Dominus Immensus 尊者自説偈
http://www.youtube.com/watch?v=5lhVZ3Ctiro (およびSoundCloud)

元ネタ: 自著「萌えの典籍」のうちの一作および作中に障礙尊者が発した詩的な言葉 (五字四句漢詩と梵語訳)
ラテン語歌詞の制作期間: 2018年5月14日~6月4日 (梵語訳の詩=偈は2017年10月)
全体の歌詞を含めた楽曲の仮名:  "Dominus Immensus"
楽曲のジャンル: メロディックハードコアパンク (3拍子) + アコースティックやフォーク等
楽曲の再生時間: 4分27秒 (イントロに46秒を費やす)
動画の静止画: 現在までに継続加工された2017年7月10日の絵・その他
※学問の目的性を主とし、言語発音が分かりやすくなるように声の音量を伴奏に比して大きめに調整してある。ただし、実際の発声は録音環境の関係でノイズが入らないよう、声の大きさを抑えている。


【歌詞】 (マクロンなどのダイアクリティカルマーク付き…強勢アクセントを示さず)

ラテン語+梵語(サンスクリット)の歌詞に加え、2つの日本語訳=今昔混交日本語と歌える中古日本語(ボーカルのフレーズが別に用意される)がある。
SoundCloudのページにはラテン語+梵語のみで掲載されるので、その歌詞だけを見たい者はそちらへ。

Dominus quī semper salvet, cōnfīdens in eo servet (正しくはcōnfīdēns, eō 文法的に後者は対格eumか), multum mīrābilia ostendantur, ita audiō ut doctrīna est.
混日:主は倦まずに救おうと望む者であって彼の従者は信じて仕えようとし、彼らは数々の奇跡を見せられる栄誉がある、という教義ありと私は聞いた。
中日:主毎に度せむとす(tōs)、使(つかひ)彼を擁護せむ(ɕēm)。種々の稀有にぞ彼ら見ゆる(yūr)、との教ありと我聞きぬ(kīn)。

Ideophōnotopia, ubī vīsitāvī, ubī vīsitem id autem, nōn scītus mē domine!
混日:イデオフォノトピアは我が已行・当行の処にして、而もそれは私によって知り得ないことが多くある、主よ!
中日:夫れ念音処は、我が行く所にて、我行かむずるも主よ、不可思議の郷なり。

Tuī dīcēns "fīde, exī ab tē malō (厳密にはā malō tuō), vēnī et venī nunc", rē īnfectā sciōne.
混日:あなたの仰ったことである「信ぜよ、あなたの有らゆる悪より離れよ、我来たりつ亦た今汝来たれ」、この事がなされないうちは私は真実を知るであろうか?=知り得ない。
中日:汝(なれ)いはく「信ぜよ、有らゆる悪を避(よ)けよ、我来たりつ来たれ」、これを成さずば知らず(rāz)。

#Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
 lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ || #
混日:万事万物万象はみな推量計測のされようもないものである。ましてや私の尊ぶ聖は比類無し。世の無明を隈なく照らしてくださる。そのために無上士と呼ばれる。
中日:量るべからず一切法、いかに況や我が聖、世の無明をば照らしたまふ、故に無上と名づけたり。
※萌集記の五字四句漢詩では「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上(一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」とある。
※2018年7月に梵偈をラテン語に翻訳した→"Immēnsa phænomena sunt, quantō magis dominus est meus, illūminābat tenebram mundī, ergō superiōrem nōminātur."

Quod apud mēnsōrem (またはmēnsūram) erat, illud verbum omnia mētītur, immēnsus (正しくはimmēnsa) (erat省き) causa ad prīncipium, liberātor per verbum nōn trīstis (est省き).
混日:量りによって有って用いられるものが語言であり、そのような語言もまた一切を量る、原初にかけて語言の因縁は無量だ≒因果関係は不可得だ、覚者は語言より悲しんだり怒ったりしない≒執着が無い。
中日:語言は量りて有(t' a)るも、亦た是れ一切を量る、乃往の縁無量なり、仏陀に愛憎の染(ねむ)無し。

Præceptum semper meminī, dolōrem mente auferō, sedēbam intra lætitia, sīcut flōrēs (+sunt?本来ならば"stāns"が主語の句) circum stāns. 
混日:誡められたこと=教誡を私は常に意識し、苦・愁・悲のような感情を私は精神より捨離し、喜びの内に坐し続ける、まるで花々に囲まれて立つように。
中日:教誡を常に受持し、愁悲を心より捨離し、歓喜の莚に坐するは、花ありて立てるを囲ふが如し。

Mē vīsitante vigilō, dīvīnam facultātem amō, mē lūdentī vidēs, temptās mē cum corde vigilantī.
混日:私がイデオフォノトピアに訪れて観察し、ここで神力を発揮す、私が戯れているとあなたがお出でになり、正知の心を伴って私を試みる。
中日:念音処に到(n' ita)りて観ず、著して神力を作す、嬉戯せるに汝来たる(tār)、正知にして我を検む(w' aratām)

#リピート

Centēsimum mīllēsimum, meō corporī fīō magis, domine neque magnificābar neque lædēbam terram, hymnus.
混日:百倍とも千倍とも、我が身のために大きくなる、主よなおも私が大きくされたことにならず地上を損壊したことにならない、讃歌。
中日:百数千数万数量り難き数(kāz)、我が身を大とせむとも及ばず(m' oyobāz)、天下(あめのした)亦た上(かみ)も安かるらむ(rām)、詠まむ(yomām)。

#リピート



【曲名について】

全体の歌詞を含めた楽曲の仮名は"Dominus Immensus" である。
歌詞中にも、"dominus (または呼格のdomine)"と"immensus (または女性形のimmensa)"という二つの単語は現れている(作中から語句を取り上げて表題とする習慣は古今東西に見られる)。
これを直訳すると「量り難き主」である(意訳で「不可量の教主or大聖」とも)。
"dominus"は男性単数主格の名詞であり、"immensus"はその名詞に性数格が一致された形容詞であり、修飾関係にある。
名詞の修飾語である形容詞を後ろにする語順は、日本語の逆である(豆知識: これは生物学の二名法における属 genus の後の種小名, 種形容語; specific name, specific epithet に同じ)。
そのため、曲名"Dominus Immensus"は日本語で「量り難き主」などと訳しても、同じ語順で「主は量り難し(形容詞終止形)、主は量り難きなり(形容詞連体形・準体助詞除き+コピュラ動詞)」などとならない。
後者の意味にしたければ"est"のような動詞・コピュラ"copulative"を置く必要がある。
※ただし、ラテン語の韻文や梵語(サンスクリット・パーリなど)では、コピュラを置かずとも「主は量り難し、〇〇は××なり」といった意味にすることができ(無標、ゼロ・コピュラ"Zero Copula"という)、語順についても可変である。

その「主"dominus"」とは誰であるか、どう「量り難い"immensus, immēnsus"」か、ということは歌詞の中や元ネタの萌えの典籍より読み取ることができる(しかしその意義もまた量り難きものである)。
「主、聖 "dominus, muni (ラテン語・サンスクリットで男性名詞)"」と明確に表現されるほどなので、当然、人格を持った存在となるが、ここでは仏教(特に大乗仏教)でいう三身の「応身」としての五感で認知し得る人、「報身」としての智慧の擬人化のような人、「法身」としての道理の擬人化のように寂滅の存在の人の三通りを想定できる。
梵偈において「我大聖"me muni"」とある個所が、その行為である「遍照世無明"lokāvidyāṃ hi rājati"」の主体であれば応身となり、その精神を推量すれば報身となる。
三身は「不一不異(思考・理由によって同一性や相違性を推断すべきでない真実)」なので、色々な可能性を仏教に依って考え、最終的に「不一不異」を体感(とも言うべきでない悟り)できればそれでよい。

この説明によっても、既に「量り難い"immensus"、量るべからざる~"aprameya" (ラテン語は現在能動分詞mensusに否定接頭辞がついたもの、サンスクリットは未来受動分詞meyaに2つの接頭辞がついたもの)」ことがどういうことであるか、説明し終えたようである。
しかし、その意味での「量り難い」こととは、最終的に言われた結論であり、障礙尊者が発した「一切不可量 (一切は量るべからざるなり) "aprameyā sarvadharmāḥ"」の経緯・前提が欠けるので、歌詞を例示しながら説明を加えよう。



2番Aメロには"quod apud mensorem erat, illud verbum omnia metitur, immensa causa ad principium"とあり、中日訳は「語言は量りて有るも、亦た是れ一切を量る、乃往の縁無量なり」とする。
前半のフレーズは「人によって用いられた言葉はその人の事実認識と推量行為とに依存する」と説いている。
何らかの言葉を初めて用いた人の意思によっても、後世の人の用法によっても、辞書の記載によっても、決して本質的な言葉の単一意義は無いという空の教義にも基づく(過去記事)。
そのような言葉の原初・往古における実質的語源は不可得・不可量であるという。
※ラテン語歌詞にある"verbum"は単数形だが、英語でいう"a word"か、英訳の創世記1やヨハネ1でいう"the Word"という特定のものを示唆するか、不明瞭かもしれない。複数形= verba, wordsのように概念的なものを指すこともできる。ここでは不可量"uncountable, innumerable, immesurable"だからこそ、あえて単数形である。もしくは「用いられた言葉(結果事物)」ではなく「言葉を用いること"expression"(原因行為)」を指すこともできる。いずれにせよ、以後の歌詞の説が重要である。
それを知って失念しない悟りの人はそのような言葉によって一喜一憂などの感情を持たず、完全な悟りを得ていない修行者においてもそのような言葉に関する悪い執着を離れられるとよいので、次のフレーズに障礙尊者が坐って修行に励むときの喜び"laetitia"に満ちた心境(初禅に入る道)が語られる。
悟りの人が善く説いた「空義」は「不空」でもあり、そのように空=無意味・ナンセンス・エンプティネス・ミーニングレスネスの教義こそが不空の偉大なる意義あるものとして修行者は用いる。
さて、宗教的な意味を強調する上でちょうどよいため、"immensa causa ad principium"「乃往の縁無量≒不可量」と表現したが、こちらも「量り難い・量るべからざる~"immensus, aprameya"」の真意ではないことについて留意されたい。

3番Cメロには"centesimum millesimum"とあり、中日訳は"millesimum (序数詞1,000→ここでの意味は千倍)"に対して「千数」のみならず「万数・量り難き数」とも付け加えている。
これは、後述の押韻目的もあろうが、"millesimum"の原形の数詞"mille"は何らかの辞書によればinnumerable (数えきれない、膨大な)という意味の形容詞にもなる(ただし格変化をしない特殊なものとなる)という。
大乗仏教でも同義語を数詞に用いていることが一般に知られ、「不可計・不可量・不可数・不可思議」とか「無量大数(むりょうたいすう・むりょうだいしゅ)」などが梵語"asaṃkhyeya (innumerable, uncountable; 梵語でaprameyaと同じ未来受動分詞の形態素-iya, 常に連声で-eya. がある)"に関連付けられる。
宗教的な意味を強調する上でもちょうどよいため、「量り難き数(物の大きさを数に表現したもので想像の付きづらい状態)」と表現したが、こちらも「量り難い・量るべからざる~"immensus, aprameya"」の真意ではないことについて留意されたい。



ここで、梵偈=尊者自説偈を考察しなおそう。
「不可量"aprameyā"」とある言葉は複数形であり、同じく複数形の「一切(諸法)"sarvadharmāḥ"」に係っている。
この「一切(諸法)"sarvadharmāḥ"」という言葉の趣旨は、ラテン語歌詞の全体に表現された出来事を包括しても足らないぐらい広い事物を包括する。
ラテン語歌詞の全体の趣旨は、おおよそ元ネタの物語にも語られているし、それ以上に詳細な話がある。
そこでは障礙尊者よりも優れた神通力(神足通、ラテン語歌詞ではdīvīnam facultātem = facultas divina 神力、神の力用)を、障礙尊者の師匠たる「拾主」や、イデオフォノトピアの一萌類たる「輸提尼」が作しており、次の一句にも少し関連する。
その上で「何況我大聖"kimaṅga punaḥ me muni" 訓読: いかに況や我が大聖をや」として障礙尊者の師匠たる拾主および、諸仏(応身の仏)や法身仏にも通じる敬意を表している。
具体的に、次の句で「遍照世無明"lokāvidyāṃ hi rājati" =世の中の全ての無明(端的に言えば愚癡、蒙昧な状態および心および人)を照らす」と説明される。
要するに、梵偈においても、二重に「量り難い"immensus"、量るべからざる~"aprameya"」の意味を持っていることとなる。



【ラテン語(他の古代印欧系言語に通じる)の文法や語彙の話】

この楽曲の歌詞は、宗教や文学や芸術のみならず、学問研究という学術的な目的を兼ね備えているので、色々と文法や語彙に関しても注記を必要とする。
まず、歌詞作者の想定するラテン語の意味は、2つの日本語訳(今昔混交日本語と歌える中古日本語)および萌えの典籍の元ネタを通じて理解できよう。
歌詞には特徴的な文法や修辞のテクニックや原曲メロディー韻律に合わせて語順を調整したことが含まれている。



「特徴的な文法」とは、絶対奪格や関係節の相関である。

絶対奪格による副詞句(奪格絶対節)
1番Bメロ "re infecta" (女性名詞+過去受動分詞) (条件"condition"型)
2番Bメロ "me visitante" (一人称代名詞+現在能動分詞) (付帯状況"attendant circumstance"型)
2番Bメロ "me ludenti" (一人称代名詞+現在能動分詞) (時期"time"型)
※サンスクリットとパーリ語には絶対処格や絶対属格があり(稀に絶対主格も)、日本のインド系学問で「処格絶対節」などと呼ばれるので、私もそれより類推して「奪格絶対節」と呼び得ると思ったが、斯様な呼称はネット検索で一つもヒットしなかった。はてさて、「処格絶対節」などとは、西洋のインド学で"locative absolute clause (=処格絶対節)"らしい名称の訳語が日本で一般化した現象か?インド学の人は、今後、欧州言語に同調して絶対処格・絶対属格と呼ぼう。絶対構文"absolute construction"の内には分詞が必ずあるが動詞そのもの=述語が無いので、文法的には句"phrase"であり、節"clause"と呼ぶわけにもいかない。つまり、「処格絶対節」という呼称は文法的解釈からも言語学の用語と符合しない。

◎関係節の相関(相関関係詞)
1番Aメロ "ita audio ut doctrina est"
2番Aメロ "Quod apud mensorem erat, illud verbum omnia metitur"
※前者"ita, ut"の2単語は共にtの字が2番目にあり、それらが共に印欧祖語(*só等)へ遡る同語源性を見出せる。そのことについての説明が載る記事を、今後、学術的メモ帳ブログに投稿する。

◆他の特記事項
・詩の1句"verse"(または文法的な節"clause")単位で、必ずしも述語を含めさせない。ラテン語において、散文はいざ知らず、韻文や梵語の散文・韻文は、コピュラ動詞(est 梵語: asti など)"や、英語でいうbe動詞などを用いずとも、「が有る・である」という意味を、名詞の主格形の有る文に込められる。歌詞でも頻繁にそうした。
・接続詞の構文は、当楽曲歌詞3番Cメロに"neque magnificābar neque laedēbam terram"として見られる。接続詞の構文は、ラテン語で"AB-que CD-que (この場合は後倚辞 enclitic)"や、サンスクリットで"AB ca CD ca"や、英語で"either AB or CD"などがある。漢文やその訓読文でも「或いは〇〇或いは××」「若しは〇〇若しは××」「且つは〇〇且つは××」などがある。現代日本語や、私が確認した古代ギリシャ語(コイネー)では、「〇〇か××が・・・」とか"AB, ἢ CD, ἤ EF"というように、語頭や語尾の有るごとに置かれるわけでない。



「修辞のテクニック」とは、宗教的な見解による表現や詩的な押韻などである。

◎宗教的な見解による稀な表現
1番Aメロ "ita audiō ut doctrīna est." (漢訳仏典にある「如是我聞」のような表現のラテン語版を考える意図があった。結果的にこの歌詞では先述の相関構文"ita B, ut A"による間接話法の表現を用いた。仏典における漢語や梵語での表現と異なる)
1番Aメロ "ubi visitavi, ubi visitem" (已行・当行=訪ねられた・訪ねられるべき場所。大乗経典に見られる已説・今説・当説"bhāṣitāḥ, bhāṣāmi, bhāṣiṣye"の影響がある)
2番Aメロ "liberator" (解放する"libero"の行為者名詞であり、通常は他者を解放する行為者の意味を持つが、ここでは自身を解放する・自由になるという再帰的な意味を含めてある。既に自ら解放された=解脱した人である。自己のための解脱、他者への教導という意味を掛け合わせて仏教の諸仏や諸菩薩に代表される人物を表す)
2番Bメロ "cum corde vigilanti" (正知の心とは正念・如実知自心のこと。他者を慮る心は何よりもそれ自身の精神状態を正しく意識し、そう調えていることで有り得る。菩薩・仏の徳行の地盤である。過去萌尊・跋聖の言葉に「種々の欲や雑念が発生したらば如実に覚知するという、正念を保ちなさい」とある)
※ほか、単に宗教的な意義の有る表現は歌詞の中に多く説かれる。例えば"malo tuo (悪)"とは十不善業など釈尊が悪とした行為を示唆するが、仏教徒が既に知る範疇に詳述しない。元ネタである萌えの典籍の作品のシーンを描写したものが多い。ちなみに、曲の歌い出しフレーズに"salvet" (動詞salvoの能動態・接続法・現在時制・三人称・単数形)という単語があり、原形の動詞salvo系は古典ラテン語"Classical Latin"に使用例が無いとされるが、ウルガータのようなラテン語聖書=後期ラテン語"Late Latin"(または中世ラテン語"Medieval Latin")文献に見られ、その影響で歌詞に用いた。

◎詩的な押韻 (伝統的な詩の韻律における脚ごとの頭韻や脚韻のスタイルとは必ずしも一致しないが例示)
1番Aメロ "dominus qui semper salvet, confidens in eo servet"
1番Aメロ "ubi visitavi, ubi visitem, id autem, non scitus me domine"
1番Bメロ "Tui dicens fide, exi ab te malo" (太字の母音は元々マクロン=長音。歌を聴くと分かるように短音節→イ長音節というリズム・ライムが定型的に現れる)
2番Bメロ "Me visitante vigilo, divinam facultatem amo" (1つ上の類型でより上級)
2番Aメロ(中日)「教誡を常に受持し、愁悲を心より捨離し、歓喜の莚に坐するは、花ありて立てるを囲ふが如
3番Cメロ(中日)「百数千数万数・量り難き、我が身を大とせむも及ばず、天下また上も安かるらむ、詠まむ
梵偈和讃 "Fakal'bekaradz yittsaipop (漢音pap), Ikani 'famuya wagafidziri, Yono mumrang woba terashi tamap, Yuweni mudzang to naduketari."






最近のメモ帳更新一覧
5月09日 http://lesbophilia.blogspot.com/2018/05/research-reports-with-video.html
6月01日 http://lesbophilia.blogspot.com/2018/06/plus-may-2018.html

最新投稿動画
5月22日 http://www.youtube.com/watch?v=hE4ZJExzXbI
6月08日 http://www.youtube.com/watch?v=5lhVZ3Ctiro

最新音楽動画
5月27日 http://www.youtube.com/watch?v=agIme3x714I

遠からず、5月中に作詞が進められて停止中の楽曲"Eradicated"(上リンク先動画に公開)についても、私はそれを完了する予定である(→2018年6月12日に完了、その公開は未定)。
また、当記事の話題である尊者自説偈の元ネタの話を載せたメモ帳記事も来月に公開する予定である(→2018年7月8日に完了)。

近頃、どのアカウントでも投稿行為の直後(40時間以内)に必ず「チャンネル登録者数(欺瞞の数字・虚構の数字)が減る現象」が起こる(反面高評価が加点される現象もあるがそれも欺瞞)。
普段、どうせ、昔の動画の再生をした者か「スパムのようなもの」がテキトーな精神でチャンネル登録をし、最新動画・美麗なイラストや音楽にはアレルギー症状を起こしてチャンネル登録を解除しているものと推測される。
辟易するし、動画投稿をする意思が萎えてしまう。
私のような高尚な目的性や精神性を共にする者など、横野真史の同一性(横野真史名義の無い時代を含む)ある動画投稿活動において皆無である。

長年同じような現象をブログなどで取り上げつつ、その都度、感想を述べる私であり、今や仏教による功徳は無くなったろう(些末ごとを気にして如蓮華在水にならない)。
もはや常不軽菩薩がどうこうとは、言えない(もし仏教を知らない人が悩んでいる時に慈悲の心でそういう話を教えるならばよいが自発的に言えば妄語罪か)。
釈尊の弟子のような道心ある人は、世に皆無だし(主観的な観測・凡夫の量りだが)、新たに私が作れはしない。
ただ単に活動したいという一時的(断続的・恒久的ともいえる)欲望によって私が活動する現状がある。
それについては、萌えの典籍に比して多言を要しない。

大概、私の活動はめでたいものであるが、不可解な他者の動向によって水を差されるので、私も文言の中に水を差しておく。
作詞作業の間にも、インターネットの情報収集で、実に人の精神を暗くさせるような例文が見られるなど、語学分野も卑俗な人ばかりで、呆れる。
私自身も、そのように相対的に卑俗なものと変わりゆく道理がある。
我が身は惜しい、我が知能は愛おしい。
その我執のために、他の卑俗なものを忌み嫌うが、排斥しているのではない。
無上の大果報のための方便として、自己の努力の手段として行うが、逆効果のようでもある。

仏教徒がもし地獄に堕ちるならば、彼の信じた菩薩・仏(という名の当該仏教徒による想像概念)も共に地獄に堕ちるであろう、というような見解は維摩経や禅・念仏の僧侶が説くのみならず、かの日蓮大聖人も撰時抄で似たような話を・・・コホン!コホン!
この曲の歌詞に「Dominus qui semper salvet, confidens in eo servet, multum mirabilia ostendantur, ita audio ut doctrina est. 混日:主は倦まずに救おうと望む者であって彼の従者は信じて仕えようとし、彼らは数々の奇跡を見せられる栄誉がある、という教義ありと私は聞いた」とある教理の、逆な発現・反対の一面である。
尊き宗教とその利用についての二面性は、Ratna-Dandaの詩(および引用された仏典)にも書かれるので、参照されたい。