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絵の練習記事でのナンバリングタイトルを停止する。
今回の掲載範囲は、A4紙面では2016年9月8日~9月26日に描いたもの(9月16日スキャン)の1枚である。
ノートPC付属タッチパッド描きの絵は、9月中にあまり描いていなかったため、載せられる画像は1つのみであり、今回は紙面のものの後に掲載する。
なお、改まって注記する必要も無いと思うが、2012年8月以降はアニメ類を視聴しない(定義)でいるままであるし、現在も視聴の必要性を強く感じていないと同時に、嫌っているわけでもない


A4 スキャン 紙面 絵
9月8日に最初の絵を描き、9月26日に最後の絵を描いた紙面である。
今回、改まって注記するが、脇メモ類を消さずにモザイクを掛けて残す場合が多い理由は、そこに脇メモがある事実を閲覧者に示す意味がある。
そういうつもりで紙面の絵の加工を行ってはいるが、白く塗りつぶすなど削除する場合もある。



いつでもどこでも晴れやかに

明朗



9月8日、あの7月17日から描き始めた紙面が9月6日にほとんど余さなくなった状態を契機に、新しく従来と異なるA4の紙(紙の厚さ・変色しやすさなどの材質や罫線の特徴が異なる)で描き始めた。
その1つ目は、不安定な天候(写真)から発案したイメージによる絵と文章である。
「いつでもどこでも晴れやかに」という見出しを、比較的、後の段階になってから付けた(見出しとその周囲の脇メモは掲載しない)。
結局、この9月中は長く激しい雨や天気雨や俄か雨の悪天候が終始続いた。
9月中の作業を振り返ると、多少の集中ができたものと自己評価する。
ブログ上の掲載用にコマを3分割し、横幅を780pxに統一するために文字の配置を著しく矯正したが、一つに連なった元の状態に近い画像も別途アップロードした(png と jpg)。
その画像の方では漢詩(不可思議矣、雖叢雲厚甚、實日輪赫赫、去而後無殘)が省かれていない。

絵のテキストについては、私たち地上の人間が空を見ると、雲が蔽う空模様にはただ「曇り空」であるとしか思わない(曇り空についてもっと考えても雲の厚さや雲行きを考えて天気を予想する程度)わけであるが、そのような時でも太陽(日天・日輪)は相変わらず燦燦と赫赫と輝いており、その事実を大乗仏教の本覚思想と重ね、「雲が去ってしまえば同じ光をまた受ける・物事は簡単にゆかないと思うが、きっと私たちの心も本当は同じ」と記した。
※無論、雲が厚かろうと薄かろうと地球の大気の層は常に水蒸気があるとはいえ、雲が去れば曇と認識される状態とは地上に降り注ぐ光の強さに雲泥の差があろう。また、悟った人でも必要最低限の欲求が残る点はこれに似る。ほか、夜の場合であっても地表のどこかは必ず昼の時間であり・・・とは関係のない話であるので無視する。譬喩・たとえ話においてはこういった雑念を無視し、言わんとする旨を的確に捉える必要がある。

「私たちの心」がどういう状態である時に「太陽と同じ」であるかと言えば、明朗な状態や鋭敏な状態など、色々と解釈できるであろうが、記した時の真意は、心優しい状態である。
慈悲の心・人間的な思いやりの心や、「良心の呵責」にある道徳的な良心のことである。
時代や環境によって良心や善意の基準は異なるであろうが、おおよそ「人間的な思いやり」という「同情・協調・尊重の精神」が生来具わっている(その根拠は神秘的なものでも遺伝的なものでも何でもよい)と信じている(觀萌私記に所説の「萌心」の真意も同じ)。
人間は考え方が異なったり対立して憎悪を起こす生き物であると同時に、その裏では「必ず」と言ってよいほど、「良心による呵責」があろうと信じている。
感情があるからこそ、その悪もその善も有り得る(ただし"願ひて心の師と作る"ことでコントロールできるように)。
雲によって太陽の存在を自覚しづらいように、人もまた怒りに塗れて善良な心を忘れて欲望に耽ったり人を憎悪・罵倒するが、私は、私自身も他人も、本来は思いやることが出来る生き物として忘れないでおきたいし、他人にも伝えてゆかねばならないと感じた。

さあ「本覚思想」とは何であろうか?
用語の説明を省き、理解は賢い読者の調査能力や判断能力に任す。
本覚思想を、この絵の状況に照らし合わせると、輝く太陽が悟り(正覚)や仏性であり、雲は煩悩である。
少しでも雲が去って晴れ間が見えれば、その悟りの片鱗が感じられようか。
曇りの時間がどれほど長引こうと、元々太陽を知っており、晴れ間を見れば太陽を再び思い起こす。
刹那の間にも悟りや菩提というものを実感できようか。
その実感による歓喜もよいが、同時に、常に太陽が輝いている事実を認識し、仏道においては精進を念じるべきであろう。
「本覚思想」の二面性としては、そのように「"元々悟っている"から修行をしなくていい」という悪い見解に陥る側面がしばしば問題視されている。
この方面の話をここでは差し置く。
仏教は「中道」であるから、本覚思想・仏性思想・如来蔵思想のような性善説も、罪業・煩悩を過去世より抱えているような性悪説も説き、両方を自覚してこそ発心して修行に精進できるわけであり、過去記事にもそう綴る。

正座 痔 腫れ 座りっぱなし 勤行
9月12日、「研鑽に打ち込んで痔」と題し(具体的な題名は過程で決まってゆくものだが)、先ほどと似たようなものを描いて書いて作った。
先ほどのものも、こちらも、題に関連する部分は横書きだが、メインのテキストは縦書きにしてある。
和漢というか、「横文字」ではないからこだわっており、同時に、横のスペースを侵食したくない考えにもよる。
話の概要については、他人に話しづらい「痔」というか、この子が座り続けて臀部・尻肉・ケツが腫れてしまったという悩みを、勤行の折、私(仮)に見抜かれて問われたので素直に打ち明け、私が助言を与える。
細かい背景や言葉については説明を省く。
痔というと、当記事の編集を進めている11月上旬は現在進行形で強く影響している


9月12・13・14日に1つずつ絵を描き、謎の文章も多く描き込んだ(主にラテン語の説明に加えて漢語・梵語)。
外部サイト活動で利用すべく描いた絵が集まっており、ここでの掲載に当たってはモザイクを掛け、関係ない部分を白く塗りつぶした。
ただし、一部は横野真史関連名義の活動で既に利用している。
左下で横臥している全身の絵の一部分は、9月17日音楽館ブログ記事のトップ画像にも載っている。
この絵に関しては、現状、外部サイト活動では用いるつもりがないため、今後、普通に横野真史関連名義の活動で利用する可能性が高い。

抱擁 花束 供養 敬礼 お辞儀 梵字 悉曇 Siddham ni rva na
結局、9月13日の絵に限ってはここに載せておく。
花束を抱いて頭を下げているが、これは聖者への敬礼をあらわしている。
種々ある文字の意味の理解などは、適当にお任せする。
一部分のみを説明すると、ブラーフミー系の文字(梵字)が2種類書かれており、デーヴァナーガリーを肉筆で描き、ほぼ同じ発音の悉曇(シッダム)をPCで加工して載せている。
それぞれ、外見の特徴に共通性を確認できよう。


ほか、9月14日に描いた絵がある。
この絵は外部サイトで利用しないと思われるので、普通に当記事で公開する。

たくしあげ たくし上げ 流し目
こちらは9月19日に描いた絵である。
別途、顔の案のメモ絵や、全身イメージのメモ絵を小さく描いたりした。
直立でたくし上げ(?)のようなポーズを取り、流し目(?)のような表情でどこかを見て微笑み(?)を浮かべている。
・・・直立のソ○○○ニーちゃん絵である。
この子を描くたび、服装の裾の位置・丈の長さが一定ではない。
靴についてはヒールがやや上がっているサンダルの想定(8月4日の絵の想定では普通の高さのサンダル?)だが、この絵は何とも言えない状態である。

レインコート 本格 重厚
9月20日、7月30日に描いた絵の人物にレインコートとされる何らかの服を着せた。
レインコートの下の服装は、恐らく前回と同じか、ベストを外している想定である。
襟に相当する部分も立てて首のあたりでボタンを留められる構造であるが、ここではされていない。
頭に被るフードはコートと繋がっているようでカッパ・雨合羽ともいう。
トレンチコートに近い重厚さや複雑さを与えた。
一応は全面が撥水の生地であるものの、着づらいかもしれない。
ところで、この絵とその7月30日の絵とは、同じ人物が描いてあると同時に、今後、公開するかもしれない音楽2曲のアートに使う目的もある。
2曲とも雰囲気が同系であるため、アートの人物も同一であるとちょうどよかろう。

芽を出す 芽吹く 芽が出る 萌え出る 芽 萌える 萌ゆ
9月21日、あの子を觀萌私記の記述のイメージに用いる目的で、このような絵や、メモ絵などを描いた。
脇メモや修正案をモザイクでマークしてある。
奥の人物の脇メモは「結った髪」が人物の脇のあたりから現れていることを示し、修正案は手前の子の腕が長すぎることを示して縮めるように促すものである。
その修正は既に済んでおり、觀萌私記の動画(12)などで採用した。
絵としては、どことなく懐かしさを見せる。
手前の人物と奥の人物は同一人物(身長差は仕様)であるからこそ、本当は別々の絵として描いたが、この画像では同じ場所に居合わせているかのように載る。

お座り しゃがむ
9月26日、何らかの楽曲のイメージにしたがって描いた。
何の楽曲であるかといえば『期待してね』。
このように、顔が傾いている・お座りしている構図の特徴を把握して踏襲しており、よく描けたと自己評価している。
この絵にしても、スキャン以後に微調整や線の変更など、色々と手を付けてある。
本人左側=正面右側の髪は、肩や腕のラインを透かしてある。

BC dialogue Buddhist and Christian

BC dialogue Buddhist and Christian
9月28日、ありがち?な宗教ネタ(異教間対話)である。
耶蘇さん・瞿曇さんの対話であるが、外見は私の想像に任せてある。
9月8日の絵の説明の1行目に「新しく従来と異なるA4の紙」と示したが、こちらの罫線が入っている紙は、まさしく「従来のA4の紙」である。
耶蘇さんが「愛"Cāritāsἀγάπη"が大切で父なる神の御(み)心』」であると瞿曇さんに語っており、瞿曇さんは渇愛・淫欲の愛ではなく慈愛と捉えて彼が言う「愛とは父なる神の御心」=慈悲などの四梵住(父なる神=創造神=梵・ブラフマー)と理解しつつ(梵住の"梵"は梵天・ブラフマーの意味ではない?)、色々と話を聞くうちに「私は神の申し子で・・・」と驕る素振りも無く語り始めて「気付いた(意味深)」ので、その旨を伝える内容である。
11月10日に起草した下書き記事の要点である「主観的真理と客観的真理の調和」について考えねばならない。
瞿曇さんは耶蘇さんの主張に対して一応の理解による尊重と同時に、それ以上の共感を示さず、耶蘇さんの言葉がはっきりとしているので仏教的に導くべきでないと考え、耶蘇さんの主観的真理を否定しないように追い返そうとしている。
瞿曇さんの配慮が裏目に出ちゃってキレた耶蘇さんであった。

それをそれたらしめる、個人を個人たらしめる、宗派を宗派たらしめるエッセンス・本質(アートマン・自性)があり、主観的真理は客観的真理の元に認められ、客観的真理に近い人々は客観的真理に類する立場から他の主観的真理を尊重あるいは無視する・・・これが趣旨である。
客観的真理は一つであるが、一つということへの人々の認識には微々たる差が必ず生じるので、人間の生命において唯一の客観的真理そのものを得ることは不可能である。
99%以上の純度を持つ仮説までは可能である。
瞿曇さんの立場は、主観的であって主観的でなく、客観的であって客観的でない中道の極致であり、現世で可能な限りの真理を体現していた。
瞿曇さんは、この耶蘇さんといった他人を尊重するのみならず、自分を求める人々には可能な限り自分が認知する真理に近づくための方便(教法・修行法)を説き続け、時には相手の妄執を摧く説法もされ、真に中道として柔軟であった。 
瞿曇さんの「方便力」が通用しなかった耶蘇さんは、本当に普通の人間を超越しているかもしれないが、客観的真理の存在(非有非無)を思う時、彼の主張に完全な肯定も否定もできない。
なお、ここに載せないが、紙の端に「神通・シャカムニパンチ(一部名前の発想は某動画39分47秒~)」なる絵を描いてある。
さて、「神」というものはどちらに軍配を上げるか・・・。

タッチパッド 線画
こちらは、9月30日のノートPCタッチパッド描きの絵である。
股の位置と足の骨格の下書き・目印を残したまま掲載する。
右下に途中の段階の一部分をバックアップしてある(MSペイントの活用で容易に重ね直すことができる)。
ほか、具体的な説明は控える。



11月04日 http://www.youtube.com/watch?v=VotpLvAWktA
11月12日 http://www.youtube.com/watch?v=Jlq35eTSmkA
11月16日 http://www.youtube.com/watch?v=va8uIQmerE4
↑11月12日のもののみリンク限定公開設定となっている。

11月10日から当記事所載9月8日の絵に関連した記事の下書きを起草し、当記事の編集がおろそかになった経緯がある。
50時間以内には8,000文字以上の内容となっており、来年1月には学術的メモ帳ブログで反映すると考えてよいが2つのパートに分割して投稿しようか思案中である。

※本人がこの記事を見ているか不明だが、過去記事のとあるコメントに亀レスのコメント返信をした
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/08/plus-jul-2016.html#comments



追記: 11月19日・早朝
この記事は11月18日18時18分反映となっているが、直前のUU数が29であった。
結局、当日はついにUU42という極めて低い数字に終わった。
この低さは、2013年2月28日のUU41以来であろうか。
辛うじてその日より"1"のみ高い数字(PVについてはその日より6低い)ではあるが、記事を投稿した日に限って極端に低いUUという惨状が比較的多く発生する(11月18日は金曜日であって土曜日の人の流れこそ本位であるから金曜日の夕に先んじて投稿したのみであって11月18日に重点を置いてはいないが、しかし極端な数字の低さには溜息しか出ない。何せ3年8か月ぶりである。)。
元々まともな読者などいなかろうが、それでいてこの不条理・道理でない現象ばかりでは、今後とも一字一句の理解もできない読者の空虚なアクセスに一喜一憂するしかないか。
元々一喜一憂などはしていないが、異常を見る度に虚脱感を覚える私であった。
せっかくの、1ヶ月1週間ぶりの、新しく投稿した記事ですぐさま、こんな文章の追記はしたくもない。

※翌日11月20日は42の2.4倍以上であるUU100ちょうどであったが、当地も揺れたらしい地震の影響で地震関連の記事にアクセスが急増したのみであった。どこかで大地震or当地が揺れると、お決まりの展開である。