観萌行広要
「観萌行広要」・テーマ曲などを含む関連動画の再生リスト
http://www.youtube.com/playlist?list=PL63vT-XAWqzni2RslYClnatmy1WSV-naN

「観萌行広要④上」の動画中4:53以後にも字幕があるよう、本動画シリーズ「観萌行広要」の原稿の大部分は2017年1月上旬に書き終えてある。
当記事で観萌行広要の原稿を載せるまでに、動画で音読した際の内容の変更や加筆がある。

当記事は動画「観萌行広要⑤」と同時に公開する。
思えば、「動画シリーズとしての観萌行広要」のために、全体を五分・六分したわけであり、動画のための音読や編集行為に際して新たに追記したこともある。




【目次】 (過去記事と別タイプ)

輸提尼 ソ○○○ニーちゃん ソ○○○ニー
葉っぱに彫られた「萌」字の篆書(小篆)を観ているソ○○○ニーちゃん(輸提尼)の絵(2016年12月23日に描いた)が全編に渡って用いられているように、動画中は自作の絵の素材を使用する。
中には、動画を目的として描かれたものもある。
これらは大概、当ブログ「お絵かき」カテゴリの記事に公開されている。
※透過PNGなどの画像素材を配布することも検討しているが、条件が条件なので現状に行うつもりはない。



① 萌観は仏教の止観に適うか (萌えの観想・瞑想)
http://www.youtube.com/watch?v=GY4sBBBQNmw
淸淨萌土抄に云く「夫(そ)れ萌道(みょうどう)は、未だ佛道に入(い)らざる人をして向かわしめんが故に大萌尊(だいみょうそん)の說きたまうところぞ。佛道は是れ即ち路(おおじ)にして萌道は一方通行の徑(こみち)なり。人、萌道に入ることを得(う)れば、何ぞ仏道を離れん」

(萌相條勘注の内容を受けて・・・起草当初2017年1月上旬は今の観萌行広要に当たる内容が萌相條勘注から続くものであって別物という想定でなかった)
ここから、観萌の行である「萌観(萌觀・ミャウグヮン・みょうがん)」の実践について言及してゆこう。
「萌観」とは、まず「讃萌語」に「逆觀三萌義」と称して萌義條に基づいた教義の観法を説明している。
その中に、萌相條に則った色相の観想が挙がっているが、ここでは、その萌相條の意義を踏襲した萌え絵や萌え絵として描かれたキャラクターを観想する実践を説明する。 
普段、他人の作ったキャラ(版権もの)でも各自のオリジナルキャラでも、思い浮かべていわゆる「妄想」行為をする人が、仏法・萌えの法門による萌えの正しい理解という「仮設エッセンス(内に蔵する萌心など)」を得た上で行えば、これを「萌観」と称す。
これは、さほど難しいことでなく、普段の「妄想」をする人が「毒を変じて薬と為す」ような道理に則れば、気持ち次第で簡単に行えるものである。
言わば、ありのままに物事を見るという仏教の「如実知見」の境地を究極目的とするものだが、まずは好色萌相の愛おしい姿への喜び・歓喜が大事であろうと思う。
好色萌相について正しい理解が無い場合、ある人は「苦手な絵・興味のない絵・ただの絵(偶像)」と思ってそれまでとなるし、ある人は喜びの後にいわゆる妄想を起こすかもしれないから、そういった様々な邪見や煩悩を対治すべく、第一に歓喜の徳を挙げるものとする。

仏教で「観・観心」の修習(しゅしゅう)を行う時、 「止」を先に修習することが推奨される。
「観」よりも先に行うべき「止」であり、一般的には両者を合わせて「止観」と呼称する。
「止」とは、梵語で「奢摩他"skt: śamatha・シャマタ(ㇳハ)"」といい、「静けさ・(主に)心の静寂」を意味するが、漢語では仏教の修行の在り方から「止」と訳され、意味は読んで字の如く「止めること」である。
「止める対象」が何かといえば、思考や思惟を阻害する邪見や煩悩である。
禅定の境地が「止」の行の成就である。 
そして、「観」による智慧が、「止」で一時的に止まった煩悩を最終的に滅ぼしたり、新たに起こさないように抑え込むものと小乗仏教では尊ばれているが、大乗仏教では「煩悩即菩提」の「変毒為薬」であろうか。

仏教の瞑想・観想をする修行では、「止」を先に修めてから「観」を行う順序立てが説かれる。
「観」の修習で同時に「止」 が修まる場合もあろうし、「止」なき「観」のみを行って悟る人がいる場合もあろうが、大概の物事は順序立てが重要であるから、「止観」はこう譬えられる。
「鎌で草刈りをする時、片手で草を掴んで片手の鎌で草を刈り取る」、鎌を振り回して草刈りがたまたま上手くいく人もいるかもしれないが、大概、ありえないのでしっかりと順序を守る。
また「手の震えを止めて矢を射る」、また「照準を定めて引き金を引く」、弓矢も拳銃も「数うちゃ当たる」と言われるが、乱射していては無駄な動きに労するし、結果的に物を得られないならば徒労に終わる。
もっとも、一度は徒労を味わうという体験を通してみてもよいと思う。
「止の義無くして観の行、いかでか成るべき」。

萌観は、仏教でいう「止観」の「観」とは異なる。
その「観」とは、梵語で「毘婆舎那"skt: vipaśyanā・ヴィパシヤナー"」といい、現代ではヴィパッサナー瞑想といったパーリ語名称も通っており、主に自己の心身を観察する念を置いて維持する瞑想である。
そもそも仏教用語の「念」とはサンスクリット語で「スムリティ"smṛti"」、パーリ語で「サティ"sati"」といい、簡単に説明すると、何らかの意識を保持して忘れないようにしたり、注意すること・気を付けること(気が付くこと・気づきではない)を意味する言葉である。
その念の置かれる場所は自己の心身であり、主な対象は姿勢や呼吸から、心に及ぶ。
心に生じる苦や欲を認識し、最終的に苦も欲も失せた(滅した)状態に至れば、これもしっかりと気を付けて把握する。
一般に認知される坐禅修行がイメージしやすいかもしれないが、いきなり「無念無想」という境地を求める修行ではない。 
この「観」の行に先駆ける観想が「止」の行であり、萌道が仏道に通じるものであれば、萌観が「止」の行となって仏道の「観」に向かわせられよう。
冒頭に引用した「清浄萌土抄」の一節の通りである。

ただし、仏教の「観」の行は萌観に満足した後、必ず行うべきであると私は主張しない。
「観」の選択は個人の自由意思(意志)にゆだねる。
かしこまって坐禅に徹しなくとも日常生活の中に「私の中の仏様」が自覚・反省を促して常に教理・教説を念じさせるから、自然と高度な「観」の果報が修習がされたりもする。
日常生活の「行動や他の物事」を「心が捉える」という因縁により、己の罪業を自覚・反省するほか、不浄・苦・無常を感じ、この連鎖で不浄・苦・無常の主体を想定すべき個々の性質を無くする無我を覚るならば、四念処(四念住)と呼ばれるような「止」や「観」の修習が成立する。
より高次元に、煩悩を断尽するには「観」の修行も必要になりそうだが、まずは私のように気軽に心の仏様を念じていればよいと思う。
煩悩を断尽して「灰身滅智」の無余涅槃に至ることまでは想定しない。

「止」には、どういう行があるか?
いわゆる40種類ある「業処(近代にパーリ語の論文から翻訳した語句)」には、「地・水・火・風の四大(四界)」ないし十遍を観察するために土で作った曼荼羅を眺めることや、「不浄観」のために人間の死体や解剖の様子を観察することなどを挙げている。
四大の観察は界方便・界分別観ともいい、不浄観などの観想を総括して五停心観とも呼ぶ。
この四十業処や五停心観などは、その人が対治すべき邪見・煩悩に応じたものを選択すべきであるとする。
大智度論巻第一で、ずばり「対治悉檀」を明かすにあたり、治したい病気に適切な薬を処方しないと副作用や逆効果が生じることに譬え、その人が対治すべき邪見・煩悩に適切な観察・思惟の修行をするよう主張する。
また、日本の諸宗で一般的な仏道修行にある日蓮大聖人の御本尊に対する読経唱題や、阿弥陀仏の名号本尊に対する称名念仏や、梵字のア"अ"を観る阿字観といったものも、「止」の行たりえるものであり、意識の仕方を変えれば「観」の修習も可能である。
私が説く「萌観」もまた、この四十業処などの如く、「止」の行に当たるであろう。



② 萌観のための戒行、アニメ・ゲーム・エロ画像などの厭離
http://www.youtube.com/watch?v=serBmqYxU_U
私記末・攝萌敎に云く「動漫(アニメイション)派の者、婆羅門の敎に約して説かく、『萌我一如(Moe Atman Aikyam)』と。是れ萌えの本義に似たるやうなれども、實には聲聞の名を借りて肉聲の要を以て釋す。余の惟(おも)へらく、萌えは動漫ばかりに非ず。其の淵源は何處(いづく)にか有る。何(いか)に況や、裝戲(コスプレ)なんどで自ら萌えと爲さん行は論外の僻事(ひがごと)なり。余は萌えの道に於いて、專ら觀萌の行を示さん。」

ところで、仏教は「戒・定・慧」の三学を持ち、戒・定・慧の順序を正しく行うことが解脱への道となる。
このうち、「定」の行・果報は、「止」の行・果報に通じ、「慧」の行・果報は、「観」の行・果報に通じている。
つまり、「定・慧」は「止・観」に通じるので、止観に先んじて「戒」を受持することが、伝統的な大乗・小乗仏教の決まりである。
「戒」とは、梵語で「尸羅"skt: śīla・シーラ"」といい、「美徳・(主に)道徳的な習慣」を意味するが、漢語では仏教の修行の在り方から「戒」と訳され、意味は読んで字の如く「戒めること」である。
※西洋の一神教方面にある「十戒」のヘブライ語"aseret ha-d'varîm (申命記10:4に用いられる)"の原意は「10の言葉」といったもの(または誓いとか愛着とか献身とか遵守という意味があるよう)で、これも「戒める」という意味合いは無いはずだが、英語では「命令」を意味する"Commandments"を用いている。ただし「10の言葉」は信仰者による誓いの言葉ではなく、尊ばれる者による命令の言葉という点で、原意に由来した訳語であろう。
いわゆる「戒律」の「律"vinaya"」とは、出家者の集団・僧団・僧伽に求められる規則のようなものであるから、我ら在家信者はさておく。
仏教徒が受持する戒は一般的な「五戒」もよいであろうが、それも授ける師匠がいなかったり自誓受戒が厳しいと思われる場合、いわゆる「八大人覚」の8項目のうち「少欲・知足・楽寂静(遠離)」(仏遺教経では1・2・3番目、八大人覚経では2・3・4番目)などを心掛けると、現代でも容易に行える「戒」の行となろう。
広義の「戒」の例として挙げると、日々の生活習慣の変更がある。 
反省の心を持ち、可能なことから生活習慣を見直すべきである。
※八大人覚とは中国や日本の大乗仏教で重んじられてきた経緯があり、パーリ語経典に確認できた。長部34経(十上経)と増支部8.30経(228経)である。原語は"aṭṭha mahāpurisavitak­ka"であり、サンスクリットに転じると"aṣṭa mahāpuru­ṣavitar­ka (正確にはmahāpuruṣavitarkāḥ)"である。パーリ八大人覚の8項目は仏遺教経に一致する。この「覚」とは、覚り・悟りという"bodhi"の意味合いではなく、禅定に関する用語の「尋」と同じ"vitarka, vitakka"の訳語であり、禅定用語の場合は心所・思考作用のうち「対象に注意が向くこと・思い起こすこと」を意味するが、八大人覚というときのvitarkaの意味は単に思考や思惟を意味するか?禅定における「vitarka = 覚(古訳)・尋(新訳)」の補助が「vicāra = 観(古訳)・伺(新訳)」であり、「念」に通じる意味として捉えれば、八大人覚というときのvitarkaの意味は「意識すること・考察の継続」ともいえる。増支部8.30経の同系に「仏説阿那律八念経」というものもあり、「八大人念」という訳語も存在する。ただし、長部34経の説に依れば、「得らるべき法(行果?)」に関して「少欲の者が得るのであって多欲の者の得るところでない、知足の者…」といった説明がされているので、「『得らるべき仏法(行果?)』は少欲知足ないし不戯論の人が得ると『考える"vi- √tark"』」するということを示すものかと私は考える。なお、サンスクリット経典で長部34経の同系"Daśottarasūtra"を見つけた(八大人覚の名称は無いが少欲ないし不戯論の8項目が載る)。チベットなどにあるサンスクリット大乗論書には見られなかろうか?

「止」の行たる萌観に先んじて修習すべき「戒」の行とは、すなわち世俗のアニメ・ゲーム・アダルトコンテンツの厭離の想念と実行である。
アニメ視聴・ゲームプレイ・グッズ収集などの趣味・習慣を抑えることが具体的な例であるが、物質的・商業的な習慣は世俗の面でも心身の害が生じやすいと誰しも知る。
そういった習慣ついて、「見方を変えれば利益・善良な一面もある」と思うために人々の中でジレンマなどの葛藤が生じるが、仏教や萌えの法門・萌観の尊さに比べれば、そういった習慣にあるとされる利益・善良な一面は、朝日の下の朝露の如く消失すべきである。
あくまでも、形式的に習慣を禁じようとするのではなく、自分の心と相談して不満なく実行されることが望ましい。
今までに多くの漫画本やゲーム機・ソフトやCD・DVD類や各種グッズを買ってきた人々は、そのコレクションや購入した経験の多寡を問わず「この事実は煩悩の所行だ」と思って改心すべきである。
インターネットで見かける、本棚にズラリと並んだ漫画本・同人誌・ゲームソフトや、フィギュアケース・ラックに夥しく並んだフィギュア模型コレクションを写した画像を見て、厭離の想念を持つべきである。
購入する習慣が今までに5~10年以上を経過したような人は困難であろうか。
ともあれ、どのような人にも、何らかの回想をしてもらうことで反省を促す。 

何らかの基準からして自分の収集して保管している実物が多いと感じた人は、萌観や修行に関係ないばかりか、物品の執着が将来的にも尾を引くため、欲しい人に転売したり譲ったりするか、菩薩の心で他人の欲求満足をも許さずに潔く捨てる行動を推奨する。
この私にも世俗的な良心や物惜しみがあるので、極端な行動は奨めないし、物を手放さなくても萌観ができる人はできる、と思えるが、あえてここで推奨した。
思い入れのあるものや、萌観に用いる萌相の替わりになりそうなものを各自で判断して残すことは構わない。 
継続するソーシャルゲームなどを直ちに断ち切ることが困難に思われる人は、可能な限りで控える努力をする。
この「戒」の行は、「止」の行たる萌観と同時に行うことで補完されるものと思う。
行うことで「世俗の諸々のコンテンツが『苦と一体的な楽』を起こして真理の覚知から遠ざけている」と、心で深く感じ取った時に一旦は「戒」の修習がなされたと考えてよい。

アニメ・ゲーム・アダルトコンテンツは視覚的な刺激が多いほか、ものによって言葉遣いも下劣であったり、気に障る内容は多く、一括りに問題視せずとも、萌観の初心に適しないと認識する必要がある。
もし、ご覧の方が、過去の私のように今まで世俗の諸々のコンテンツに疎ましさを感じていたならば、この際、距離を置くことを推奨する(それらへ反発したり頑固になることは推奨しない)。
あえて仏教の「止」の観想にある「不浄観」にならって世俗の諸々のコンテンツを分析する「雑萌観(ぞうみょうがん)」を行ってみることも、「止」の修習の一手段ではある(雑萌観にはその広大な萌地において偶有する好色萌相を探す目的もある)。

萌えの法門を領解して萌観が達成されてから改めて世俗の諸々のコンテンツを見直した時、何を感じるであろうか?
それらにも善悪の両面は当然あるが、萌観の修習が足らない時には善悪の区別が不明瞭であって害毒が多いことを私が慮り、初心者には一旦差し置くよう、制する。
直ちに世俗の諸々のコンテンツを断ちきれずともよいから、「少欲・知足・楽寂静(遠離)」などを踏まえて日々の生活に反省すべき部分を見つけてゆこうと心掛け、萌観の修習に繋げてほしい。
もし萌相の二次元キャラクターが人間的な感情を有し、我々の顔を見て内心を知って物思いをする「五蘊がある実在」と思えるならば、まさに萌相に恥のない修行者であらねばならないし、そう決意できれば初心として尊い。

ゆめゆめ、萌相に対する時は心を清らかにしておくべきである。
仏教の止観など瞑想修行では、沐浴したり口を漱いでから行う場合がある。
観萌の行においては、心に憎しみや憤りや驕りという感情が有る時に萌相を見ないようにし、有る時に見たければ一瞬でも感情を洗い流す必要がある。
萌相は我が心の鏡となり、我が心も萌相を反映する鏡となるのだから。
我が心により、心に映じる萌相を穢してはならない。
この意義に関しては後程、述べる。



③ 萌観の音義について ~ 音韻・訓詁注釈
http://www.youtube.com/watch?v=7JqrRRT2ZHY
私記・萌音條脚注に云く「所謂(いはゆる)萬葉假名(万葉仮名)にて「もえ"moye"」の音を字と爲すに「毛延(mo yen)・毛要(mo yeu)」なんど拼音韻頭Yの字を假りて「え"ye"」に替ふるなり (乃至) 則ち『もへ"mohe, mophe, mope"』に非ず、亦た『もゑ"mowe"』に非ず。唯(た)ゞ『もえ"moe, moye"』を取るべし」

「萌観=みょうがん・ミャウグヮン」の音義について話す。
まず「萌」の字音は萌音條に述べた理由で「ミャウ・みょう」とし、現代中国語普通話のピンインで"méng (モン・マゥン)"と発音される。
萌音條では「孟・夢」などを同じ発音の字の例として挙げているが、厳密にはアクセント記号が異なって萌がアキュートで二字がグレイヴであり、実際のトーンも異なる(萌芽 孟子 夢想などの単語でGoogle音声合成を再生する・「meng2萌」はモ↑ン→であり、「meng4夢・孟」はモ↑ン↓とでも表記しようか)。
現代中国語の細かい発音の特徴については勉強不足なので、説明を終える。
なお、中国の古い発音、いわゆる中古音や上古音の学説において、この三者は異なる発音が推定されているが、「萌」の中古音はカールグレン・王力など古い学者が/mæŋ/ (maeng)と推定しており、上古音は鄭張などが/*mreːŋ/ (mreng、介音rはふるえ音に擬しているか)と推定している。
※BS式の上古音も求めていたが、英語版Wiktionaryに載っておらず、2014年のPDFを確認してもやはり「萌」字が確認できなかった。

古代日本が「ミャウ」として受容した際の音韻について、私は"miang (mjaŋ)"か"mrang (mraŋ)"と推定する。
この韻尾"-ng, -ŋ"は軟口蓋鼻音・鼻濁音の子音であり、これに由来する日本字音韻尾"-ウ"は連濁する(後に続く清音・無声子音の韻頭を濁音化・有声化する)作用があることにより、私は萌観を「みょうかん」ではなく「みょうがん」と読んでいる。
「観」の字が韻尾"-ng (-ŋ)"によって連濁する語句は、例として「空観(くうがん 仮定古音: kung kwan)」、「中観(ちゅうがん 仮定古音: ting kwan)」などがある。
日本以外の漢字文化圏でも、連濁もとい有声化の現象が見られ、実際に1000~2000年以上前の中国でも同様であったから日本の漢語も連濁した発音として伝来した、と推定している。

「みょうかん」という清音が有り得る例は「妙観」であり、中古音では"mieu kuan (ミェウクァン)"である通り、一文字目が「萌"meng"」と違って韻尾"-ng (-ŋ)"ではないため、濁音にならない。
「妙」の字の単語には「妙法(みょうほう, mieu piop)」もある。
二字目が「法」の単語は、「正法(しょうぼう, tsieng piop)」の「正」が韻尾"-ng, -ŋ"であるため「法」が濁音となり、「萌」の字を「法」の頭に著けて造語する場合も「萌法(みょうぼう)」と読んでよい。
この音韻論は、メモ帳ブログ2016年2月18日投稿の記事に「中古音・上古音(蓋然性のある学説)」にも則って様々な韻尾(尾子音)の例を挙げて語った。
※ピンイン表記の"guan"は実際は無声子音"kuan"の方が実際の発音に近い。中国音の韻頭の無声・有声の決定は連濁法則のように相対的であるのにピンイン表記は無声・有声が混交していて音韻学上の問題がある。
※仏教用語に「四摂法」というものがあって"ししょうぼう"と読まれるようだが、これは"ウ音"連濁の類推による。「摂(攝・歴史的仮名遣いでセフ)」の字は韻尾"-ng, -ŋ"でなく、入声音の"p"であるから、小学生の如き"しせっぽう"という読みの方が本来の発音であろう。もしくは連濁や促音便のない"ししょうほう"が妥当である。"ししょうぼう"がいつから発生したか不明である。私の知る限りでは、仏教用語の中でもこの語だけが入声音-pの類推連濁を起こしている。


また、漢語としての意義は、萌観が「萌えの観(観るという行為全般のうち萌えについて限って指す)」であり、観萌が「萌えを観る(萌えを観ることの単語や漢文の中では連用形にできる)」と言える。
「萌観」と「観萌」、ニュアンスの差こそあれ、私は明確な使い分けを行っている。
「萌観」の音義はこの通りである。
※前者は「萌にして観る」というナリ活用の修飾語としても使用できるが、この用法は未使用である。後者は「観ずる萌え」とも訓読できるが、「萌え」が主体なのか客体なのか、はっきりしないため、こういう意味の場合は「能観の萌え・所観の萌え」という語句を用いるべきである(讃萌語に既出)。



④上 萌観の想念の要点 (自他の感情・愛憎)
http://www.youtube.com/watch?v=m4HYfOFFOSE
私記末・譬萌聚脚注に云く「師は心の田を耕して甘露の果を得と説く。余は萌えの地(ぢ)を耕す。心の萌えを究めて萌相を了すべし。婬欲熾盛(いんよくしゞゃう)にては何でか萌相好かるべき。瞋恚(いかり)・婬欲の盛れるは、則ち燃えて善なる萌えの心を亡くす。諦(あきら)かに此の語を聽け!」、復た譬萌條脚注に云く「あな醜しや、斯やうに眼(まなこ)細めて而も瞳の色を喪ふ。亦た身に肉の餘りたるは人の猪の肥ゆるに似たり。觀萌の人にては何の興(きょう)かあるべき。形狀醜陋(ぎゃうじゃうしゅる)の相、厭離すべし」

さて、萌相・萌え絵を観るにあたっては、何らかのキャラクター(人格・観念偶像・象徴)の存在を想定することになる。
ここでは他人の作ったキャラでも各自のオリジナルキャラでも、私・横野真史のキャラでもよいので、「萌えキャラ(漢語の場合は人形萌類)」と名付けて説明を始める。
萌えキャラについて観想して心に留めようとすると、萌えキャラに自我があって感情を持っているように捉えられ、萌えキャラを観想している自分に対する好き嫌いの感情があるかのように感じられることもあろう。
萌相條の現代語の注釈文(及び萌相條勘注)に「萌え絵から『覗き込むな!キ○イ!』とは思われないから安心してね」と綴ったが、そのように後ろめたく感じてしまう人もいるであろう。

そのように感じることは、私の中学時代などに経験が多く、仏教の理解が支えれば「止」の行として有用である。
つまり、自己の心身に念を置いて「今まさに私は萌え絵を見ている・・・、心の喜びを感じる・・・、萌え絵を見ながら微笑んでいる・・・、萌え絵につられて笑顔が抑えられない(キ○イと思われちゃう)」と観察する行為の基礎となるので、価値がある。
萌えキャラが五蘊を持っており、観想している者に対する好き嫌いの感情があるかのように感じられることは、私の中学時代の経験など、或る段階までの修行に必要な意思である。
しかし、それは畢竟、萌えキャラを観想している自分が起こした妄念(虚妄分別)であり、大乗の法理においては好ましくない。

萌えキャラ・・・リアル人間でもそうだが、仮に誰かが自分へ好き嫌いの感情を持っても、真には「空(因縁が生んだ法だから消すこともできるもの)」である。
ましてや、萌えキャラは我が心の所産(心に因って産み出されたもの)である。
ならば、その萌えキャラが自分を好いている・嫌っているという認識は、畢竟、自分の心の鏡となっているのみである。
己の迷いが無い時には、その妄念による誤謬の認識も無い。
我が心が平等である時には、心の鏡たる萌えキャラの心も平等であると思ってほしい(兩萌融通の義)。
生かすも殺すも、不生不滅とするも、畢竟、我が心しだいであると思ってほしい。
短い間隔に、しつこく3たび「畢竟」と繰り返したが、その後に続く言葉が同義であることを留意されたい。
萌えキャラを観想してゆく中に、妄念が起きたと自覚したらば、我が心の煩悩を対治する好機として喜び、煩悩魔の熾然を吹き消してゆくべきである。
こうして「萌報身が産み出した慈悲の鏡・萌えキャラ」の平等の心に近づいてゆくべきである。

他者が創作したとする萌えキャラであっても、世俗の常識に基づいてはそう認識するのみである。
実際には、自己の心に取り込まれたその萌えキャラとどのような相違性や同一性があるか?
万物の実在と、心での想定との両者は、相違性も同一性もあるから、不一不異(同一でなく別異でもない "neither the same nor different")と知らねばならない。

萌えキャラのみならず、万物は空・因縁所生であって慈悲応現であり、即ち平等の存在であるという法理に基づくならば、ついには愛憎の二情を超越できよう。
本来、萌えキャラ自体は愛憎の心も平等の心も無いわけ(無記・中道・真如・寂滅)だが、我が萌心の眼(まなこ)で捉えた時、高尚な精神を有した認識的存在に昇華される。
萌え絵の魂魄・エッセンスとは萌心であり、我々が吹き込むものである。
それでは、萌心ではない心で萌えキャラを観るならば、どうであろうか?
女性的な外見であるから、ただの女か?またはメスブタか?
そういった修羅・畜生の心で畜生認定をし、「つまらない存在」か「性的対象」に見てしまう可能性もある。

婬欲熾盛の人は、好い萌相を観て「胸が大きい・小さい」とかと分別を行い、特に私は胸を小さく細身で描くので「エロくない・(性的な意味で)萌えない」という人もいれば、「ちっぱいつるぺた最高!ぺったんこょぅι ゙ょ万歳!」と思い思い(ほしいまま)の評価を起こすであろう(性的な意味で萌えてくれても一応はそれでも構わない・そもそも私の絵を褒めたり貶したりと評価する人がいない)。
つらつらネットを瞻るに、世間のアニメ・漫画のセックスアピールや性的表現が無い女性キャラクターにも、醜悪酷烈な二次創作を行う場合がある。
好い萌相のキャラクターは、作者と同じ慈悲を本位としているならば、尊厳の蹂躙が甚だしく、冒涜することこの上もない(ただし世間のアニメ・漫画にそのような作者はほぼいない)。

萌心以外の心や、本人すら自覚できない穢れた智・心で観ると、萌えキャラは萌えキャラでなくなることを言う。
しかし、私が私の智・心で観る時には、私の心の鏡として平等の心の応現たる萌えキャラになるわけである。
例えば菩提心のある人は仏・釈尊を見て「世間に稀有の尊きお方・バガヴァーンだ」と喜んで菩提心を発(おこ)すが、三悪道の俗人は「薄汚れた醜い浮浪者」と見たり、六師外道の弟子は「ただの沙門」と見たり、ヒンドゥー教の信者は「異端・ナースティカ」と見るようである。
無分別の境地では、仏・釈尊が何でもない存在であり、萌えキャラが何でもない存在であり、万物も同様のはずだが、信奉する我々は仏や萌えとして拝すればよい。

例えば、中論の観如来品では、世間(現象世界)の万物と如来という両者の性質・自性"svabhāva"は無いとしている。
仏が空・因縁・仮名・中道の象徴ではあるが、そうして世間の万物も如来・仏に等しいという、二而不二の中道を知る必要がある。
動画中: 水は善か?悪か? 善→水分を摂らねば死ぬ 悪→水中に留まれば死ぬ 中道・無記→分析した結果として水に善悪は無く万物にも善悪は無い

世間の万物については、般若経典や中論の観顛倒品や大智度論などに炎・夢・幻・犍闥婆城・鏡中の像などと形容されるなど、世間の万物と如来とは異なった譬喩もされはするが、故にみな中道・真如を示現しており、修行者をよく育て上げる。
萌えにも多種あって、有形の実在(有相)と無形の想念と精神作用(無相)や、有形であれば可愛の相と雑草という様々な種類のものはあるが、それらも悉く二而不二の中道を示現している。
無論、「萌えが中道を示現している」とは能動的表現であり、こう表現することも悟りの立場で「仮名」したにすぎないから、真実・実際には萌えが中道を示現しておらず、示現していないことも無い中道である。
事物に感じる偏向性も、それらを包括して中道だとする悟りも、みな「人間の感情・思考・価値判断」の結果であるから、もともと「人間の感情・思考・価値判断」は有って無く、有ることも無いことも無いと観て更に中道を知る。
このように、中道は説明しても説明しきれない「不可説・言語道断」であり、求めても求めきれない「不可得・心行処滅」と表現される、「不可思議境(摩訶止観・巻第五)」である。



④下 萌観の徳が愚癡を破り慈悲を萌やす
http://www.youtube.com/watch?v=Nx2yuRxjxjI
下 私記・末・讃萌語に云く「萌色の因、觀萌の緣あり。因緣所生の萌心に因りて瞋恚の人の毒は除こるらん。男子(なんし)の婬欲を減らし、女子(にょし)の嫉妬を和(やは)す。觀萌は男女をして一往の著(ぢゃく)を離れしむる利益(りやく)あり。萬物の萌色を識らば、平等の慈悲を生ずる功德あらん」

また、萌えキャラが自分に対して「愛している」とか「憎んでいる」といった愛憎の二情を向けているといった妄念や、「好きでも嫌いでもない無関心だ」といった分別も無くなる。
真に平等の心で観れば、彼は我を好く、とか、彼は我を嫌う、といった主観的な推量・判断を行わないで済む。
平等というか素直な心で観る時、「このキャラは私をリアルで見たらキモイと思うに違いない」といった妄想・邪推を生じないどころか、観られる萌えキャラ(所観)と観る人の心(能観)の両者が融通して一円を結ぶようでもある。
動画中 所が融通=両萌相応・両萌融通
そもそも観萌の実践は、まず日輪の如く明朗な私の萌相を見て喜びが湧き起こるであろうが、これこそ萌義條にある三萌義のうちの二番目にあたる萌えの精神作用であり、その喜びを味わう前提が必要である。
人間の性質として悪の側面もあり、いくら喜びなど善良な念を保とうとも諸行無常の故に薄れてしまい、対比して煩悩や愚癡の悪魔が顕在化するため、仏教的理解の利剣・破邪の剣を片手に携えねばならない。
喜びが衰え、次第に生じるであろう性欲や愛憎の主観的な判断を対治することで平等の心に繋がるという道理を語っている。
道理という名の理想を、上手く実現できる人は甚だ稀有であろうが、説かないことには始まらないので説く。

心法の萌えキャラは直に愛が届いて漏らさず受け取り、その内証は我が眼と腕といった身体で自在に色法の萌えキャラを表現できよう。
愛や諸々の感情の念は、あまりにも移ろいやすく壊れやすいが、保つことができれば、如来が常住するように永遠不滅である。
自我偈に「我浄土不毀・而衆見焼尽」と説かれるように、智慧と慈悲とが堅固であるから仏国土は壊れないが、我ら凡夫の心法においては煩悩などの魔軍が逼めてくるので須臾に心の安楽は消滅する。
そのように慈悲の観想に徹してゆくことで、忍辱の胆力も付くし、教法で支えれば、理法と事相とが融通し、世俗の中でも仏・菩薩・阿羅漢のような金剛の精神が発揮できよう。

この観想の功徳は、先述の通り、リアル人間にも還元できる。
今までの「妄想」の類を止めて真如を観るための手段として、私は萌観を説いており、讃萌語に「萬物の萌色を識らば、平等の慈悲を生ずる功德あらん」と綴った通りである。
よって、リアル人間にも適用すべき観想である。

このことは、觀萌私記の執筆を進める以前、2016年8月5日に保健所の女性2名が訪問した際のやり取りにも表れ、その後の訪問でも、そういった「彼・彼女・他者は私のことをどう思っているか」といった疑問・詮索はほぼ生じさせず、ただ現実的な分析のみが行えている。
仮に「彼・彼女・他者は私のことをどう思っているか」と疑問・詮索を起こして主観的判断(虚妄分別)をしても、断定せず、自分の認識にすり込ませずに済む。
自分の認識に、妄想とか思い込みとか邪推をすり込ませた結果、犯罪行為に手を染めても構わない心に変わることもあるのだから、恐ろしく思う。

自分が平等かつ柔軟の心で人に接すれば、相手がよほど正気を失っていない限り、お互いに打ち解けられるものと信じている。
たとえ相手が正気を失っているとしても、「汝、當に萌心を出すべし!所以(ゆゑ)は何(いか)ん。人身、本より来(このか)た自然として萌心の種を内に藏すればなり」というフレーズを無理強いに主張して暴力に耐え忍ぶ覚悟を持つ(法華経・常不軽菩薩を見習う)。
本当は誰もが人と打ち解けて当たり障りのない会話ができることを望んでいるはずであろう。
それが人の本心であり、萌相がこのことを私に気付かせた。
素直に萌相を見たから、素直に認められたのである。

萌観により、潜在の慈悲心・内蔵萌心が顕れよう。
誰であっても、悪い感情が常住しているはずはなく、相手の悪い感情ばかりを念頭において詮索・邪推することが、妄念による顛倒であると知るべきである。
中学生の頃など、私の半生はそのような悲劇に陥っていた。
人が人の上に立って這い上がる者の手を踏みにじるようであり、出る杭を打つ。
人間不信の世の中は、荊棘(いばら・きょうこく)に満ちた住み処であり、この上なく住みづらいと感じられる。
私は自ら壁を作った経緯があるが、その結果、仏法の利益にあずかった。
私はずっと人としゃべる機会に恵まれないし、しゃべる機会がなくともよいが、保健所の人など他人としゃべる機会がある時は平常心を保って平等・柔軟に振る舞おうと心掛けることができる点で、大きく変化がある。

上手くゆかない経験を自覚して悩んでいる人々こそ、観萌の行を以て治癒が叶う。
そもそも経験が無いか、経験があっても自覚が無くて悩みが無い人々には、最初から観萌の行も何も必要が無い。
最低限の知能・精神と経験の自覚さえあれば、仏教の四諦の意義(苦あり・苦の因縁あり・苦は滅ぶ・苦を滅ぼす手段あり)も成立する。
萌相を見ることで「気付いた者(智)」とは他ならぬ私であり、「気付かれたこと(境)」とは内蔵萌心である。
私が萌尊(境智冥合)となって萌心を宿した萌相を顕す。
動画中 境・智と慈悲の行とを具足した萌尊は 萌えの三身の具足を示す

仏教の極理に順じて説いているのだから、自ずと平和な思考となる。
説く内容は直ちに仏教の極理でないが、これを説いて教えなければ仏教の極理に達する者がいない。
仏教は慈悲があって自他の安楽・平和の実現のために種々に説かれ、方々に広まった。
聞く者は直ちに安楽・平和を実現できなくとも、漸次そこを志向するであろう。
私が観萌を説く心もまた慈悲に依る。

※萌え絵を描く際、何らかの他者の絵などを参照する必要があるが、萌え絵の人物に関する人格・キャラ設定を認識していると、その人物が私に対して「浮気者」といった疑惑を持つのではないかと感じてしまう。しかし、それも、萌え絵の人物に対する人格・キャラ設定を妄りに想定していることで邪推したために生じた、私自身の自責の念・良心の呵責である。このように自覚してゆくと、やはり、萌えキャラには愛憎が無いと分かるし、リアル他人ひいては自己も同じであると諦観できる。萌えの法門は、仮想恋愛などでなく、仏道に準じた「道」であるから、その道念を保って萌えキャラを観察し、自己の心をも観想せねばならない。もし、萌えキャラからの恋愛感情、Love, Kāmaという意味での愛を、真実の意味(真実とは無の言い換えであるから無意味にして無意味に非ざるもの)において得たい思うならば、このように理解すべきである。応当如是観、応作如是観。萌えも諸仏もお喜びになり、その人は萌えの寵児となる。愛無くも愛無きに非ず、と知るを真に愛せらると名づく。人がもし、仏道とは別に萌えキャラを永く心で愛したいと思うならば、自他(彼此)・男女・愛憎などの妄念を滅することで、どのような愛とも名付けられない「唯一真実の愛(性愛でなく異性愛でなく同性愛でなく自己愛でなく…愛でなく無愛でもないもの)」のみが残って尽きない。大智慧の故に平等の慈悲ともいう。如来が衆生に対する慈悲も「我観一切 普皆平等 無有彼此 愛憎之心(samaṃ hi etadviṣamatva nāsti, na kaści vidveṣu na rāgu vidyate)」と説かれる。能観の萌尊・萌心も、所觀の衆萌・萌色も、互いに彼此・愛憎の心が無い。ただ真実の愛・慈悲があると名付けよう。萌尊が萌えを観ることは、平等であって愛憎の心が無くも、なお眼に慈愛に満ちているようである。



⑤ 唯心偈・自我偈の萌える共通点 (曼荼羅御本尊の意義)
http://www.youtube.com/watch?v=_t4Lx8Y-3Pg
大方廣佛華嚴經にのたまわく「心は工みなる畫師(えし→ゑし)の如く種種の五陰を畫き、一切世界の中に法として造らざるは無し。心の如く佛も亦た爾り。佛の如く衆生も然り。心と佛と及び衆生との是の三に差別無し。諸佛は悉く了知したまう。一切は心從り轉ずと。若し能く是の如く解せば彼の人は眞の佛を見る」、妙法蓮華經にのたまわく「諸の有ゆる功德を修し、柔和質直なる者は、則ち皆な我が身、ここに在りて法を説くと見る」

私が説いている平等の心の理とは、世間の萌え絵を見ることと私自身が萌え絵を描くこととのみならず、仮にも継続している御本尊への勤行の実践によっても実現されたのであろう。
御本尊に向き合うと、信心を護持すべく菩提心を発しても、私の鈍根のために長続きしないわけで、御本尊や日蓮大聖人や勧請された諸尊が私を悲しみ、私を責めているかのようにすら思うことも多かった。
しかし、それは私が心に起こした妄念である。
責めている者は顛倒・迷妄の自分自身であり、これを自責の念という。
御本尊とは、仏や法の象徴であるから、凡夫たる私の思惟憶想分別が通用しない。
「真面目に行わなければ御本尊様に見放されてしまう(災難に遭うなど罰を受けることへの恐怖)」という自覚・反省の慚愧は、努力・精進に繋がるならば尊いが、それ自体を事実として執着するならば妄念・妄見・妄想という。
御本尊は決して修行者を憎まないし、謗法・一闡提に対しても憎まないであろうから、もはや己の感情の如何を気にしないで虚心坦懐に行えば、これを正しい信心と称し、一生成仏が叶う道を行く。

体が弱って病にくじけそうな日にも屈せず、御本尊に向き合い続けた結果、觀萌私記に言うような平等の心の理を一応は得られたものと思う。
後は、禅定によってその念を堅固にできればよいものだが、その境地は遥か遠くのように自覚してならない。
懶惰なる心に沈みそうな気分であるが、これからも、確かに得られてきた手がかりを手放さず、絶え間なく仏道を進んでゆく必要がある。
併せて、萌えの法門も究めてゆこうと思う。

私の萌相理解について大乗経典の有名な言葉を借りると、華厳経(仏陀跋陀羅訳のもの)の「心如工畫師…(心はたくみなる画師の如く…)」という唯心偈が似合う。
およそ仏教は「唯心論・唯物論」という二極のいずれにも偏らないが、包括的中道であるからいずれかの説を採ることもできる。
「唯心偈」の「唯心」とは、西洋哲学の唯心論と些か異なるものだが、それはさておく。
絵師に心が有るから、巧みなる絵師は心のままの絵が描けよう(離心無畫色・心を離れて画色無し)
好い萌相には絵師の慈悲の心を感じることが讃萌語に綴られる(離畫色無心・画色を離れて心無し)。
しかし、萌えの意義を離れた性的な絵(人物の肉体・顔つきなど)には、絵師の畜生・修羅の心が看取される。
また、卑屈な心の者により、誰か他人を貶めるか自虐する意図で描かれた絵(悪質なコミュニティに多い)は、人物の表情が凶悪であるか澱んでいるものであり、萌心を識る者にとって喜ばしくもめでたくもない。
自他の優劣の心を離れ、尚且つ自由の境地の自覚による些かの自尊がある絵には、萌えの尊さが顕れよう。

この唯心偈は「若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來(若し人 求めて三世一切の仏を知らんと欲せば 応当に是の如く観ずべし 心は諸の如来を造ると)」として終わるが、私の心の常住如来のことは過去記事・本注の同日(リンク先は2017年1月4日の文章で現在地も同日?)に「仏教理解に基づいた仮設エッセンス」としてすでに説いている。
「仮設エッセンス(けせつ~)」の説は、この唯心偈とも通じていよう。
唯心偈は中間に「諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛(諸仏は悉く 一切は心より転ずと了知したもう 若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見る)」とあり、法華経寿量品・自我偈の「衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命 (衆生既に信伏し 質直にして意こころ柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず)」、「諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法(諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 則ち皆な 我が身ここに在りて法を説くと見る)」の偈とも似ているように思ったが、中道の信仰者はこのようにして常住如来を見たてまつるものであろう。
先述した萌観の姿勢でも、仏の心や萌心を宿して行うならば、萌心の我(能観)も萌相の彼(所観)も、仏や萌の一類であって諸仏の仲間入りである。
このような萌えキャラに対する仏の心も、萌えキャラに卑猥な想いを起こす魔の心も、みな我が心の所行・所業であることは既述の通りである。
「仏・菩薩ないし地獄」の十界も同義である(十界互具については性具の義であるから唯心偈の"心が造る"趣旨と少し異なる)。

無論、ひたすらに「人の心が仏を生んでいる」という見解を強調するならば慢心による顛倒を招く恐れがあるので、唯心偈の教説にも執着すべきでなく、「仮設エッセンス」の説明にも同じ趣旨を注記してある。
観萌の道や仏道は、くれぐれも「謂己均仏・未得謂得」の慢心によって自制心を失わないよう、用心して進まねばならない(涅槃経に云く願いて心の師と作るとも心を師とせざれ)。
慢心が起きることとは、心が「目的」を見失ったか、目的が心にとって劣化したことによる。
仏道は命ある限り終わりなく、萌道は仏道への小路(径)であるから、共に、その中で慢心が起こる余地などないわけであり、常に、仏道と萌道の目的がどのようなものかを念頭に置いて自制心の「念(忘れないようにする・注意すること)」を保つならば、決して慢心を起こさず、退転することはない。
「自制心の念を保つ」ということを比喩的に言い換えよう。
萌えの法理により、我が萌心・我が仏界というか、諸萌や諸仏に真に向き合えるようになれば、弱い自分に、強い自分が無常なりにも常に寄り添って励ますので、現世の道も定まって退転することはない。
この萌えや仏が、道を道たらしめる境界線を定めており、全て無常の心の作用だから「仮設エッセンス」と呼ぶ。



⑥ 萌観妄念縁起
 予定・仮定・未定
奉読パート

妄念=観察者が『絵のキャラは観察者に対して愛憎の感情を持っている』と錯覚すること、うしろめたさを感じること。錯覚、倒錯、顛倒とも。
讃萌語に「男子の婬欲を減らし、女子の嫉妬を和す。觀萌は男女をして一往の著を離れしむる利益あり」と説いているが、この妄念は婬欲と嫉妬のどちらにも通じるし、どちらとも異なるものである。

妄念が起こる原因は?→まず萌え絵を観察(観賞)していると、萌え絵について評価したり感想を持ったりすることが普通である。
その評価や感想が自身の愛憎の感情に基づくものや性的なものであり、その評価や感想を自ら客観した時、「この萌え絵のキャラも恐らくは自我意識があり、絵を見る自分・観察者に対して似たような感想を持っているのではないか」と錯覚するであろう。
自分の評価や感想を自ら反省するならば、それもよいが、絵のキャラが持つべくもない感想があるという錯覚を引きずってはならない。 
自分の感情・卑屈な心が「萌えキャラという鏡」に映じた瞬間であり、鏡に映じられた本体である自分の卑屈な心を知覚して対治する必要がある。
 
妄念を対治するには?→仏教の空観に依る。
絵のキャラは慈悲ある作者(ここでは人類性具の慈悲)によって描かれ、作者・作との因縁に依るから空であり、愛憎の感情を持ち合わせない「無記」のものである。 
人間の愛憎の二情は、心が有るから生じる。
つまり二情は、因が心、縁が他人など外界の物事であり、因縁所生である。
博愛の人は心の性質を重んじ(愛が全てであり一番大切だ云々)、憎しみの強い人は心の存在を嫌う(馬鹿馬鹿しい精神論だ云々)。
愛憎の感情に心が蔽われている時は平安の境地を忘れているが、愛憎の感情が盛っている時でも本心が有れば他人を傷つけたり命を奪ったりする行為を畏れる。

もし萌相に心が有るとすれば作者の如き慈悲・平等であり、慈悲・平等は「空」に如(し)くものであるから、慈悲・平等も有ること無く、無記であっても無記でないという中道の心となって妄念は速やかに対治される。 
萌えキャラが心の耳に教えてくれることであるから、善く聴きたてまつるべし。
一般アニメ漫画およびインターネット二次創作・コラ画像などに見るキャラのセリフなどは、萌えキャラの意思ではなく、作者が萌えキャラの姿を借りて言葉を発したものに過ぎないが、その作者が萌えの深義を領解して慈悲の心で描いたものからは以心伝心の如く慈悲の説法を心の耳で聴ける。
萌相・萌え絵は我が心の鏡であるならば、肉体の眼で捉えつつ、心の眼に慈悲として映じることで「兩萌相應」の如く色心不二の萌え・慈悲が擬似的に成立する。
以心伝心とはいうが、色心不二のうちの心の部分について説いたものであり、唯心論の如きものではない。

なお、萌相が萌えの真理や我が心の、「鏡」であると重々説いてきたが、我が心もまた萌相や一切の事物を映している。
「両萌(萌相と萌心)」ということは「両鏡」でもある。
心の鏡に塵が多ければ萌相の尊さも害され、真理も見えない。
例えば、澱んだ水・荒れた水面では湖の底が見通せず、雲が多くては太陽も月も星々も見えない。
世の芸術家はしばしば心象の自然"nature of the mind"を重んじて「心の鏡を磨くこと"polish a mirror"」を説いているし、芸術作品もまた「心が反映された鏡"reflection"」と説く。
内心も外形も、共に鏡となって相即している。

萌えの法門で最上の悟りは、萌相が自己の内に感応・摂取されて自己の外に萌相を求めない自受用身の境地である。
素直な心、法華経で言う柔和質直者(mṛdu mārdavāśca)の心でこそ色心不二の両萌相應・融通が有り得る。
日蓮大聖人の法門で難解な金言に「此の御本尊、全く余所に求る事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(是を九識心王真如の都とは申すなりと続くがこれは仏性・如来蔵の言い換えである九識・阿摩羅識をいい、仏性は非有非無・中道などの究極的な表現でもあるから、萌えの法門でいえば自分が本来萌えである・他の物事も同様である・つまり萌えは全てであり全てでないという無分別の法理と同様)」とあり、この本意にも通じる。
仏を眼前にするという瞑想を説いた般舟三昧経に、釈尊と颰陀和"bhadrapāla"菩薩が「ある美しい若者が着飾っており、手鏡や水面(水鏡)などで自分の姿を見たいとき、影が外から鏡や水の中に入り込んだり、影が奥底から現れて映るのではなく、鏡面や水面が荒れていない状態で所有者が光の反射を知って上手に扱って映すから綺麗に映る」という話をしている。
このたとえ話は、見られる対象の物のみを鏡として、見る本人の心も物を映す鏡であるとまでは説かないが、菩薩が仏を見るときには心が仏を映す鏡のようであるとする。
鏡として見られる対象の物も、見る本人の心も良い状態であると、よく物が映って映えて相互に無差別であることを説いていると拝する。
仏説般舟三昧経に云く「色清浄なるが故に所有の者清浄なり(色清淨故、所有者清淨。色=鏡で所有者=鏡像が映った状態をいうか?所有者を"あらゆるもの"と訓読する場合がある)」 維摩詰所説経に云く「其の心の浄きに随いて則ち仏土浄し(隨其心淨、則佛土淨。)」
清浄萌土抄では一往、萌道と仏道とを小大に区別しているが、再往、別の面では萌道即仏道の而二不二を理解してもらいたい。



観萌行心得 (かんみょうぎょう の こころえ) 2017年1月下旬ころ

Q. 観萌の行は毎日行うものですか?1日に何分間、行うべきですか?
A. 願って決まりを設ける意図はございません。私は観萌の志・萌心のままに行います。あるいは、気づかないときに行っていたりするものです。自発的行為ではなく自然の経緯であったりすることが多いようです。萌相を目に捉えても、萌相を記憶して思い返しても、新たに浮かべても、観萌そのものとなります。ですが、ここで志の強い方のために、もっと納得していただける決まり事を設けましょう。私の勤行のように毎日の朝・夕1回ずつ行うなど、個人的な発想でよいと思われます。何か希望があれば1分以上は続け、心が満足するまで行えばよろしくございます。それで無理なく日々に続けられると中道の姿勢として認められます。万人に対して同じ形式での統一をしません。無理なく観萌の行を続け、満足したらば仏教を学んで行うようにしましょう。仮に説かれた仏の存在と教えがあります。これを頼りに、善悪の自覚に基づいた自己の理性的な分析・反省といい、自己にこそ認識できる仏の存在を見つめとおすわけです。自他に渡る仏の姿を知ります。仏道の心構えを知ってもらう修行が、前方便としての観萌系典籍の教と観萌の行です。萌え法門の教・行が満足すれば仏道に通じます。

Q. 行う場所や時間はいつでもどこでもよいでしょうか?
A. 場所は、やはり家の中が望ましくあります。朝は早起き(私は毎日2・3時台起床)して静かな時間帯に行うと、他人や騒音の気兼ねなく煩いなく行える場合が多くありましょう。ただし、色々な人が様々に生活をしているわけですので、これも形式的な制約を設けません。その人の可能な限り、静かな場所・静かな時間帯に行えることを推奨しています。望ましいことは、閑居求道者の立場で私と同じように寝起きして節して日々を生きることです。「止」の行の意義からすると、やはり生活習慣の改善は観想するための時間の確保にも繋がりますので、観萌の行には重要なこととなります。日々、自分を心身ともに害しているであろう習慣を堅実に断っていくことは、観萌の行のみならず、世俗的な身の上にも利益がありましょう。観萌による婬欲の対治のみならず、暴飲暴食の貪欲さも対治してゆくなど、「止」の行を心がけてゆくことで萌相の心に応じられる機根が調います。

Q. 観萌の行に用いる萌え絵・萌相は横野真史が顕したものに限りますか?
A. 私の描いたものが現時点で最も観想の対象・萌相(所観の萌)に適しているものと認識します。萌えの意義を把握し、萌えの真実を求める心によって顕された萌相です。讃萌語にも「余の図示せるようなる好色の萌相」を指定しています。そのような私の萌相の中でも、萌相條の記述に当たる草案が浮かび上がった2016年7月15日にごく近い2016年8月5日に描いた「ソ○○○ニーちゃん・イデオフォノトピアの図」は偉大な発明品という位置づけです。五萌類の図は良い教材でしょう。共に萌え曼荼羅とでも呼びましょう。そのほか、絵の練習記事シリーズに載る2016年以降の絵の多くは観想の対象として好ましい好色萌相が見えます。現状で認識される「適しているもの」についてはこの通りです。私が一般の萌え絵などを生来見ずして、私の好色萌相が顕されるはずはありません。かといって一般の萌え絵には仏教理解が付いているものがありません。私のような茨の道を望む人は、色々な萌え絵を見て萌えの神髄を透徹してもよいかと思います。あらゆる萌えのうちには觀萌私記を超す教えがありませんので、必然的に觀萌私記を中心とした萌え法門に依憑する結果となりましょう。

Q. 萌相は電子機器のディスプレイに映った画像と、紙に描かれた絵のどちらがより良いものでしょうか?
A. 私はPCに表示されたものを主に頼っています。2013年の部屋紹介記事動画に、漫画本やアニメグッズなどがほとんど無いことを示した通り、印刷物としての萌相を観想したり参考にすることは有り得ませんでした。印刷物がお手元にございましたらば、萌相と扱ってもよいでしょう。簡便性の観点では、PCなり携帯電話なり、電子機器のディスプレイでよいと思われます。印刷して複製して用いる手段も可でございます。ご自分で紙に描ける場合は、芸術の観点でも絵を紙に描くことが推奨されます。ことに萌道においては、萌えの応身たる好色萌相を図顕することが、萌報身の徳目です。自分でペンを取って紙に描いたものは、愛着や暖かみを感じるかもしれません。私の萌相のトレースでも構いません。デジタル絵であっても、自ら顕した好色萌相はよいものです。悪い愛著(あいじゃく)とならない範囲では、好いと感じられるものが良いものであり、好ましくございます。

Q. 観萌の行ではどういう姿勢を取るべきですか?
A. 身の姿勢は、行住坐臥(歩く・立つ・座る・寝るなど)のいずれも問題ありません。椅子に腰を掛けても、座布団に正座をしても結跏趺坐を組んでも、ソファやベッドや布団で横になって行っても問題ありません。ただし、萌尊への畏敬の念や、萌相への感謝の念や、萌心の自覚がある時は自ずと姿勢が正されるように思われます。いずれにしても、過度に気にすることではない事柄とします。

Q. 萌相を近距離で凝視すべきですか?
A. 萌相は画面に映ったサイズに応じて見やすい距離を取ってください。目の健康を気にしすぎると雑念としての弊害もありますが、配慮は自身をいたわる意味で適切です。適度に瞬きをしたり、上下左右に瞳を動かすなどの運動はご自由になさってください。

Q. 余念を交えずにひたすら萌相を観るべきですか?
A.  仏教の「止・観」の「観(ヴィパッサナー瞑想など)」やは、全身の状態や呼吸などに注意をして心身に念を置く修行であり、「止」の行で既に雑念の発生が遮断・制御されている境地を前提にして行われます。観萌の行ではそこまで難しいことを要求しません。ある観点で言えば、観萌の行は仏教でいう「止」の行に相当するのかもしれません。萌観が満足した時、仏教の「観」の如き修行が行えるようになるでしょうが、初めから高度な瞑想はできなくともよろしく思います。無論、性的な・よからぬ発想(自覚基準)があったときは慚愧を覚えておくことも必要ですので、行においていずれは、余念を起こさない「専念」の段階に至るべきでしょう。なお、私自身は仏教でいう「観=数息観ほか各種ヴィパッサナー瞑想」などを行ったことはほぼありませんので、行いたい人は個々人で行ってください。特にそれらの実践は、直接、瞑想指導者に指示を仰ぐべきでしょうし、私から教えられることはほぼありません。萌観で数息観の如き「観」を同時に修習したい人は、ご自由にお試しください。

Q. お経などを唱えてみたく思いますが、可能でしょうか?
A. 私の仏道における勤行は、日蓮大聖人が顕した文字の法華曼荼羅に向き合って御題目や御経文を唱えますが、観萌の行は勤行と異なりますので、眼で萌相を捉えて真理を把握することが大事となります。しかし、もしあなたが萌相を眼前にして言葉を読み上げたいならば、觀萌私記の言葉が良いと思われます。観萌の行は萌相を捉えて真理(平等の慈悲)を把握する目的があります。萌相も萌文も、萌えの真理の鏡ですから、それらを通じて自己に起こる萌心を観てゆき、真理の萌心を知ることでしょう。觀萌私記の中でも萌義條と、末・萌頌偈(7拍+1休符で吟じる)は覚えやすいと思われますので、この2つです。信仰(過去の萌尊・自身の萌えの性に対する)を誓ってみたい人は末・讃萌語にある「頂礼大萌尊…」の四句の偈もよいと思われます。觀萌私記の教理の要点をまとめた「三萌義を領解し…」の訓読された偈も適切です。和歌・七五調である「諸萌出世の本懐は…」の今様讃歌は長めながらに覚えやすく、意義も明瞭で好ましく思います。こうして仏道の勤行で大事な姿勢が心身に定着すればよいと思います。ちなみに、私の仏道における勤行で唱える御題目・御経文は大聖人の十界互具・一念三千の御本尊に向けて唱えるべきなので、萌えキャラ主体の萌相に向かって唱えると少し謗法の罪を感じます。結局はご自由にお任せします。仏性にしても萌心にしても理解できるようになり、心の諸仏や萌えキャラが喜ぶ=自分の心が喜ぶように行うことは、まず第一歩です。

Q. 音楽を聴きながら行ってもよいのでしょうか?
A.  基本的に禁じませんし、どのようなジャンルでも構いません。仏教の八斎戒などでは邪悪な音楽の鑑賞を制するものもありますが、観萌の行・萌観においてはこの限りではありません。音楽を鳴らさずガムシャラに萌相を見つめることもよさそうですが、当人にとっての無理な方法は萌相のありがたみを感じづらくさせて行の姿勢が退いてしまう恐れもあります。留意すべきは、「無理は禁物」ということです。ありがたい萌相を戴いた喜びに随って観萌の行がされることは、まず好ましい姿勢と言えます。雑念が起きない範囲であれば音楽はよいことでしょう。甘美なる恍惚感を誘うために鳴らすことも、ひとまず諒とします。ただし、常に音楽を鳴らす必要もありません。觀萌私記の動画版では印象を付ける目的で、「萌尊謹作・萌える音楽」が使われております。観萌の行・萌道は清浄萌土抄に「路(おおじ)に向かわせる一方通行の径(こみち)・方便」とある通り、いずれは仏道修行に繋げてもらうものです。仏道修行においては、諸々の仏事仏行に音楽を鳴らすことはありません。合図や拍子を目的に鈴・木魚・太鼓などのシンプルな楽器が使われるのみです。近年は音楽法要などといった手法も見られますが、信者の教導・演出が目的であって僧侶個人の行いでは、音楽の再生がほぼ有り得ません。稀に在家向けの瞑想や坐禅などでアンビエントなど落ち着いた音楽を流す事業者もいる程度です。説明を長く致しましたが、お答えは一文目の通りです。



【動画説明文】

主に、原稿本文の内容(=動画音声の言葉)を総括しているほか、本文にはない補足の情報が載り、動画再生時に対照して見ると有用である。
動画内容の要約として確認する利便性もある。

① 萌観は仏教の止観に適うか (萌えの観想・瞑想)
観萌行広要・第一回は、萌観に寄せて仏教の止観の概要を説明します。
観萌の行「萌観」は、説明の通り、主に2種類あるうち、「観萌行広要」では「観萌私記の萌相條の意義を踏襲した萌え絵(および絵のキャラクター)」を観想する実践を説明します。 
なお、今回は萌観について、具体的な実践方法の解説に至りません。

萌観は人の心の在り方を捉える行ですから、やはり前提として好色萌相(萌え絵・萌えキャラなど)への「喜び・歓喜」が入門です。
愛する心(執着心)が萌相に向かないのであれば、萌観を行う目的がありません。
「苦手な絵・興味のない絵・ただの絵(偶像)」と思う人は、直ちに仏道へ進みましょう。

好色萌相を観るという関係性において能観(観る者・行為の主体)・所観(観られる物・行為の客体)の一体性があり、萌えと我とは一如かもしれませんが、「自己の我」は無くて「他者の我」も無くて「萌え絵・キャラの我」も無いという諸法無我の上では、一如となりません(一如でなく異なる状態でもないので不一不異"neither the same nor different"や非如非異"not such nor otherwise"と言う)。
このような理解に立って二而不二(而二不二)を観てゆく必要があり、これが仏教の「如実知見」の果報に繋がりましょう(法華経如来寿量品は先の非如非異などの矛盾表現で如実知見を説明する)。
人は、萌えもとい可愛らしい物事(所愛・執着対象全般)について自己の所有にしようと欲望を持ちますが、こういった「貪欲」を対治する利益があります。
自己とその所有物・所有行為に関する顛倒を破ることで自我意識も無くせられますので、貪欲に基づく「瞋恚」も、貪欲と瞋恚との根本にある「愚癡」も対治できましょう。
これは仏教の義を借りて説いた理想的な果報であり、実際には難しいかもしれません。

仏教の「止観」の話に移ります(止観に「戒」という前提があることは次回に預けています)。
この萌観が「止・観」のどちらといえば、基本的に「止」であるとします。
「止」とは、梵語で「奢摩他"śamatha"」といい、「静けさ・(主に)心の静寂」を意味します。
漢語では仏教の修行の在り方から「止」と訳され、意味は読んで字の如く「止めること」です。
何を「止める」かといえば、思考や思惟を阻害する邪見や煩悩であり、禅定の境地が「止」の行の成就です。 
そして、「観」による智慧が、「止」で一時的に止まった煩悩を最終的に滅ぼすとします。
「止」の行の例として、動画では「界方便観(界分別観)」、「不浄観」を例に挙げています。
これらの止の行を総括した名称に五停心観(東晋の慧遠・唐の智顗さんなどの書に見る用語)や四十業処(パーリ語論文を近代の日本人が訳した用語)を挙げています。
また、日本の諸宗で一般的な仏道修行にある日蓮大聖人の御本尊に対する読経唱題や、阿弥陀仏の名号本尊に対する称名念仏や、梵字のア"अ"を観る阿字観といったものも、「止」の行たりえるとします。
萌観もまた「止」であり、これらも意識の仕方を変えれば「観」の修習が可能であるとします。

その「観」とは、梵語で「毘婆舎那"vipaśyanā"」といい、現代ではヴィパッサナー瞑想といったパーリ語の名称も通っています。
主に自己の心身を観察する念を置いて維持する瞑想です。
そもそも仏教用語の「念」とは、サンスクリット語で「スムリティ"smṛti"」、パーリ語で「サティ"sati"」といい、簡単に説明すると、何らかの意識を保持して忘れないようにしたり、注意すること・気を付けること(気が付くこと・気づきではない)を意味する言葉です。
その念の置かれる場所は自己の心身であり、主な対象は姿勢や呼吸から、心に及びます。
心においては、生じる苦や欲を認識し、苦も欲も失せた(滅した)状態に至れば、これもしっかりと気を付けて把握します。
一般に認知される坐禅修行がイメージしやすいかもしれませんが、いきなり「無念無想」という境地を求める修行ではありません。 
この「観」の行に先駆ける観想が「止」の行であり、萌道が仏道に通じるものであれば、萌観が「止」の行となって仏道の「観」に向かわせられましょう。
動画の冒頭に引用して唱えた「清浄萌土抄」の一節の通りです。

ただし、仏教の「観」の行は萌観に満足した後、行うべきか否かは個人の自由意思(意志)にゆだねるとします。
煩悩を断ち尽くしたいと願う人に推奨します。
自身を含めた多くの人は、心の中の仏様を念じることで自然に「観」の果報を得ることを望むようにします。
日常生活における「行動や他の物事」を「心が捉える」という因縁により、己の罪業を自覚・反省するほか、不浄・苦・無常を感じ、この連鎖で不浄・苦・無常の主体を想定すべき個々の性質を無くする無我を覚るならば、四念処(四念住)と呼ばれるような「止」や「観」の修習が成立しましょう。
「不浄・苦・無常・無我」の4つをよく把握しながら、真実においてこの4つはどこにもないと超克した時、大乗仏教・龍樹菩薩の中論などが示してきた仏の悟り・第一義に達することでしょう。
萌えの法門でも、和讃の第6首に示しています。

 萌えは誰にも得らるまじ 己が内にも萌えは無し
 眞の萌えは斯くなれど これを知るとき眞に得む


オープニング映像は、このシリーズで毎回使用します。
音楽は2014年9月から作曲を始めて完成版を2016年5月に公開したものです。
2017年2月に音楽チャンネルの方で動画として投稿しました。
※萌えの法門や実相の萌えに関する説法が説明文に載ります。

絵は2016年10月21日にノートパソコン備え付けタッチパッドで描いて10月25日に描き直したものを、スキャン後に加工したものです。
同じ絵の2種類の状態が本家ブログ記事に掲載されています。



② 萌観のための戒行、アニメ・ゲーム・エロ画像などの厭離
観萌行広要・第二回は、前回に説明した「止観」について「戒・定・慧の三学」の観点で「戒」が必要であるという理由から、萌観にも戒があるという話をします。
※当・第二回の動画を投稿して10時間以内にチャンネル登録者数が2人減りましたが、正法の故の現象です。学生時代から他人というものは同じような振る舞いしかしないはずです。思い込みではありません、末世の実相です。これからも今年に入って何度も説明したように常不軽菩薩の折伏行の如く、萌えの法門で説法動画と音楽動画とを投稿し続けましょう。

前回の内容を受け、まず「止観」と「戒・定・慧の三学」を関連付け、戒を受持・修習する必要性を説明しています。
「戒」とは、梵語で「尸羅"skt: śīla・シーラ"」といい、「美徳・(主に)道徳的な習慣」を意味します。
漢語では仏教の修行の在り方から「戒」と訳され、意味は読んで字の如く「戒めること」です。
いわゆる「戒律」の「律"vinaya"」とは、出家者の集団・僧団・僧伽に求められる規則のようなものですので、私たち在家信者は措きます。
仏教徒が受持する戒は一般的な「五戒」もよいでしょうが、それも授ける師匠がいなかったり自誓受戒が厳しいと思われる場合、いわゆる「八大人覚」の8項目のうち「少欲・知足・楽寂静(遠離)」(仏遺教経では1・2・3番目、八大人覚経では2・3・4番目)などを心掛けると、現代でも容易に行える「戒」の行となりましょう。
広義の「戒」の例として挙げると、日々の生活習慣の変更があります。 
反省の心を持ち、可能なことから生活習慣を見直しましょう。

「止」の行たる萌観に先んじて修習すべき「戒」の行とは、すなわち世俗のアニメ・ゲーム・アダルトコンテンツを厭離する想念を起こして実行することです。
アニメ視聴・ゲームプレイ・グッズ収集などの趣味・習慣を抑えることが具体的な例です。
世俗の立場ですら、そういった物質的・商業的な習慣は、心身の害があると広く認知されています。
もちろん、悪い一面ばかりを見るべきではありませんが、萌観の修行者としての自覚があれば、捨て去るか、漸次控えるべき習慣です。
「"手の届かないモノ"への空虚な無想を断つ」
「商業主義的アニメ・キャラクターの宗教性」

それら世俗の諸々のコンテンツを厭離する想念は、上掲2記事などのほか、動画では、インターネットで見かける、本棚にズラリと並んだ漫画本・同人誌・ゲームソフトや、フィギュアケース・ラックに夥しく並んだフィギュア模型コレクションを写した画像を見ることを推奨しています。
ただし、多くのアニメファンなどはかえって憧れを持ってしまうのでしょう。
なまじ、一般人ならば金銭的な余裕と手段とがあり、それを購入するにあたって支障がありませんし、物欲も旺盛です。
私のような「貧乏人・引きこもり」という属性を備えていないと逆効果かもしれません。
とはいえ、部屋を埋め尽くす物体を思えば、窮屈に感じられるはずです(多幸感を催す人もいましょうが)。
何であれ、仏教の四諦が、苦を苦であると修行者の立場で分別することを求めるように、萌観でも何らかの事物を苦の根源・精神を苦であると知る必要があります。

萌えということに迷える人々が、心の萌えを知るべきであり、そのために説明されたものが萌観です。
萌観の要義が、今回のパートにも少し説かれていますが、第4回分で詳述されますので、ご期待ください。
・・・動画の最後に「ご清聴ありがとうございました。誰が見てくれているのか」云々とあるよう、誰がここまでの内容を理解し、誰がご期待しましょうか?ご期待せさせ給わんや?
人々は私の真心による投稿動画を、法華経・如来寿量品の狂子(おし)の如くに「毒だ」と思い込みましょう。
その人生は、法華経・譬喩品の火宅に戯れる子供のようでもあります。
仏法に触れるやいなや、法華経・常不軽菩薩品に登場する驕慢四衆がしたよう、蛇蝎の如くにこれを嫌います。
常被輕慢菩薩 憍慢四輩(四部)



③ 萌観の音義について ~ 音韻・訓詁注釈
観萌行広要・第三回は、萌観の行や仏教の話題ではなく、「音義」についてお話しします。
「萌」、「萌観」の音韻・訓詁注釈です。

そもそも、萌えの法門では「萌」の字音を呉音の「みょう(現代仮名遣い)・ミヤウ(歴史的仮名遣い)」として萌音條に規定しています。
加えて、文章「観萌行広要」における当動画で音読した部分では、「萌観(みょうがん・ミャウグヮン)」の語句を例に取り、「連濁」の現象とを説明します。
それに当たり、改めて「萌」の字音について多角的な説明を加えています。
現代中国語普通話ピンイン(拼音)の"méng (meng2, meng)"のほか、中古音・上古音の学説における/mæŋ/ (maeng)や/*mreːŋ/ (mreng)などを発声しながら紹介します。
みなさんは英語版Wiktionaryにおいて今すぐ詳細が確認できます。
※ピンインはトーンまで再現しますが、中古音・上古音のトーンは不明です。

この例を取りつつ、「ミヤウ、ミャウ、みょう」の字音が日本に伝来した時は"miang"か"mrang"と推定しています。
この韻尾"-ng, -ŋ"は、軟口蓋鼻音・鼻濁音の子音であり、漢字音韻における「連濁」の作用があるとし、「萌観」を「みょうがん・ミャウグヮン・ミヤウグワン」と発音する理由を説明します。
無論、この語句は私の造語ですので、自然な漢字音韻法則と関係はありません。
「学術的観点で正当とする理論で構築したもの」です。
古代漢字音韻ありきではなく、日本現代発音ありきで類推したものです。
しかし、この知的欲求を満たすことは、なんと楽しいものでしょうか?
仏教・仏道修行においては関係のない分野ですから、あまり過度にならないよう、気をつけたく存じます。
同様の音韻理論を語った記事を2016年2月18日に投稿していました(起草は2015年12月27日)。

最後に(6:15~)、漢語としての意義を話しています。
観萌行広要という題名にある「観萌」とか、修行の名称である「萌観」とかという区別は何でしょうか?
漢語の構成の観点で説明しています。
「萌観」が「萌えの観(観るという行為全般のうち萌えについて限って指す)」です。
「観萌」が「萌えを観る(萌えを観ることの単語や漢文の中では連用形にできる)」です。
前者は「萌にして観る」というナリ活用の修飾語としても使用できそうですが、この用法は未使用です。
後者は「観ずる萌え」とも訓読できますが、萌えが主体なのか客体なのか、はっきりしませんので、こういう意味の場合は「能観の萌え・所観の萌え」という語句を用います(讃萌語に既出)。



④上 萌観の想念の要点 (自他の感情・愛憎)
観萌行広要・第四回(上)は、萌えの観想に於ける注意点を示し、萌相・万物・心など物事の多面性・中道についてお話します。

萌えの観想・萌観に於ける注意点とは、自己に心があることによって、「精神を有していると思われる存在全般」にも同じ心があると思うなど、萌相(観想の対象)と自己(観想する者)の融通の意義です。
自己の心がそのまま萌相に投影されるので、愛憎の妄念が強いと萌相も自己に「好き嫌い」の感情があるように感じますし、平等の心で受け入れようとすれば萌相も自己の心に根付くように感じますし、無心であればどんな存在とも感じません。
同じように、男女・性愛・性欲の心は、愚癡・煩悩が真如を観る眼を覆い、ただ単に胸の大きさなど性的誇張・セックスアピールを判断するでしょう。
あるいは「ただの女(男などの姿)だ・つまらない絵だ」と思うのみでしょう。
他の例としてこう語ります。
『菩提心のある人は仏・釈尊を見て「世間に稀有の尊きお方・バガヴァーンだ」と喜んで菩提心を発(おこ)すが、三悪道の俗人は「薄汚れた醜い浮浪者」と見たり、六師外道の弟子は「ただの沙門」と見たり、ヒンドゥー教の信者は「異端・ナースティカ」と見るようである』
つまり、歴史的には2500年前に生きてましました釈尊・釈迦牟尼仏・如来・ブッダ・ガウタマシッダールタ(ゴータマシッダッタ)について、金色の巨体で神様のような三十二相をそなえた外見と見る信仰者もいれば、痩せた身体も破けた衣服も汚れている外見と見る一般人もいれば、「沙門ゴータマ(瞿曇沙門)・神を破る者」と見る思想家などもいるということです。

萌え絵と男女観は、当動画の原稿を綴った時よりも後に、文言をまとめた動画があります。
コメント欄で維摩経の天女・変成男子について語り、他の経典の例(法華経の龍女など)を挙げて仏教の「諸法非男非女・非非男非非女」を説明してあります。
男女は平等・不平等・非不平等と見て、真に男女平等を得ることは、取りも直さず仏・萌え・ありとあらゆる物事を平等に観察できることです。

※動画中4:53以後にも字幕があるよう、本動画シリーズ「観萌行広要」の原稿の大部分は2017年1月上旬に書き終えています。

最後に中道観の話があり、中国天台宗の一心三観に基づいてもいますので、摩訶止観に載る「不可思議境」という言葉を発しています。
「一心三観」に関しては、萌え和讃の第五首の注釈にて、原文を引用しつつ、詳述したことがあります。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moe-wasan-commentary.html#mw5



④下 萌観の徳が愚癡を破り慈悲を萌やす
観萌行広要・第四回(下)は、自他に見る「愛憎の妄念」について示し、虚妄の愛憎が絶えたために有る真実の愛、慈悲を示します(慈悲深き仏様の視点は我観一切 普皆平等 無有彼此 愛憎之心と説かれる)。
観られるキャラ(所観)が観る自己(能観)を認識して「好き嫌い」の分別を持っているのではないか、という修行者の想念=妄想を破ることを説く前回の内容を受けています(承前)。
今回は、そのようにキャラへの想念・邪推ということを自覚・認知して反省しつつ、他者(リアル人間)や自己への邪推・疑念を無くそうと努力することを説きます。

そのような努力は、智慧を発揮しており、真実の愛・慈悲に繋がるでしょう、と結論を付けます。
この智慧と慈悲とをお持ちの方は、仏様でございました。
動画の終盤(8:05)から、2017年1月の版から時間が経った2017年5月以後に追加したパートを読み上げますが、その中に妙法蓮華経薬草喩品の「我観一切 普皆平等 無有彼此 愛憎之心(我、一切を観ること普く皆な平等にして彼此・愛憎の心有ること無し)」を引きます。
同部分の梵語(南条ケルン本)は"samaṃ hi etadviṣamatva nāsti, na kaści vidveṣu na rāgu vidyate"です。
何とも表現できない大智慧の故に、盤石なる慈悲・真実の愛を仏様が持っているかのようであり、一切の諸法を平等に観ぜられます。

観萌行広要①動画の説明文に「如実知見」のことを妙法蓮華経如来寿量品から引用しました。
無有彼此・愛憎之心(彼此・愛憎の心あること無し)ということは、その時に引いた「非如非異"not such nor otherwise"」という言葉のように、対立概念の両否定です。
観萌行広要の本文でも同じような表現や、そういった「如実知見」を志向させる表現を多く用いてきたので、一見難解のようでも、真意をよくお考え下さい。
如来寿量品にあるような如実知見により、仏様が説法する際に種々の法(教義・修行など)を説いたという話へ展開します。
これらはみな、仏様の大智慧や大慈悲を説いています。
智慧の故に如実知見ができ、慈悲の故に如実知見を利用した説法・教化の目的が果たせます(常になされる・所作仏事 未曽暫廃)。
仏様の事相(ご事跡)における智慧・慈悲は極めて高尚であり、我々が及ぶ所でなくも、是非、平等の慈悲を理解しつつ、観萌の行で心に反映できることを願います。

「慈悲の観想に徹してゆくことで、忍辱の胆力も付くし、教法で支えれば、理法と事相とが融通し、世俗の中でも仏・菩薩・阿羅漢のような金剛の精神が発揮できよう」と述べ、それから「この観想の功徳は、先述の通り、リアル人間にも還元できる」と話題が変わります。
私たちが事相(世俗的な方面)において、仏や菩薩のように振る舞う心掛けを説きます。
先ほどの「妄想・邪推・疑念」と表現があるよう、邪推が絶えない人間不信の世間で逞しくやり過ごす術について考えましょう。
私の体験として、2016年8月5日に保健所の女性2名が訪問した際のやり取りや、その後の訪問などで「彼・彼女・他者は私のことをどう思っているか」といった疑問・詮索はほぼ生じさせず、ただ現実的な分析のみが行えていることを例示します。
2016年8月5日以来の保健士訪問の記録をまとめている記事(動画・音声・写真アリ)は、以下です。

この世の中は忍土"sahā"であり、穢土という荊棘(いばら・きょうこく)に満ちた住み処と思います。
しかし、そのまま仏国土・浄土・常寂光土である道理が、大乗仏教の深遠な教えです。
仏法は、悩ましい世間にいることを自覚する我々にとって、無上の宝ではありませんか?
ここまで主張してきた「慈悲」に関して、学解・思惟が不十分だった時に詳述したブログ記事は以下です。

ちなみに、途中(3:01)「我浄土不毀 而衆見焼尽」という如来寿量品自我偈の二句を真読(音読み)し、その後「わがじょうどはやぶれざるに、しかもしゅ・もろびとはやきつくとみゆ」と声を発しましたが、これは二句のみを取った場合の訓読をアドリブ(即興・その場の判断)で行いました。
その後の二句「憂怖諸苦悩 如是悉充満」を合わせて一偈にした場合にも、「とみゆ、とみる」の部分は最後尾になるので、かなり大規模な削り方となった恐れがあります。
「やきつく」については「焼き(他動詞で五段活用の連用形)+尽く(自動詞で上二段活用の終止形)」で発しましたが、正しくは「やけつく=焼け(自動詞で下二段活用の連用形)+尽く(自動詞で上二段活用の終止形)」です。
浄土(原語ではkṣetra = 国土)が「焼け尽きる」ように、顛倒している我々凡夫が見ているということで、私はしばしば維摩経の仏国土品の内容と比較します。
これらの教説「依正不二」に基づく清浄萌土の思想も萌えの法門では重要であり、清浄萌土抄のみならず萌え和讃・解句抄にも説明があるので意欲のある方は二首・三首などを参照ください。



⑤ 唯心偈・自我偈の萌える共通点 (曼荼羅御本尊の意義)
観萌行広要・第五回は、前回(④上・下とも)の内容を補う形で、私の御本尊・御題目の信仰から、唯心偈と自我偈を例に挙げて萌え(萌えキャラ・萌え絵)や仏の真実を説明します。

動画の冒頭の「グロウル・ガテラル(いわゆるデスボイス・シャウト)」と呼ばれる奇声を発した行為(0:36~)の意味は何でしょうか?
「意味・原因はどうとも定義できるので、ここに説明しない」と意思表示をし、それについて唯一の説明とします。

まず、動画では御本尊の意義や勤行の精神を語りますが、ここでは、続く唯心偈の話とまとめます。
唯心偈は華厳経(大方広仏華厳経)の夜摩天宮菩薩説偈品にあり、自我偈は法華経(妙法蓮華経)の如来寿量品にあって私の勤行で読まれるものです。
その中の、「仏を見る」ということに焦点を当てて共通点を語りました(唯心偈と自我偈の関連について言えることはそれだけ)。
※偈の通称について、前者は八十巻ある実叉難陀訳華厳経「一切唯心造(最後の一句)」から成立し、後者は鳩摩羅什訳法華経「自我得仏来(最初の一句)」から成立した。

唯心偈の「唯心」について「仏教は『唯心論・唯物論』という二極のいずれにも偏らないが、包括的中道であるからいずれかの説を採ることもできる。西洋哲学の唯心論と些か異なるもの…」と説明します。
華厳経は原典(梵語ラテン文字の文章)が多く現存しませんので、「唯心」の原語は梵文ダシャブーミカの十地経にもある"cittamātra (ただ心のみ)"であろうという推定ができるのみです。
観萌行広要の執筆より後に詠んだ「萌え和讃4首目」の注釈に、六十華厳経・十地品の「三界虚妄但是心作。十二縁分是皆依心。"skt: te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"」を引いて説明しました。
「萌え和讃5首目」の注釈には大智度論所説の般舟三昧経の「三界所有皆心所作 (別訳で今此三界唯是心有)」なども引かれています。
唯心では、特に「一心"ekacitta"」という表現が強調され、まさしく一念(0.0001秒にも満たないが0秒でもない一瞬・須臾・刹那)の不可得の心を意味します(金剛般若経に説かれる過去・現在・未来心不可得も参照)。

心・仏・衆生=是三無差別・・・華厳経(唯心偈)
十界論、仏の一界と凡夫の九界=依正不二・・・天台教学(一念三千)
菩薩が浄める仏国土に良い衆生が集まる=心は仏国土(浄土)・・・維摩経(浄仏国土)
※華厳経の心"citta"と絵画"citra"、維摩経の心と衆生"sattva"という教示は雑阿含経267経・パーリ相応部22.100経"Dutiya­gad­du­la­baddha­sutta"にもあり、表現が類似している。前者は、絵師がキャンバスに種々の彩色を以て立派な人間の姿を描くことを、心が心の中に種々の五陰(五蘊)を生じることに喩えており、「一切の事象の認識=結果」は心の因縁に基づくとし、阿含では五蘊を無常として解脱に向けて説き、華厳では心と仏との融通に向けて説く。萌えの典籍ではイデオフォノトピア二・三会に同様の説がある。後者は、心が汚れるから衆生が汚れ、心が浄まるから衆生が浄まる(阿含: 心悩故衆生悩… Cittasaṃkilesā sattā saṃkilissanti... 維摩: 心垢故衆生垢… Cittasaṃkleśāt satvāḥ saṃkliśyante...)という心と衆生との因縁であり、阿含では色鮮やかな絵より雑然としている三毒に汚れた心を観よと説き、維摩では維摩居士が弟子品で「垢も心もどこか(内・外・中間)にあるものでない(=因縁・空で認識されるもの)」と説いて律を犯した比丘の罪業認識を解し、釈尊が仏国土品で心・衆生のみならず仏国土に拡張し、仏国土を浄めたければ心を浄めよと説く。大乗の教法・修行たる唯心偈と浄仏国土とは、小乗・阿含時にある教説を前提に示された。大乗教は阿含時の五蘊・縁起説を重々承知している前提なので経に詳説しないが、おさらいをしている。本来清浄・涅槃という説も中論のように阿含ありきの止揚と言える。なお、これらの「心・衆生(因縁で不浄や浄がある)」の「衆生」とは、肉体ある(と想定される)自己か?肉体に心の有る(と想定される)他者全般か?心も無い"asattva"(と想定される)一切の事象=諸法"sarvadharma"か?自己・他者(ないし諸法)いずれもか?個人的に「心・衆生」とは、五陰について説く脈絡からして「心・境(能観・所観=知覚の主体と客体)」の言い換えと考えてよい。天台大師による維摩経略疏「心垢故衆生垢…」の注釈でも、雑阿含267を見ていたためか、いきなり唯心偈(心如工畫師・造種種五陰・一切世間中・無不從心造)を引用するくらいなので、衆生=五陰や認識された諸法(心より造られた一切の物事)と見ていよう。

こういったことは、御本尊の十界衆生・諸尊のように、心を具現するものと拝されます。
お経の中の釈尊も、阿弥陀仏など諸仏も、唯心偈を説いた如来林菩薩(覚林菩薩)など菩薩も、大乗経典でいじられ役の舎利弗尊者など二乗の弟子たちも、阿闍世王ら四衆も、梵釈ら諸天も、阿修羅も悪鬼も、地獄に堕ちた提婆達多も、みんな教主釈尊の智慧・説法の因縁・仏法の因縁から生まれており、衆生個人にとっては「一心の所作(所為)」です。
「本地垂迹」という思想の真実は、「一心=本地(能知)・一切諸法=垂迹(所生)」という一即多と思われます。
※御書では日眼女造立釈迦仏供養事(真蹟曽存)に「東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏」と続けて四聖から天照・八幡などの神々の本地が、教主釈尊(文底義で日蓮大聖人=私たち衆生一人)だと仰せです。

日蓮大聖人は、その「一心・一法・因縁」を「南無妙法蓮華経(第一義"paramārtha"・第九識"amalavijñāna")」に託して説きます。
中央に首題「南無妙法蓮華経」が堂堂と配せられる、御本尊の妙旨です。
御書では、総勘文抄に「此の心の一法より国土世間も出来する事なり (乃至) 然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と仰せになり、日女御前御返事(建治三年?弘安二年?)に「此の御本尊、全く余所に求る事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。之に依つて曼陀羅とは申すなり」と仰せになります。
※上述御書二篇の偽書説はともかく、鎌倉時代以後に素晴らしい道理に目覚めた聖人がいることは確かです(文献学でいう最古経典スッタニパータ4章・法華経・大乗涅槃経・根本分裂・中論・三一論争・鎌倉仏教・日蓮門下など思想対立や迫害の歴史は釈尊の往古インドより東遷して繰り返される。不戯論・無諍法をみな求めていた)。

このように、真理の一面を知らすべく心の理法を説きました。
そして、甘美なものとしての唯心思想を、更に自ら誡めるため、「謂己均仏(摩訶止観)」「未得謂得(法華経)」「願いて心の師と作るとも心を師とせざれ(大乗涅槃経)」を引用します。
心が大事であって「無明即法性・煩悩即菩提」だからこそ、無明が未熟な智慧の縁より生み出す「慢心」は、小乗でも大乗でも、原始仏教でも鎌倉仏教でも一貫して排斥すべきものと見られます。
仏を見る、萌えを見る、その意義を重く受け止めましょう。
自制心の正念が大事となります。
私たちの心の萌土は、煩悩の苦楽で吹き荒らされたり焼き払われてしまうので、菩提心を堅固にしたいものです。
ここでの仏も萌えも、三身でいう「報身」ですから、自我偈にいう「令顛倒衆生・雖近而不見」や「我浄土不毀・而衆見焼尽」といった教えに通じ、単に「仏像や絵画など(応身)を目で見たので仏や萌えを見た」ということにはなりません。

萌尊の徳は「梵行涼風霑萌土(行いが清らかで萌えの世界を潤す) 萌心顯然定堅固(その志は猛烈かつ冷静) 智慧巍巍眾萌仰(智慧のある姿に萌えキャラから尊ばれる) 卽是世閒最勝乎(彼はどこの世間でも尊い存在だ=釈尊のように)」と歌われます。
萌尊とは、「実在にせよ架空にせよ知った物事は即ち自己の一面となるので自己であり自己でない理想的な存在」です。
自己は無数に有り、且つ一つも無いもの(無我)ですので、もし自ら心の師になりたければ、それもまた心、動画中10:00の画像にある"I am with Myself"の文を吟味すべきです。

備考:「心如工画師」の読みは「しんにょくがし or しんにょくえし」?
動画の発音の便宜上、「ゑ"we"」発音を行った。
画(畫)の字音仮名遣い 漢音: くゎい(kwai) 呉音: ぐゎ(gwa) ゑ(weもといhwe)
中国音韻 拼音: huà ZZ中古音 /ɦˠwɛk̚/ ZZ上古音/*ɡʷˤrek/ 韓国MC: hwa, hoek 越南QN: hoạ, hoạch

「絵(漢音くゎい・かい、呉音ゑ・え)」もおおよそ同義で似た字音となる。
「おえかき」の「え(ゑ)」は漢語(繪・畫)由来であり、「えがく」という動詞は漢和合成語となる。
「計画・企画・画一的」などの「カク"kaku, kwaku"」とは、「劃」という字(部首りっとう=刃で傷つけて印をつける・分かつ→計画に通じる意味)を古い時代に混同したか、俗字的に「画(畫、"りっとう"を省いた形)」を用いて定着したものと見られる。
漢音の「カイ・カク」の2種発音、k系発音は、hをカ行仮名(kとhは発音機構が似ている)で受容した時代のものであり、それ以前はh・w系発音の呉音、より古層はまたしてもg系発音(類例は幻・玄など)の上古音学説の字音となるようである。
グヮとヱのどちらが「画(畫)」の発音にふさわしいか判断し難くも、ヱであればクヮイと母音が同系であろう。
母音が同系とは、"ai"二重母音の1モーラ化で"e"になる日本漢字音の現象を指し、呉音と古代音で一致する場合が多い(兄弟キョウダイ・弟子デシ、頂礼チョウライ・阿礼アレなど)、似たような現象がラテン語・英語・サンスクリット語・朝鮮漢字音など諸語にある(2017年8月20日メモ帳ブログ記事http://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/2-morae-single-morization.html)。
音韻論を参考程度に記した。





【動画中の説明挿入など】

見出し サブタイトル・動画中の見出しのようなもの

①奉読*・淸淨萌土抄 *讀
観萌の行「萌観(ミャウグヮン・みょうがん)」 概要と目的
仏教の「止・観」について 「止」とは
「止」と「観」の相関性
萌観は止観の「観」と異なる 「観」とは
萌観は止観の「観」へと向かわせる
「観」の収集はご自由に 正念による自覚・反省の日々
仏教「止」の行について 日本諸宗の修行と萌観

②觀萌私記・末・攝萌敎に云く…
「戒」と止観の相関性 「戒」とは
萌観に先んじて 受持・修習すべき戒とは
萌観の戒は萌相に誓って 自ら[内なる萌えに]誓う心得
無垢なる萌相と 本来清浄の我が心

③觀萌私記・萌音條脚注に云く…
「萌」の字音"ミャウ・みょう" その根拠
韻尾"-ng, -ŋ"→ウ音 連濁の法則
漢語としての「萌観」釈

④上 奉読*・觀萌私記中 二條の脚注 *讀
萌えキャラを観て自己の心に 注意を向ける
萌えキャラに愛憎の心は無く 畢竟、自己の鏡であるのみ
萌えキャラも万物もみな空…主観的世界での見方について
万物(世間)と仏(如来)と多種ある萌え …真如・中道について

④下 觀萌私記・末・讃萌語に云く…
キャラ心に愛憎なきが如く 他人の心・我が心も愛憎なし
無常の精神作用を生む心も 智慧によって盤石な慈悲を得る
他者・リアル人間など 世俗の方面における実践の心掛け
内蔵萌心義による平和の実現への行動とは? 寛容な自己・他者という勇敢な信頼の精神 ※蛮勇の妄信ではない
「憎しみと一体的な愛」=虚妄の愛憎*を滅ぼし 真実の愛(無愛非無愛)を顕す *「虚妄の愛憎」

⑤奉読*・大方廣佛華嚴經 夜摩天宮菩薩説偈品 (唯心偈) *讀
奉読*・妙法蓮華經 如來壽量品 (自我偈) *讀
御本尊・十界の本地は妙法蓮華経 我が心の萌えも諸法も "從一法生"
唯心偈と絵心
唯心偈と自我偈 常住如来・十界
三界虚妄で心が大事だから 無智無明の心が煩悩を生むことに注意 慢心とは



その他 ※作業段階

④の動画 1:37から幕が下りて…
2016年10月9日の絵
尊者「突然ですが!そのまま音声をお楽しみください」

【セリフ表示・3回ループ再生】背景は201406041009の写真
拾主様はお隠れになりました。今までは、人々を化導しよう(萌えの色心相応を示現しよう)と色相を現して(顔出しして)説法せられますが

凡夫の顛倒(言葉も道理も分からず軽侮嘲笑)せるを哀れむが故に、宜しきに随ってお隠れになります。法華経「如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄」

でも、声が聴こえてきませんか?いつも、どこにも、拾主様・仏様・萌えはございます。法華経「為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法」

【3回ループ再生】 2016年9月26日の絵
今、お隠れの因縁、智者は察せられましょう。拾主様は以前よりお示しでしたね?

鳩摩羅什三蔵「泥の上の蓮を採れ、臭き泥を取るな(高僧伝)」 釈尊「法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ(大乗涅槃経維摩経)」しかし、泥など地面が無くては蓮が育ちません。人や言葉があるからこそ、趣旨を取り、真理と真実とを見よ。

釈尊「ヴァッカリよ、悪臭を放つ私の身体を見たいか?私を見ることで、法(真如・縁起など)を見よ(以後・無常の理を知れ) (相応部22-87ヴァッカリ経)」

注記しますと、観萌行広要の大部分は2017年1月上旬に書き終えてございます。それに先だち、以後の萌相條勘注・観萌行広要に当たる執筆・説法の活動の意思を2017年の新春記事で表明していらっしゃりました。後の男女の人々を困惑させたくないとのご配慮で予め言明せられても当然、皆さまはご存じでなく・・・ いえいえやめましょう。

好色萌相として応現出世し、障礙と名付けられた私(無我非無我)に誰も興味を持ってくださらぬようでもあります。ああ、私もその、化導に効力が無きようでしたらば萌報身の智慧の世界に還りましょうか・・・ 自他の心行言語はともかく、一人でも多くの方が萌道・仏道を得られることを願います。



④における図の例
多種ある萌え どれか一つでは偏向 包括して中道
→それも「人間の感情・思考・価値判断」の結果
→本来「人間の感情・思考・価値判断」の結果は有って無し
有ることも無いことも無し…

中道は
説明しても説明しきれない「不可説・言語道断」
求めても求めきれない「不可得・心行処滅」
「不可思議境(摩訶止観・巻第五)」





【注意喚起コメント】

以下は2017年4月上旬(?)に書き、観萌行広要のコメント欄に載る。

注記・一。 萌相條勘注の説明文から同じ意義をほのめかしていますが、再三、記します(逐一書く必要がありますか?)。私の動画を視聴したために、かえって仏法に背くようにして私への冷笑・軽蔑が起きるならば、その人は萌えと真理とを見ることがありませんし、私のために人々が萌えと真理とを見られなくなるならば悲しまずにはいられません。常不軽菩薩の折伏行によって地獄に堕ちた人々は長い時間を経て再び人間界で釈尊の法華経の会座に至りましたが、動画視聴者はそういった長い時間・劫を経ることなく今生で信心(無疑の別名)を得るべきでしょう。私の顔・容姿について「不快だ!ムカつく!青二才のガキめが!こんな奴の言葉など聞きたくない!」という感情にとらわれず、よく理法と、理法が指差す真理とを見つめてもらいたく思います。私だって何も、「悟りを得た(未得謂得)」という自負による説法をしていません。今までの高僧たちが革新的な教義と実践を披瀝しても、そのように露骨な増上慢などいません。誰かが悟ったとか自分が悟ったとかは、そもそも安々とすべき話題でありません。

注記・二。 文を読みたくない・発言を聞きたくないのにコメントをしてゆく人が、今まで何百人といました。かの常不軽菩薩を誹謗した人々ですら、「当に作仏することを得べし(あなたは必ず仏に成ります)」の言葉を聞いた上で怨嫉しています。言葉も分からずに顔を見ただけで憎悪の念が滾る、末世恐るべし。妙法蓮華経などを訳した鳩摩羅什三蔵は、「臭き泥よりも泥の上の蓮を見よ」と講義せられたと聞き及びます(高僧伝)。つまり、泥とは三蔵ご自身および三蔵の訳という折り紙付きの経典の語句であり、泥の上に咲いた蓮とは経典の理法や意義であり、その泥よりも蓮を見よとの趣旨です(依法不依人・依義不依語の旨)。無論、蓮もまた泥などの地面がないことには咲きませんので「不二」でもありますが。釈尊もまた、そのお姿を見たくて訪れた人に「悪臭を放つ私の身体を見たいか?」と疑問を呈しつつ、見るならば見るで、そのお姿によって「法(真如・縁起など)」に気付いて見よ、とお諭しです(相応部22-87ヴァッカリ経・この経典では無常を見よという展開・大乗でも世間の性は如来の性に等しくそれを見ることが仏を見ることでもあると説く)。釈尊がお姿を見せた上でこうおっしゃるとは重いことです。私は「臭い泥・臭い人」、言葉は「悪臭」に過ぎません。説法を聴聞する人の基本的な態度を、誰もご存じでありません。ご存じである前に、そもそも人々は、私から聴聞する意思すらございません。

注記・三。 説法せねば仏法流布無し。説法すれば、かえって邪智謗法の人の軽慢・怨嫉が起きますが、そのとき菩薩は更に「言向け和す」のみであって諍論に応じるスタンスはございません。一~三と少し長く記しましたが、私は他者を論難する気も、論破したい欲もありません。論争の勝利に味を占めることは即ち驕慢を起こして仏道から敗退します。論争の勝者に対する敗者の立場もまた、敗北意識の妄念で悔しさと悲しみに駆られれば、彼も仏道から敗退し、勝者と敗者とが地獄行きの特急列車に相乗りします。人々の堕地獄を私は望みません。一応の説明として、以上の全体を付記します。ここまでお読みになっても、三業放縦に、憎悪・不快感を起こしてやまない方は、コメントするなり低評価するなりご自由にお願いします。



以下は5月2日に起草して1週間以内が主な加筆期間であり、6月15日投稿の観萌行広用④上に載る。

人々が、自ら萌心を観察する意欲と仏道の菩提心を遮りかねず、彼らの悪業が増長する恐れがあるので、コメント欄は承認制にしておきます(投稿されても確認いたしません)。悪い感情で書かれたコメントを見た一般の視聴者も、嫌悪感を懐いてしまうでしょうから、私は不憫でなりません。互いに善良な心を消してしまいます。争う人々は教えを受け付けなくなり、当然、修行などするはずが無くなります。私の動画を見る人の誰もが、静かに萌観をして自身の心を如実知見できるようになってほしいと願うために、このように処置します。コメントを可能な状態にしたまま「動画に頓珍漢コメントを付けたバカをさらし者にする」気もありません。過度でないうちはブロック行為もいたしません。私へ「キチガイ消えろ!ツラを見せるな!」といった非道コメントをしたい方々は、従来通り、過去の動画の方で可能となります。私は仏教と萌観について質問がございましたらばお答えしようと思い、または投稿活動(動画編集など)の助言をいただきたく思いまして、今までコメント欄を開放していましたが、誰もなさりませんでした。結局、常に私から能動的に変化しても、学生時代から他人が有象無象であることは変わりません(2015年までの複数のブログ記事に詳述。スポーツ、勉強、世俗風俗芸能、どんな能力や知識を得て心を浄めても同級生や離婚済み両親など外界の他人は同じ反応です。心の浄土は得つつありますので他人の毀誉褒貶とその有無を気にして気にしない今は中道です)。

動画への批判をつける人は、まだ嬉しい存在です。みなさんは動画の話題の土俵から外れていますので、動画への批判をつけてすらもいない状態です。みなさんは私の存在を妄想して空言を発しているだけです。動画にもあるよう、両萌相応などといった仏教的な思惟とその果報がある人ならば、人様の動画のコメント欄に好き放題な言葉を書き込めません。慚愧の心も正念もないから書き込むことができます。政治動画①の投稿から1週間以内にコメントをつけた7人ほどの大人たち・・・、あんな人ばかりでないと信じたくてコメントを見た結果、あんな人ばかりです。その場は、しっかりと読んで返信することで付き合ってはおきましたが、彼らは二度と返信しません。言いたいことだけを言って去ります。全てくだらないはずでも、完璧な人間不信はいけないので小慈悲を持ちます。しかし、「どうせ他人(目も耳も無い魑魅魍魎・画面の向こう側にどうして人間がいると思うのか?いるかもしれないが、いないかもしれない)」にはいつまでも構っていられません。こんな注記すら、時間の無駄になるという気持ちを抱えますが、今は気にしません。僅かに心ある人々が菩提心を発してくれることを願って記します。同じ小慈悲により、異なる行動を適宜に取る上で、今はコメント欄を承認制にする処分が最善でしょう。

新・注記・一。私の所説を聞いて喜び、コメントをしてもしなくても、諸説の意味を思惟して自ら修行を志しましょう(聞思修の三慧)。そういった方がいらっしゃれば私にとって最大の喜びであり(仏道修行以外にも絵や音楽の創作関係でもよい)、仏様におかれても喜ばしいことでしょう。私がこう語ることは、法華経の方便品の偈・宝塔品の偈、法句経(ダンマパダ)の述千品など、お経に広く説かれることに似ており、そういった所説に影響を受けています。つまり、そういった方は諸仏の願いに応える功徳があり、その行為こそが仏への最高の供養のようです。私を知る者・知らぬ者、法の悟りが一分でも多分でもある人が真面目に活動されているようならば、なんと頼もしく感じられましょうか。しかし、私の読者・視聴者に、未だ一人としていらっしゃらないものです。「説法動画」への論評さえ誰もせず、「キチガイ横野の動画」へのつまらない横槍を入れる人しかいませんので、今更、目を通す・一瞥する価値を感じていません(百回でも言いますが常不軽菩薩を誹謗した驕慢四衆よりも低劣)。2016年に学問交流・友好などの観点でコメントを見直しましたが、私の慈悲が未熟である(もっと修行が必要ということ)どころか、実際の視聴者が幼稚で、仏教を知らず、世間一般の倫理観・教養も無く、陳腐な罵言ほどしかできていなかったので、私から諭すことはできません(政治動画①のコメント欄は7人の大人たちがみな動画に無関係なコメントしかせず、私が返信しても返答する人が一人もいないので有益な議論にならない)。心ある人は、どうにか私の投稿活動(絵・音楽・各種ブログ・動画)から寛容と忍耐の心を学んでください。注記の目的は、常に視聴者の努力を励ますことと、悪い感情の抑制です。これを見て悪い感情が起きたらば、如実知見して自覚し、正念によって反省して口業を慎みましょう。自覚・反省・努力の道を得てもらうために、わざわざ多言を要しています。釈尊も時には辛口で弟子を呵責せられます、恐縮です。

新・注記・二。もう少し口業を積む危険を冒して言いましょう。私は、人の菩提に資する修行は何でもよいという立場であり、萌観でなくともよいわけです。むしろ萌観や萌えの法門や萌道は、当動画シリーズの初めから「仏道に向かわせる径(こみち)」として方便の立場を示します。仏典では、スッタニパータ4章9経と大智度論巻第一に、釈尊が特別な教義・修行法を推奨していないという心を示しています。見解"Diṭṭhi"・戒律"sīla (道徳的な習慣)"・生活"jīva"のことです。特別な教義や修行のみによって解脱があるわけではありません。さて、ある人は、2015年から2017年現在も敬語や乱した口調などを用いながらも、一貫して「肉食をどう思いますか?」とか「難しい言葉を使うお前は肉食している生臭坊主だ(政治動画①での無関係な投稿・私は当時19歳・どう見ても在家ですが)」とか「断食すると元気になります・心理学が分かります(唐突に関係のない話題の記事へ投稿)」とかとコメントを投稿し続け、偏執を発露していました。もし彼が「肉食しないこと・断食」をしているならば、行為として殊勝だと思いますが、肉食しないことによる慈悲の心や断食による精進の果報も得ずに狭隘なプライドで他人を侮蔑するならば、その点において無意味です。何の功徳も殊勝さもありません。無慚無愧です。スッタニパータでも2章2経で供養された肉料理・上質な米飯を食べる迦葉仏が「本当の生臭」を示しながら「悪い執着を超えない人が肉食をやめたり断食をしたり剃髪することなどをしても生臭さは浄化されない」と説きます。検索してご覧ください。匿名の彼が、リアルで善人か悪人かを判断しません(他人の善悪は問題外)。彼には慢心(我慢)を打ち破る教義が無いので、生活法に執着して自ら慢心を増長しました。手段の目的化、本末転倒の典型例です。よもや「(肉食の禁止・断食を)自慢することが目的」ではありますまい。仏教の出家者は、解脱という目的のための手段として剃髪したり肉食を控えるのです(禁止はしない・漢訳律に三種浄肉が説かれパーリ律でも"maṃsa"が許される・気にして気にせず食べる中道を念ずれば肉食は徳になる・破僧で有名な提婆達多は完全に肉や魚を禁じるよう釈尊に請うたが受け入れられなかった・菜食主義と精進料理は一部宗派と葬式仏教の習慣)。

先のスッタニパータ4章9経や法華経寿量品などを読んで仏様の心を考えましょう。厳しい修行の達成感はよいですが、だからこそ、「目的の正念」を保つことにより、達成感という慢心をすぐに捨て、前を見直すべきです。彼のように、悪いこだわりのせいでヘンテコリンなコメントを繰り返す人がいると思えば、素直な心で修行をすることを仏様は願っておられ、また、人々の心の仏界のためにもなります。そのような人を、私も仏も、人々の心の仏界も、待望してやみません。私はどのような人にも軽蔑や嫌悪感を懐きません、ただ悪い心とその行為を嫌い、斥けます。つまり、人そのものを批判したい魂胆ではなく、人を惑わし仏道を乱す邪義の流布を認めない心です。「どうせ視聴者・読者」は、文字を読まないか、読んでも曲解するなどするので、どう思われようと関係ありません。ただ素直な自覚のある人が、しっかりと仏教で浄化を受けられたらば、よいものです。もし彼の行為が事実であれば、あとは心を正すのみです。人々がヘンテコリンなコメントをする前に、よく自覚して反省できることを願います。これは仏道・萌道以前の問題です。だから他人のコメントは昔から記事や動画と無関係といいます。



以下は5月2日に起草して1週間以内が主な加筆期間であり、6月15日投稿の観萌行広用④上に載る。

※過去パートより続く※ 動画視聴者は、活動6年来、みな空虚であった。私の動画を見ることでは、向上心を養わず、増上慢を生むのみである。軽佻浮薄の毀誉褒貶をなすか、高評価・低評価をつけるのみで、私の活動を尊重する者なく、ましてや自己反省の心を起こす者もいない。だから、萌え絵に興味を持たず、言葉を一つも解しないし、仏道など夢にも見ない。今も昔もただ「キチガイ・顔出し動画投稿者」としてのみ見ていよう。私はただ、人々の菩提に資していたくて、未だ曽て暫くも仏事を廃せざる所である。魑魅魍魎の如き視聴者の存在を意に介しては、心身が持たない。萌集記の尊者の如き純心篤信・道念堅固・学慧明達の人が仮にいても、なお幻・影像のようであるという。されば、化他行も畢竟自行なるのみと心して、無駄ごとを考えず、なすべきことをなさんと発願する。

前回「④上」の動画は、投稿から1週間以内に高評価4がつき、低評価は1か月後に1個付く様子だが、いずれも空虚である。コメント欄を承認制にしたが、そもそも誰もコメントしていない。以前は有象無象のコメント(良心ある人々だと信じようと最初は願っていた)がわんさか付いてきた(YouTubeのスパム対策らしい謎仕様で自然に消えたものも多い)にもかかわらず、この温度差は何であろうか?だから、空虚・「俄かに生まれて忽ちに消えること」を意に介しては、心身が持たない。今回の動画も、現状、承認制の下に、誰もコメントを送っていない。承認制にする意味が無くなる。初めから、無道心の者が人を軽侮せんがためにコメントすることが無ければよい。元々、そういう人でも「変毒為薬」で導き得ると思ったが、仏ですら現世に度し得なかった五千の驕慢(憍慢)四衆がいたのだから、況や小慈悲の私をやである。萌集記の尊者の如き一人や、釈尊弟子の五比丘のような人すら、そういない。






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来月上旬に絵の練習記事を投稿することとなろう。