閑居求道者 隠棲覚者 萌尊 萌報身

「平成30年・新年記事」が無いといけないので、たまたま1月1日に起草した文章を載せる。

世間には「ニート」や「引きこもり(ひきこもり)」という概念に「クズ」等と悪い印象の属性を付属させたり、事象に「自分を省みず他人を鑑みず意志が無い」と悪い印象の原因を想定した種々の説がある。
世俗の人から一部の宗教家まで、口をそろえ、そのように説く。
漫画・アニメ・ドラマ・大衆音楽の歌詞なども、そういった思考を前提として作られたものであることが、2018年現在もおおよそ変わりなくあろう。
修行者は「所詮、世間とはそういうもので彼らの思考を変えさせる必要は無い」と了知して他者への執着や憎悪を捨て去り、速やかに修行に戻ろう。
同じく、彼ら他人たちもまた、彼らが想定する「社会悪」云々を排除できる道理が無い(当事者に憎悪の心があるうちは社会悪も消えず・世界平和も実現されず・真の幸福も無い)。

世間の人は、そういった概念の名称に、副次的に様々な属性を付属させる。
それらはみな、条件に依存して付けられた「虚構・戯論」である。
その、世間の人の言説・心理は、十二因縁などの因縁・縁起を見れば、解明される。
※世間に生きるならば他人の主張を尊重することは重要だが、私は当事者と話したことも無いので、最初から関係が無い。あるいは同じく世間で主張する者は、同次元の因縁によって反論をなす権利もある。しかし、修行者は以下の通り、厭離(えんり)・遠離(おんり)・無諍(むじょう、怒りによる主張が無いこと、喧嘩が無いこと)・不戯論(ふけろん)である。

世間の見解の根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情や、など、多くの因縁を見る必要がある。
あらゆる見解・論理・主張とは、因縁によって構成された「虚構」である。
そして、「虚構、虚妄の構成物、有為法、たったそれだけのこと」と達観し、厭離すべきである。
世間に、客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)ので、どんな論難や非難でもあれ、みだりに悩まなくてよい(悩む心は執着・煩悩の心であり地獄に転生する原因)。
なおかつ、その仏教的見解や立場にも執着せず、自分のすべき修行を黙々と淡々と実直に質実剛健にすればよい。
これが不戯論の八正道・中道の仏道である。
阿含時の教説であり、小乗仏教における一乗"ekāyana"に通じる。

パーリ経蔵・相応部・悪魔相応"Rajja Sutta" (漢訳の雑阿含1098経)
釈尊が独りで坐り「非法(殺す・人間の勝ち負けなど)を行わず・民や臣下へ行わせず、法で王国を統治できるか?(世界平和は実現できるか)」と思った時、「あなた(釈尊は王族の出身)が還俗して王宮へ戻って国を統治すればよい。あなたの力があれば石も金に変わる」と勧める声が聴こえ、釈尊は悪魔のささやきと見抜いてこれを呵責せられた。加えて「世俗の幸福は無常であり、人々が欲求満足を得ても苦の根本的な解決とならない。たとえヒマラヤ山脈を黄金の山に変えても、足ることを知らず・更に求めさえするし、失われる恐怖もある。そのことを知る者は、国王として人々を欲求満足させる手段を願わない。私は人々に苦の因縁と苦の滅とを知ってもらって欲や執着の制御を願う」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

パーリ経蔵・小部・スッタ・ニパータ3章2経"Padhāna Sutta"
釈尊が未だ成道しないで真面目に苦行をしている時、「痩せこける醜い修行よりも世間の善行をしなさい。今のあなたの努力は無駄だ」と唆す声が聴こえ、釈尊は天魔の所行と見抜いてこれを呵責せられた。魔軍について「第一に欲望"kāma"、第二に嫌悪"arati"…(8つ以上に挙げて) この魔軍には、世間におけるどの人も天に生じた者"deva"も、気付けず・打ち破ることもできないが、智慧"paññā"であればできる」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

→自己反省をしている時、自分の道を見失わせるような思考・踏み外させるような思考が起これば、それを「悪魔のささやき」と了知して(知って・見抜いて viditvā)自ら振り払うようにせよ、という技が示される。自分の中にも「世俗的良心」があるが、まず悟ることが、道行く自覚のある者の優先事項である。他者は修行の道において無知であり、既に見つけた自分の道・自分の人生に関しない、単に音声や言葉が脳に入ったのであり、それ以上でもそれ以下でもないと了知すればよい。これらも自己が仏教に基づいて了知するという因縁(因と縁)の結果であり、その立場にも執着すべきでなく、心に迷いがあれば戯論があると反省思考(止揚)を繰り返す。戯論は輪廻であり、自己が苦しみの世界に転生する道であり、その戯論を逃れて解脱することを思い、執着すべきでない。とにかく!執着を離れる。一時的な不快感や憂鬱に浮き足立ってはならない!心を自ら欺かず、正直・正々堂々とする。

維摩経・仏国土品「(舍利弗言わく)我、この土を見るに、丘陵(くりょう)・坑坎(こうごん)・荊棘(ぎょうごく)・沙礫(しゃりゃく)・土石・諸山・穢悪(えあく)充満せり。」
法華経・如来寿量品「我が浄土は毀(やぶ)れざるに 而も衆は『焼け尽きて 憂怖・諸の苦悩 是の如き悉く充満せり』と見る」(五字偈の形式に基づくスペースを挿入)
※実に世間は針の山のようである。一歩踏み外せば傷を受ける、煩悩・業・苦の娑婆である。趣味の事物は我々の興味を引くが、音楽の歌詞や漫画・アニメ・ドラマのセリフなどには苦が満ちており、食べ物一つさえも心身の患いを生むと観ずべし!苦のたとえが「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように示され、実に世俗の事物は「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように恐れて厭うべきである。世俗の事物は欲求の対象であると同時に、我が心身を苦に至らせる因縁を持つ。「華麗なバラにトゲがあることを恐れるように、欲望に注意を持とう」と。未だ悟っていない修行者の立場では、まずこのように世間を厭離すべきである。後述する「菩薩(平等の心)」の立場では別の話である。

そう、自分の心と違って他人の心を動かすことは、十二因縁の法において不可能である。
他人の心とは、色"rūpa"の一種として、自分の心の作用=受・想・行・識の外にしかなく、他の色"rūpa"が受"veda, pratyakṣa"の因縁によって把握されるように、推量の因縁によってのみ看取される。
自分の心の外の物事は「幻」であり、他人の思想も「幻」である。
「幻"māyā (マーヤー)"」とは「①自分の心をたぶらかすもの ②有って無いような幻影 ③心が生み出す象徴・幻想」とインド思想や般若・空思想に示されている(般若・空の教理では自分の心も当然、幻のようで無に等しいがそれは進んだ理法であり今は差し置く)。
修行者は、まず、自分の心の悪を自覚し、反省し、速やかに取り去るべきである。

「言葉で心を粉飾する『気休めの教え』」ではなく、自ら体得してゆくことは、自分の心を思いやることであり、他者にもまた体得してもらいたいと願う。



大乗仏教においてはどうであろうか?

インターネットで私が活動する際は、「仮名(けみょう)」としての「中卒・無職・ニート・引きこもり」である。
世間で定義された意味の側面で、そのように名乗ることができる。
例えば「ニート」とは"NEET; Not in Education Employment or Training"ということであり、世間の教育機関に属しておらず・職歴も無いという点で、私は該当する。
ただし、人間はいかなる概念に属せず、名称が当てはまらず、人間という概念自体が空虚であることは科学・哲学において論を俟たない。
科学・哲学においてすら、人間"Man, मनु Manu, Human, Homo Sapiens"の概念・定義は一定でなく、ある定義(生物学的・法律的・感性的なものなど)で一般的な名称を付したに過ぎない前提で、「『人間』という概念の名称」を用いる。

そのようにインターネットで標榜すれば、その類の人が筆者を見るであろうから、と考える(類は友を呼ぶというもので釈尊が人間界に出現せられたことは「但以仮名字・引導於衆生」と法華経に説かれる・・・私には今までにまともな理解者も反論者も現れず期待外れか)。
因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は釈迦族の人・ゴータマ(ガウタマ)・覚者・ブッダという名を用いる。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

その因縁の理法に加え、「他者は先述のような迷妄に陥っている」と見て憐れむ。
「人間の本当の心はそういった迷妄も無く清浄である」と慈悲を以て思えば、他者はみな愚かな子供のようであり、親のような立場で慈悲を持ち、なおかつ他者を見下さなくなる。
菩薩にとって、他人・一切衆生は幼稚な子供のようであり、我が子のように哀れむべきだが、なおかつ、そんな菩薩としての自分を育てた者もまた、他人・一切衆生であり、みな親のような存在であるとも知る。
これらも理由づけ=因縁により、他人はみな子であり、他人はみな親である、と了知した結果であるが、どちらにしても自分の心が苦しみを持たない、慈悲の思考である。
大乗仏教を志す人は、同じく、因縁の理法のうちではあるが、このように他人を軽んじず、なおかつ特定の他人に依存しない「自由な心・解放された感情」を求める。
ただ仏法を尊重(そんじゅう)すること、法に依って人を見る(≒見ない)。

今は、仏教の教義のままに見れば、この世は不浄・険悪な場所であり、他人はみな愚鈍・愚昧・愚癡・迷妄の存在でしかないが、自分の心が仏のように清浄となれば、他人の心にもまた不浄な概念(自分が不浄と思う・不快に思う・偏見らしい概念)は無く、この世も浄土となる。
仏教の教義に依れば、まず他人は「不浄の悪」だが、それを見て自己反省して修行をする者は、かえって「善知識(よい仲間)」とすら見える。
それら、他人の心の善悪や是非を詮索・邪推せず、「自他の心は不染不浄という真の清浄である」という教理が観萌行広要清浄萌土抄に詳述されている。
内蔵萌心(讃萌語: 内に藏したる萌心)と肯定的に呼ぶこともある(>自性清浄心・阿摩羅識)。

自分も他人も、本当は、そんな悪い因縁に囚われねば、みな清らかである。




上の説明に関連する教説を、大乗仏典より引用する。


一切衆生は如来・菩薩にとって我が子
妙法蓮華経・譬喩品より
如來已離 三界火宅 寂然閑居 安處林野 
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 
而今此処 多諸患難 唯我一人 能爲救護
 如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居して林野に安処せり。今この三界はみなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり。而も今この処は諸の患難(げんなん)多し。ただ我一人(いちにん)のみよく救護(くご)を為す。

一切衆生は如来・菩薩にとって我が親
維摩経・大智度論にあった気がしたが…*
維摩詰所説経・仏道品より
何等爲如來種。 (中略) 有身爲種。無明有愛為種。 (中略) 以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種。
 何等を以てか如来の種と為す? (中略) 身有る(原文: satkāyaḥ (-dṛṣṭi)→有身見とも)は、これ種なり。無明・有愛(三愛の一つ"原文: bhavatṛṣṇā")は、これ種なり。 (中略) 要を以ってこれを言わば、六十二見および一切の煩悩は、これ種なり。

悪しき他人も善知識(よい仲間・師匠)となる
妙法蓮華経・提婆達多品より
由提婆達多、善知識故、令我具足、六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力四無所畏・四攝法・十八不共・神通道力。
 提婆達多が(連体助詞"の"=という)善知識に由るが故に、我をして六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力・四無所畏・四摂法・十八不共・神通道力を具足せしめたり。
※提婆達多とは、仏となられて以後の釈尊に様々な法難を与えた人物であり、様々な経典(パーリ仏典・北伝部派経典・中国日本仏教書など)で悪人の典型例として示された。いわゆる阿鼻地獄に堕ちる大罪、五逆罪のうち「破和合僧・殺阿羅漢・出仏身血」の3つを犯した。大乗の教理によれば、そのような悪人こそが、理由づけ=因縁によって善人の親・師匠となる、と換言できる。

もし自分が清いならば他人も清くて世界も清い
維摩詰所説経・仏国土品より
若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。
 もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち仏土浄し。
※自分の心が世俗の因縁=概念・理由・条件・思考に囚われていれば、世俗に相応した果報=喜怒哀楽など感情に関わる結果がある。それらの世俗の因縁を離れた心は非有非無で不染不浄である。その心を、仏教の仮名の因縁によって説明し直せば、最も清浄である。その心が見る物事もまた、みな清浄である。どれほどキチガイな他人であっても、清浄に見える。ゴキブリが100匹以上いて付近を悪臭・騒音・暴走バイクが行き交う6畳間の自室も清浄である(悪臭は悪臭でなく騒音は騒音でなくただ臭いや音がするような感覚があるのみ)。特定の何かが不浄だとか清浄だとかと考えないことが却って一切の清浄となる。そのように自分・他人・居場所といったもの(正報・依報)が、世俗の因縁においては不浄であったり、心の清浄において清浄であることは、「依正不二(えしょうふに)」とも言われる。これも仏教の真理の見解であり、仮想体験に過ぎないので、死ぬまで淡々と修行してゆく姿勢が肝要である。見解への執着で気を抜いていると、欲望や他者の言葉に打たれ弱くなる時がいつか来るので、仏教を讃嘆しながらも、心で教理=言葉の認識に依存し続けると、知らぬ間にドブに堕ちたり、スキを見た泥棒が侵入するような報いがある。

もし自分の苦しみが絶えたらば
妙法蓮華経・化城喩品より
願以此功德 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道
 願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼす 我等と衆生と みな共に仏道を成ぜん
※偉大なる仏教の教理を聞解(聞いて理解)し、修行して心が解脱したという私は幸いである。その喜ばしい福徳・功徳を、未だに迷い苦しむ他人にも伝え、みな同じ解脱を得させたい。そのように慈悲を念じてゆくことは、まだ私にとって性急なことである。仏教の教理や言語学的知識は喜ばしいが、私の心を一時的にごまかすだけであった。しっかりと修行に活かし、実際の果報としての解脱を求めてゆこう。ひとまずは、緩まず、弛まず、撓まず、間断なく、修行に精進しよう。






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新年(平成30年・皇紀2678年・西暦2018年)、あけましておめでとうございます。
当記事は冒頭にあるように2018年1月1日に起草されたものであり、本来は学術的メモ帳ブログにて1月下旬に投稿する予定であったが、「新年記事」を執筆しないままに時間を過ごした事実を省みてこちらで先行公開をする。
当記事では、この1月1日19時時点の内容のままにしておき、完成品は実際に1月下旬に学術的メモ帳ブログで公開する。
予定リンク http://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/neet-hikikomori-shugyo.html

例年の新年記事(2014151617)に見られるよう、年の1月には私の誕生日があり、今年で21歳となる。

いくらか分かりやすく・通俗的になるように説明し、文言の引用における訓読文も、ひらがなが占める割合を上げておいた。

原文ソースのリンクについても、学術的な海外サイトより、日本人に馴染みやすいサイトを選んだ。

訓読文(読み下し文)や現代語訳などがある(言語学的解釈や教義的解釈の相違もあるが気にしない)。


当記事(元の記事)のタイトルに「障壁」という言葉がある。
仏教の漢語・梵語といった言語学的理解を、過去記事に詳述した
心の中の障害・障碍・障礙、見えない壁・・・。 Antarāya, Prākāra
人生すら行き詰る人々、いかに況や仏道をや。
それも「因縁」によるものと、当記事および当該記事所説のように了知されたい。
そうして、仏道の果報に於いては、障壁が皆無となる。

「道心あるニート・引きこもり」とは、閑居求道者とも呼び得る。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_29.html
ほかネイティブニート→http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

「引きこもり」という概念に関して言及した過去記事の例
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html

人間の思考・精神・知能・認識・人生経験などから、種々の概念があり、語句を関連付け、その語句に継ぎ接ぎの概念や属性がある。
それらは複雑に作られた空虚なものであり、畢竟、無に帰(き)す。
ただし、世俗の中では尊重すべきである…、といった反省思考・止揚を繰り返す。

今では、一語多義=一語無義=一切語無義が当然の帰結となっている。
それを、思考のみならず、修行によって心で体得できるように精進したい。

…、2017年の新年記事の前半パートと似たような内容になった気がする。



記事トップ画像は「萌境真言」の悉曇文字とIAST表記とが書かれてある。
萌境真言の実際の発音は、12月31日投稿動画で聴ける。
萌境真言説示の因縁は、当記事一部記述と通じる。
修行者は、時に悪魔の遭遇を察し、時に天(神々)の力用を仰ぎ、時に善知識の邂逅を知る。
独りでありながら、独りでないともいえる(獨而非獨・独而非独)。
因縁によって仏・天・魔・人などの存在を自ら知る・察す(√vid)。
萌境真言は、そんな修行者や過去萌尊の心を示す話に由来する。

「閻魔が水精(すいしょう・浄頗梨、玻璃鏡)の如く、宝珠明徹(みょうでつ)に功徳を映す。夜摩"yama"も梵摩"brahmā"も能く人の心の如くに三業を知れり。天衆と心と仏とは皆な萌えに違わず。一切に応じて人に法を説く。是れ天使"devadūta"・是れ如来使"tathāgatadūta"と謂うべし。 萌鏡真言Oṃ parama-ratna guṇa-prabhāta svāhā」
※『波藍剌那(はらんらな"paramaratna"・勝宝)』→(hmd-i3にて) デーヴァナーガリー表記 ॐ परमरत्न गुणप्रभात  स्वाहा| 反舌N (ṇ)は悉曇梵字で3種類あるうちの1つを用いた。