2017 新年

2017年「あけましておめでとうございます」。
毎年恒例、1月1日に予約反映する記事である(例年記事のリンク→2014, 15, 16)。
月日の流れが甚だ早く感じられ、1秒1秒が惜しいというのに1秒1分の物思いを止められない昨今である。
2016年中は、当時の記事に綴ったが如き「道心を堅固に」の精神でいられたか?
私は、高邁な自尊を仏の振る舞いから学び取っているため、例えばアクセス数の減少や、もはや名声を得られない状態があり得ようとも、なんら活動をやめる理由にはならないので、そういったスタンスで今後も活動が続くことを付記する。

さて、私は横野真史名義の活動において「暇だから」といった意識に因って行ったことはなく、事後に「現実逃避」などと邪念を起こすこともなかった。
世間の人がインターネットで活動する際、そのように不純な動機を意識したり、その結果に対する自己評価をしている様子を見かけるが、私は決してその動機を意識せず、背徳的な自己評価をしなかった。
なぜならば、私の活動とは、一つの何らかの意志に随い、その時に応じて種々にされてきたものであり、どうあっても「道」として歩んだ軌跡である。
道草を食っているのではなく、「道そのもの」として歩まれた足跡である。
インターネットの多くの人々を見るに、そういった低劣な自虐(愚癡の心)を発するところ、いみじくも言動が一致した彼らの不純な活動があるとみてよい。


道草を食う活動の人々、あるいは道草を食って人の活動に毀誉褒貶を為す人々も、みな真に芸術や学問を嗜む心に欠いている。
何となれば、世間のアニメ・ゲーム・漫画などの文化に耽ったり、創作関係者なり芸能人なり動画投稿者なりを支持するであろうが、その価値を具足せる私に対しては、軽侮の心のみ有って熱烈な支持も批判も起こらない。
最初から、陳腐なケチをつけるか軽薄な応援をする程度に留まっており、私は顧みられる存在でないらしい。
「私という道草」を食って唾棄するようである。

何ならば、機械のように無心に労働をこなす人こそ、道草を食わず、道を暴走して道中で事故死する点、清々しい。
しかし、多くの人間は、心が移ろうことが必然であって波の静まらない海のようであるから、そんな者はマルクス等・共産主義者の中にすらいない。
仏教徒の現世における「煩悩を断ち尽くす(灰身滅智)」という理念の結果は単なる無心でない(釈尊など大徳の説法の意義を後述する、悟りの人は無心であって無心でない)。
人間には科学的にも否定されない「欲望と善意」が共に具わっているから、音楽などの芸術や学問を好む心も、人を褒めたり貶したりする心も有り得る。
「人それぞれの道」のために、人が道草を食ってみるのも人の自由だが、ゆめゆめ自虐せざれと思う。

私を軽侮する行為で心が満たされて希望が沸き起こる者が甚だ多いらしいし、そもそも何も感じない者も多いようである。
智慧・慈悲の故の活動「道」を行き、人々に「長い髪・良い顔貌」という智慧・慈悲の相応に因る相好を見せているが、末法当世の下機下根の人々には軽侮軽慢軽賤軽笑の心が盛る原因となるらしい。
「軽んずる」心だから、一時的な満足感の後に私を顧みる者はいない上、言葉を最初から聞いてすらいない。
当・本家ブログの愚昧なる読者諸兄のみを指しているのではない。
学術的メモ帳にも学問的な記事に一定のアクセスがあるが、大概はスパムか、検索ユーザーもチラ見しかしないようであるし、動画視聴者もウン千ウン万はただ数字のみにしてみな空虚であり、投じられるコメントも軽薄な毀誉褒貶に終始している。



私が行く道は、主観的真理"Essence, Identity"の自覚に基づいている(その主観的真理という仮設エッセンスの正体は過去記事に説明している)。
また、踏みにじられる道草という一面も自覚しているから、毀誉褒貶を眼中に置かず、人気を意に介さず活動ができる。
どうであれ、高潔な自覚・責任感・使命感を具えて進んでいる道には、障礙が有るようで無いも同然であり、その自信は排他的妄信ということもない。
同時に私は、常にこの信念を堅持し"Keep the Faith"、人々に「清らかな道の在り方」を示し続けている。
それを感じ取るかは、読者次第、なのであろう。
こう語る私の本意としては、どんな行動の違いはあっても「清らかな道の在り方を感じ取ってほしい」のであって、何も「私の活動の猿真似をしてほしい」と言わない。
ただし、私と似たような環境・状況にあって悩み苦しむ者には、私と同様に3種の活動を行ってほしいと考える。
・・・私の心をよく汲み取って実践する者はついぞ「千中無一」のようだが。

まるで死人(シニン・しにびと・しにんど・しびと)に対して説法をしているようである。
そこに歓喜の声は聴こえず、「リビングデッドの呼び声」のみが唸っている。
これぞ葬式仏教!なんちゃって(テヘッ



3種の活動の意義

・作成文章 (言語・宗教など諸学)
・創作視覚作品 (お絵描き・画像処理・動画など)
・創作聴覚作品 (音楽制作など)


3種の活動を絶え間なく続けるその真意とは何であろうか?
諸々の活動は3種の大要に集約し、1つの真意に繋がる。
才能と容貌とが具足する彩り豊かな活動、その全ては一即多・多即一に開結する。

「私の提唱する仮想宗教・仮想学問」をまとめたページがある。
3種の活動の背景に、様々な思考や理念が伴っている様子を垣間見られる。
http://lesbophilia.blogspot.com/p/blog-page_3.html



絵の練習記事と觀萌私記所説の三身論

「大萌尊(大聖尊をもじった造語)」とは、いかなるお方か?
觀萌私記・末・讃萌語では、もったいぶって「いつどこかにいる誰かさん」が大萌尊であるかのように敬われているが、觀萌私記所説の三身論に則ると、萌心(法身)を知って好色萌相という萌え絵(応身の一例)を描く人が報身であって三身具足の人であるから、大萌尊とは他ならぬ私が体現していることとなる。
その法理から、萌心を知ろうとする人々は「大萌尊たる私」に頂礼・恭敬する価値がある。
つまり、「現在を生きる人間・凡夫としての私」に尊敬してもしなくても構わないが、所説を理解する上では確かに説いた「大萌尊たる私=萌えの三身としての私」を必然的に尊敬することになるので、現在を生きる人間・凡夫としての私もまた、萌えの三身としての私を尊敬していることになる。
私の絵の練習記事は、何らかの目的に沿って絶え間なく行われる「萌道」の実践に他ならないわけであり、閲覧者も「尊き萌え(慈悲応現の萌相)」として見れば、利益は大きい。

ここで、仏教徒が仏教・経典を学ぶ際に必要な姿勢を簡潔に示す(以前は言語学的見地での説明もした)。
例えば輪廻転生・善悪業報(因果応報)の教義に関しては、対比してよく言われる諸行無常・諸法無我の教義(三法印・四法印に含む)と相容れないようにしばしば疑惑を持たれる。
両者の教義的矛盾を敷衍して「そもそもブッダ(釈尊)はそんなこと(輪廻転生・善悪業報)を説いていない!」と主張する原理主義的な者もいるが、いずれの教義にせよ、いわゆる「原始仏典(パーリ語経蔵の一部)」から「大乗経典(人によってピンキリと認識される)」まで仏の言葉・仏語として説かれている。
その事実に目をつぶって「表面的な矛盾」を強制的に解決しようとすると、そういった異議を訴える者が必然的に現れる。
しかし、「表面的」に矛盾する教義であっても、実際には何ら矛盾しない。

仏(釈尊)はなぜ法を説いて遺されたか?
端的に言えば、衆生を度さんが為の慈悲の故である(爲度衆生故)。
仏は度すべきところに応じて種々に法を説かれて衆生の解脱を期した(隨應所可度・爲説種種法)。
あらゆる経典の教説は、仏語とみなしてどう問題があろうか(佛語實不虚)?
見聞きした教説どうしで「表面的な矛盾」を感じても、一面的な問題でしかない。
仏の本意は共通しているのだから、その本意に基づいて教説を全て信じるならば、その教説ごとにその教説の本意を感じ取って我が身の実践や思考・精神に反映してゆけばよいのみである。

大乗経典は、阿含経典・部派仏教までの経典に「説かれた教義(法)」に執着をした旧来の仏教徒に対する反省のため、竜樹菩薩が述べたような「仮名の空・中道の義」の理解を前提にして善巧方便を第一に説いている。
だから、仏様の威徳が凄まじい教説も、とんでもないストーリーの教説もたくさんあるが、全ては法のための故に、そういった説き方をしている。
合理的教義に執着を起こしては本末転倒である。
人間という生命は、言葉・言説を元として様々な「思惟・憶想・分別」があり、言葉で説くと言葉の端に人々が執着しかねないから、釈尊は最初に説法教化を躊躇されたということが、梵天勧請のエピソードや竜樹菩薩の中論24-12偈「世尊知是法 甚深微妙相 非鈍根所及 是故不欲説」の如くである。
それでも、言葉なくしては教えようもない(若し俗諦に依らずんば第一義を得ず!)ので、説法に工夫をされたのである。

まず、原始仏教が外道の迷信・謬見を破ったわけだが、教義の正統性を守るべき初期仏教教団から次第に乱れや誤解の浸透が発生したため、見解の相違や論争から部派仏教への根本・枝末分裂が発生し、初期大乗仏教教団がこれを是正しようと新たな経典も用意した。
竜樹菩薩の中論も、彼らの部派仏教の論争を制止すべく発せられたものである。
しかし、大乗仏教教団の中にも次第に誤解・執着が生じ、宗派の分裂や論争が絶えず、様々に正当な教義をかざそうとも(または経典や論文の教理が優れていることに飽き足らず平安・鎌倉仏教は修行法にも反映させた)、和解や合流は無く、現代は宗教多元主義・人権思想の影響で形式的な融和・共存があるのみで、教義問題の解決・同調に至っていない。
仏教の信仰・研鑽・修行とは、反省の精神(止揚とも)にある以上、これからも問題があれば、当然、現代の日蓮正宗・創価学会・顕正会に見るような教団内の抗争や分裂はありえるし、ある種、仏教教団の宿命と見てよい。
※反省した結果が分裂ではあるが、将来的には分裂=破和合僧という結果を防ぐための反省も必要になろう。

修行・信仰としての仏教は、学問的体系構造ありきで成立していないから、表面的な矛盾などは問題でなく、むしろ、矛盾の奥の共通点に気付いてこそ智慧を育む。
そういった矛盾に疑義を唱える者こそ、かえって仏教の精神に齟齬を生じさせる「獅子身中の虫」として排除されねばならない「不穏分子」である。
少し大胆な表現を使ったが、当・本家ブログではこれくらいがダークでハードな感じとして望ましい論調となろう。
無論、中道の私としては、そういった学問一辺倒の学者たちが資する一面や、私個人が再発見する一面もあるから、本心で「彼らは排除されるべき異分子である」とは思わない。
ただし、人口に膾炙している説を鵜呑みにし、受け売りで唱える者の説は、無益のものと断じておきたい(実質的に無益かどうかではなく自身が同じ轍を踏まないようそう思うことによって戒めよ、の意味。自覚宗教ですし)。
こんな私は、しばしば「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば即ち殆し」という一節が浮かんでしまう。

私は一字一句を悩んでいる
思った見解については、学び直したり調査するなどして補強を重ねるという「石橋を叩いて渡る(換言: 思ったことを学んで書く・学んだことを思って書く)」心で執筆を行っている。
「学・思」を兼備した文章ではないか。相互補完であり、意味深長でもある。
また、経文・漢籍・俚諺・慣用句を用いて具体性を増やしている。
まあ、「ことわざの誤用(認識の相違)」がしばしば問題視される世間に向けてこれらの語句を用いると、誤解されるリスクもあって危険なのだが、私の文章を熟読玩味した者の功徳は、私の如く調査して勉強することで、そんな誤解を生んでも維持しなかろう。
そんな道心に満ちた、理論上の「柔和質直者」というか、理想的な弟子の存在は「十万人に一人としていようか?」と憂えるばかりである。



今年=2017年は、できる限りYouTube本家チャンネルで、内容が不十分であろうとも説法動画の類をアップしていく使命感を覚えた。
動画で觀萌私記の概説・略注も行ってみたい。
パートを重ねた講座でもよいか。
活字の原稿でも用意すべきだと思う。
慈悲応現の萌相に関しては、画面に小さく載せると「稚き様」が感じられ、萌心を起こしてもらえようか。どうか(視聴環境・ディスプレイサイズによる異同がある)。

私は萌えの報身(自覚)なのだから、活動すべてが慈悲に相応したもの(ただし不完全)であるが、萌えの法門であるから、別しては好色萌相が挙げられ、萌心を直に起こす縁となるから動画に載せたい。
しかし、その心を起こす因=種がある人の存在が、今は疑わしい。
自分に萌心の種があるならば自他も不二で、どうであれ人はみな萌心の種があるものとすべきであろうに、観萌の法を説く私がこういう心境では危うい。
自他が不二であるという理論の下、私は一切の人間に向けて萌心ありと説く心である。






12月23日 http://lesbophilia.blogspot.com/2016/12/human-language.html


最新投稿動画
12月31日 http://www.youtube.com/watch?v=0eEojF5RDmM
※後述

ほか、12月26日に音楽投稿もした。
https://soundcloud.com/masashi00/caritas-gen-hum
投稿から2時間以内に再生回数が3・Likeが3となったが、それから30時間が経過しても再生回数が3のまま増えておらず、投稿直後Likeはスパムユーザー(非人・ロボット)しか使わないので1つ減っていた。
どこのサイトを利用しようが、元々名声もクソもない「一定苦界」と思っているから、そのために、かえって道とするに不可なく、活動が長続きする。
あえて言えば、成道前の釈尊の如く、魔を調伏する段階であろうか。
※12月29日にも次いで投稿した、こちらは投稿直後数分以内にスパムユーザーが再生もしないで私のアカウントのフォローだけ行う異常な動きがあった、再生回数0でも100でも元々心で聴いていないだろうからどうでもよく、ロクに聴かないでお気に入りだフォローだを行う卑しいスパム行為が鬱陶しいのみ、外部活動名義・日本サイトの音楽投稿でも同じようなスパムが多い。ほか、12月31日に件の楽曲の動画版を投稿した。


さて、12月中の日記メモから面白い一節をつまんで載せてみる。
床に散乱する髪の毛・ゴミが気になって毎日掃除する人の話である。
家(家宅"House")を綺麗にして家(家庭"Home")を汚す人の生活はこの通り。

(12月8日11時50分台) 母親が、グチグチと独り言を続けながら1階と2階の行き来をし、掃き掃除などを行っていた。「困っちゃう!」「仕事になんない!」などと発していた。家の他人に不満があるようだが、そんな小言を連ねて足音・物音を慌ただしく立てたりして自分の心が穢れていることに気付かないか。私まで憔悴してしまう。「掃除しないと気が済まない!」と言いたげな母だが、かえって心が泥塗れで、まったく濯がれていないではないか。しかもその泥を生み出して他人にぶつけてすらいる。家を汚す人物は、他ならぬ母であった。ごくろうさん。これ以上、自分と他人の心を汚さないでね。

今後、学術的メモ帳ブログに投稿する記事では「内蔵萌心(觀萌私記ネタ)」「本来・本質の思いやり・良心・善意」を主題として人間の性善説について考える。
この現代人権思想にもある性善説のような立場を取れば、母親はかなり恐ろしい人種と見える。
「人間的・人道的」という言葉はヒューマニズムに通じ、専ら思いやり・良心・善意を指すのであり、それが無さそうな者は「非人・畜生」と蔑まれかねない二面性がある点は注意せねばならない。
なお、性善説とか性悪説という表現について、私が信奉する仏教はどちらの立場かと言えば、仏界・菩薩界のような聖なる境界から修羅界・畜生界のような冥なる境界の全て「十界」を、人間は生来具えているという立場で「包括的な中道」であり、性善・性悪の両極に付かない。
これを「十界互具」といい、「煩悩即菩提」ともいうのであって、こういった宗派が限定される言葉を嫌う「本格派(偏狭)」の人であっても当該記事にも引用した中論の所説の理解によって「中道」の概要はきっと理解してくれると願っている(対機説法・方便という理解)。
当該記事でもしっかりと語っているため、よく学んでほしい。

学べよ!!!!!

1月中旬に投稿が予約されているパーマリンク→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/dualism-of-truth.html