画で、また過去記事かどこかでも書いた通り、全て剃髪してしまってよいくらいである。
仏教を学ぶ以前から、そういった考え方を持っていた。
極端で過激な発想かもしれないが、この意志は今も変わらない。
ただし、今と昔(2014年以前)では価値観も異なるし、その短髪嫌悪でもないが剃髪するという発想に別々の理由もある。

髪への意志、その心とは、過去の本家記事・メモ帳記事・日記メモ等に何度も見られる歌の通りである。
「我が日々の 永かるべきは 黒髪が 筵を撫でて 色抜けるまで」
変なセリフ「長髪居士、断髪せられて曰く『髪切られなば已に死せり、何の恨みかある、一毛だに惜しまず、菩提の心を発して唯だ世を遁れんと願うばかりなり』」




前回記事の後記箇所で「音楽動画」に関して触れたが、上記YouTubeリンクは、まさに音楽動画である。
絵の練習記事は来月に投稿すると考えているが、延期になる可能性は否めない。
掲載できる分量は今、絵の練習記事2・3回分ほどある。
8月以降もPCや紙に多く絵を描いてきたため、間延びするほどますます蓄積してゆくようで、読者が読むペースを鑑みると多少の取捨選択が必要となりそうである。
まあ、あくまでも読者が読むペースを想定した場合の話であり、そうするには及ばない。
ただ私の良心と記録精神を根本に記事を作り、投稿してゆく所存である。

当記事投稿以後の即日作成・投稿した動画 http://youtu.be/97garI2716g