Pratyeka-kāvya
https://www.youtube.com/watch?v=-tqtBMfZpGg

本日に「引きこもりによる芸術・宗教活動と人権・人道」という題の動画を投稿した。
当記事は、その説明文を補足して掲載する。
以下からの敬語を使った文章が始まって終わるまでの範囲は、それに該当する。


ヒッキーポエム
辟支歌(ひゃくしか、中古音: *prak-che-ka 梵語: pratyeka or pacceka-kāvya)

2018年3月3日に作られた2首の歌(長めの和歌)を2018年7月に音楽に載せてみたので、2首の歌が作られた日に描かれた絵と共に動画として公開します。
歌と絵が公開されているページ→http://masashi.doorblog.jp/archives/51935800.html#s1

私が部屋を出てみたら
私は貴方に嫌われた
私が部屋を出なければ
私は幸せなのだろう

Romanization: Watashi ga heya wo detemitara, Watashi wa anata ni kirawareta, Watashi ga heya wo denakereba, Watashi wa shiawase nano darou. *There are no diphthongs. It was sung with moraic pronunciation in Japanese.
2句目「嫌われる」は「嫌がられる・厭われる」という意味であって恋愛に関するもの・長期的に嫌われることやその自覚による表現でない。貴方が嫌うこと、英語hateはスキーマ的・多義的なのでdislikedisgustの意味が近い。

我、室を出でて厭はれぬ
室を出でざれば報を得ず
身は安らけく憂ひ無し
世の衆びとに恨み無し

Phonetic transcription: Ware feya w'idete itofarenu, Feya w'idedzareba mukuyi w'ezu, Mi fa yasurakeku urefi nasi, Yo no morobito ni urami nasi. *(7 + 5) * 4 = 48 morae
歌唱のために異音"allophone"を許容している。句「室を出でざれば」は元々「若し出でざれば」だったが、歌唱の際に「し・い」の同母音が連なると不自然であるため「室を+出(wo + i = wi ゐ)でざれば」とした。カナ表記で「へやをいでざれば」と8字の字余りになるが、重複母音の単母音化で発音上の問題は無い。一古書「又歌に五もじ七もじの句を一もじ餘して六もじ八もじによむことある是れ…」という記述もある。言語学的にエリジオンの一種である。"apocope; apocopic form"ともいい、フランス語 l' やd'が好例か。その換算方法で(7 + 5) * 4 = 48になる。

追加の歌・一首

悟りの人が用ゐれば
俗の言語も聖きなり
世俗観念強ければ
雅語を聴けども穢れ多し (あなたがそう思うならばサンスクリット・パーリ語・古代ギリシャ語・古典ラテン語・古典ヘブライ語・アラビア語もその他もみんな・・・)

Phonetic transcription: Satori no fito ga motiwireba, Zok no kotoba mo kiyoki nari, Se zok kwan nem tuyokereba, nga ngo wo kikedomo kegaröfosi. *(7 + 5) * 4 = 48 morae
歌唱のために異音"allophone"を許容しているが、日本語「ざ」は有声歯茎破擦音[d͡z]で発せられ、漢語由来の「俗(ぞく ゾㇰ)」は有声歯茎摩擦音[z]で発せられるといった明確な区別にも注意。漢字音は閉音節CVC発音-k, -n ,-m等の場合に2モーラで換算する(一般的な漢字のカナ発音に同じ)。öは「え+お」単母音化で「前舌・円唇」系統とした。



「引きこもり(ひきこもり・引き籠り・ヒッキー Hikikomori; Hikky)と呼ばれる人たちが同じ人間"Homo sapiens (知能と精神とを有する人)"として同じ社会の中に生きているという現実」について、偏見や軽蔑の心で扱わないようにしましょう。
また、当事者(引きこもり)はみだりに自虐せず、反対に他者へ尊大な態度を取らないよう、ひっそりと芸術や宗教に関する活動をした方が、これからの時代の人権に関する社会的な意識の向上に繋がると考えられます。
当事者が他者へ多かれ少なかれ人間的な特徴(固定的な名前や外見)を示すならば、そこで他者がようやく当事者へ人間味を感じるということが「精神的存在としての人間(尊重されるべきもの)」の道理であり、その時に人間対人間という人間的な関係性が他者の精神に生じます。

為政者は為政者、宗教家は宗教家、労働者は労働者における…、引きこもりは引きこもりにおける、真面目な・真っ直ぐとした生き方や直心(じきしん)があります。
それは自覚ある人の各々=為政者はなぜ政治を?宗教家はなぜ布教を?労働者はなぜ労働を?引きこもりはなぜ引きこもる行為を?ということに関する理由・目的性を伴って直向きに行うことです。
引きこもり既成事実化や、引きこもり概念の実体化ではなく、ただ人間の人間たる道理を引きこもりという概念の名称において説明するのみです(社会的区分に為政者・宗教家・労働者そして引きこもりという概念がありますが真理においては全て存在しない)。

「暇」とか「働いている」とかの語句は、世俗の個人が分別して用いられることが多くあります。
智者はそのように量られ・分別されて用いられた言葉について倦厭します。
誰でも、どのような言葉の概念も理由があれば該当し、または理由があれば該当しないという世俗諦の教説を受持しましょう。
Quod apud mensuram erat, illud verbum omnia metitur. Immensa causa ad principium, liberator per verbum non tristis. (ラテン語自作歌詞より)

誰であれ世間に飛び交う種々の言説に振り回されて自己否定に至るまでの悩みを抱える意味はありません、もしもその人が真面目で真っ直ぐとしているならば。
引きこもりにおける真面目な・真っ直ぐとした生き方によって最低限の食糧を得る道理があります。
キリスト教のパウロさんがテサロニケ書で書いたこと(2 Thessalonians 3:10 ὅτι εἴ τις οὐ θέλει ἐργάζεσθαι, μηδὲ ἐσθιέτω. 趣旨: キリストのように神の福音を弘めるための良い行動をせよ・それを望まない者は食べない方がよい)が人口に膾炙して「働かざる者食うべからず」ということわざになりました(共産主義のレーニンさんが2 Thessalonians 3:10を恣意的に換骨奪胎したことが起源とも。"Кто не работает, тот не ест"=働かない者、その者は食べない。英語では"He who does not work shall not eat"と訳され、それが日本語で「"shall not" ~べからず」という多義的な助動詞に重訳をされた)。
誰でも真面目に生きて各々が現世に定義した目的を果たすことは、何かしらの対価を得ます。
仏教では、釈尊が乞食をしているとき、婆羅門の一人から「あなたが私の仕事(しごと、なすべきこと、作業、業、karma, kamma, opus, work, 世界的に同義語)=農耕を手伝わないならば私はあなたに食べ物を与えない」と言われましたが、釈尊は釈尊の仕事を心の中で・現世で様々に行っているので、何らかの対価を得る道理が有ることを説いています(過去記事およびスッタ・ニパータ1章4経相応部7.11経漢訳の雑阿含経98経)。
それは心の中に得る、つまり心の業を心に得るということに限らず、そのことをはっきりと話すことで、その「農耕をする婆羅門」から尊敬を受け、食べ物の供養を与えられます(ただし釈尊は別の理由でその供養を断った)。
より詳細なあらすじと原典へのリンクを載せた私のブログ記事→http://lesbophilia.blogspot.com/2015/10/blog-post_17.html#reference

また、むやみに金銭を稼ぐ必要がありません(金銭を稼ぐ目的の人にはその形式的手段があるが当事者はその形式的手段を取る必要が無い)。
当事者は、自然災害・経済危機といった問題において生き抜く力を得づらいままになるかもしれません(世の中の万事がアリとキリギリスに表現されたような関係や個人の精神や生活であるということが無い。あの寓話は現世的な苦を現世的に解決する手段を示して現世的な共存共栄を説いているものであって仏教徒の苦集滅道と逆のもの。仏説を聴聞して道心を発した人はその人のための手段がある)。
しかし、当事者が自信を持って生きてゆく中で、生存や発病や老衰や死滅における苦しみを軽減できたり、あわよくば生存能力が向上するかもしれません。
それは世俗的な意味の「更増寿命」です。
私が奨励する宗教の学習と実践を私よりも正しく行えば、宗教の真理の側面での「病即消滅・不老不死」も有り得ましょう。
誰であれいつかは死ぬからこそ、宗教的に「更増寿命」とか「病即消滅・不老不死」とかという表現ができます。

これについては多くの人が知らずに一生を「虚しく(宗教がそう表現する)」過ごすことになります。
所詮は当事者もその親(保護者)も、世俗観念に悩まされてきた程度の者です。

とりあえず、20年以上生きている現代日本人は、もし今までの生き方によって自ら作った毒を自ら抜きたければ、以下の文献を5年以上(人により適度に増やすとより良い)に意欲的に学べばよいと思います。
パーリ語の上座部仏典と、梵語の大乗仏典と、それらに対応する漢訳仏典と、各種キリスト教翻訳聖書などです。
また中国・日本の仏教書と、横野真史(投稿者)の萌えの典籍なども、多角的な見地によって思考力と宗教のセンスとを向上させ、梵語・漢語・ほか印欧語学習にも役立ちましょうから、推奨します。
本当に自分の目的を見据えて行動できる人がいれば、その人は世俗職業にせよ宗教学習にせよ、何も手段とはならないと思われますが、現代日本人には現代日本人の恐らく続けられる努力や手段が有ることを簡単に示しました。

前回動画では引きこもりによる学問・芸術の美徳を示して行為を奨励しつつ、「学問・芸術をなさらない場合は、あらゆる好奇心の対象の事物を遠離して解脱のための修行をしましょう(それも多少の意思と仏教学習とが求められます)。その人は撙節(そんせつ)・離貪(りとん)・無瞋(むしん)・清浄(しょうじょう)の真正ひきこもりとなってください。」と書きましたように、私は当事者たちへ芸術・学問を強制しようと考えていません。
また、「生きたくないという欲望・死ぬ権利」も尊重されるべきものです。
生きていく目的性があっても老衰で難しい人々が持つ「死ぬ権利"right to die"」も考えられる現代です。
その人には当面、死ぬ努力が有ってもよいことを付言します(仏教的には死にたくて死ぬことが悟りでなく不死の死・不生不滅だがそれは道心ある人がいずれ知ること 参照:跋迦梨瞿低迦自殺・涅槃)。
しかし、自身に意欲と体力とが有ると感じる人は、先述の通りです。



動画で用いた「2018年3月3日の絵」の再掲・比較

1up 180303 
左: 8月26日版 右: 9月23日版






最近のメモ帳更新一覧
8月26日 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/08/ruiju-8.html
9月01日 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/09/plus-aug-2018.html
9月09日 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/09/japanese-indo-european-quantity.html

最新投稿動画
9月02日 https://www.youtube.com/watch?v=SN_krHt2orw
9月02日 https://www.youtube.com/watch?v=-_VNNErDUXI

最新音楽動画
9月24日 https://www.youtube.com/watch?v=-tqtBMfZpGg


引きこもりに関する個人的な補足事項 (現代史・社会科学)

現今の日本国における引きこもりの人の存在は、その趨勢(推定される人数の増減)を見ると、必ずしも増えていると思えない(客観的情報・統計類は欠く。高齢ひきこもり増加とか高年齢化とかは世間で聞かれる)。
社会全体における人権意識の高まりと、インターネットにおける言論活動の増加と、様々な社会保障の変化とにより、大衆の各個人に何らかの多様性と何らかの画一性が見える。
その状況下では、私のような顕著な引きこもり状態が発生しづらいと思われる。
2010年ころ=中学生の私は、向こう30年で極端な戦争・自然災害の無い限りは確実に引きこもりが激増すると推測していたが、現在の視点は当時よりも反対に逸れつつある。
いわば、かつてハンセン病(通称は癩病・らい病・白癩病だが古文献に出る同名の病は必ずしも同一でない)のような感染性(もしくはそう誤認されていた)の重病の患者が、その人権を考慮されたり、そのうちに医療が進んで数が減った・新たに発生することが激減したことと比較できる。
現代の若者にとって、それら重病患者のことは「過去のこと」どころか「何それ?」という認識にあるほどであるが、引きこもりに関してはその過渡期にあるかもしれない。

2018年現在からの向こう30年、それもまた推測しがたいものであるが、日本国の大衆文化における表現(多くのアニメや漫画などで社交や労働が賛美されている)ならびに増加する自然災害のことを思い合わせれば、中学生の時の考え方が符合する状況に見えない。
例えば、自殺を望む若者がインターネット・SNSに頼る(稀にそうでないものもある)ことで自殺や自殺幇助を成し遂げる例も増えている様子だと、「私のような顕著な引きこもり」が増えることは十分に考えづらい。
各種SNSの利用拡大・浸透が、ネット・リアルの社交性や話題性(世俗性)を増やしている。
Amazonなどのネット通販利用の増加も、経済・消費活動の手段が変化したものに過ぎず、個人の内向性を過度に資するものでもない(引きこもり・ニートの質素な者たちはそもそもAmazon等を利用せずに生きることができる)。
過去記事(2015年10月30日)にこの関係の話題を書いたことがある→http://lesbophilia.blogspot.com/2015/10/blog-post_30.html

要するに、中学生の時にインターネットが引きこもり化を助長するかのように思っていた状況は、真逆に作用している傾向が見られるということである。
それによってもまた、先述の通り「私の現在の視点は当時よりも反対に逸れつつある」。
その中学生の私は「リアルもネットも違いが無く、私の交遊関係を作るものでない」と知っていたし、今も同じであるからこそ、他人にとってはリアルかネットか最低でも片方は交友関係を作るものであると考えていた。
「私のような顕著な引きこもり」ほどに限定的な者が、リアルのみならずネットでも交友関係を持たないor持てずにいることとなる。
もはや、世間からはインターネットに関して単純な「インドアっぽい印象」を持つことが無くなったろう。
インドアの人とかアウトドアの人とか肉食系とか草食系とかという二項概念は、2010年代後半からの日本人には適用できない。
ごく一部の人が、インターネットについて「社会を凋落させるものだ」という危険視や警戒をしたければ、それもよいが、基本的に多くの一般人はその必要が無い。

話を引きこもり当事者について戻すと、話題の「引きこもりは~、引きこもりだから~」という前提をも捨て、一人の人間がすべきことについて自ら正しく見据えられれば、それでよいことのみ、最後に付言しておく。
「それでよいこと」は記事本文に同じ意義が示されている。

為政者は為政者、宗教家は宗教家、労働者は労働者における…、引きこもりは引きこもりにおける、真面目な・真っ直ぐとした生き方や直心(じきしん)があります。
それは自覚ある人の各々=為政者はなぜ政治を?宗教家はなぜ布教を?労働者はなぜ労働を?引きこもりはなぜ引きこもる行為を?ということに関する理由・目的性を伴って直向きに行うことです。

※上の説を一つの論法として見ると、犯罪者は犯罪についての理由・目的性を伴っていれば、真面目な生き方があり・究極的には宗教における昇天・往生・成仏・解脱などの目的を達することになってしまう、という発想が従来あったことも付記する。それはあくまでも「固い論理(固着・頑固)」の範疇に過ぎず、本当にその人の精神的な利益・主観的幸福となるかは、その人次第であろう。「犯罪という概念とその名称」が悪だと分別する善悪観念がその人にあるならば、当然、犯罪者という自己認識やアイデンティティを持ったりその自覚をしたりすることで犯罪者としての生き方を全うするという意志を持つことは無い。他人が何を自覚してどう感じ・どう行動するかは、私が推知する所でないし、あらゆる他人が推知する所でもない(しばしば不可量不可説・不可得と私が言うことにほぼ同じ)。



未公開の文章中に説かれた「アングリマーラ」
※漢字音写「鴦掘摩・鴦掘摩羅・鴦掘魔・鴦掘魔羅・央掘摩羅」、漢語翻訳「指鬘」と称す。

(前略)馴れ合いをしたいならば馴れ合いをする目的性の人として、追従をしたいならば追従をする目的性の人として適切な意思や行動がありますが、音楽的な目的性の人は彼にとっての目的性に基づいて自覚的に意思や行動を選ぶ必要があります。
そこに万人共通の現世安穏・後生善処もありましょう。

実に、世俗の「見たい・聴きたい(=絵や音楽の芸術的な意欲も含む)」といった官能的欲求(五官に関する欲求・五欲)があるうちは、世俗のうちの嘘・欺瞞を抱えたままに現世安穏・後生善処が確立されようも無いことも道理ですが、それは世俗的価値判断の領域に縛られた・結使の有る衆生の道理です。人殺しをした人などであっても、仏法に任せたてまつれば、その道理が転換します。
略説しますと、仏の在世にいたアングリマーラという者は彼の邪悪な師匠に唆されて(別の説:盗賊である本人の意思で)99人(別の説:数字の詳細が無いが多くの人)を殺しましたが、100人目として彼の母親を殺す前に仏に値(あ)いたてまつって教えを受け、仏弟子となります。
彼は、仏法に帰依している国王から、殺人などの罪を許されます。
また、彼は世俗の女性から安産祈願を頼まれた(別の説:彼が苦しそうな妊婦を見かけて感嘆した)ので、仏に助言を求めると「あなた(アングリマーラ)は女性へ『私(アングリマーラ)は人殺しをしたことは無い。私の言葉を信じればあなたは安産になる(別の説:私が人殺しをしていない事実によってあなたが安産になることを願う)』ときっぱり言い切るべきだ」と教えられました。
先述の通り、アングリマーラは出家以前に99人(別の説:数字の詳細が無いが多くの人)を殺しましたが、その言葉は何らかの理由・目的性に依れば、決して「嘘・虚言・妄語」になりません(安産祈願は成功したそう)。
アングリマーラの話の詳細は、以下のページなどで学べます。
どちらも漢文・パーリ語など、現代日本人には難しい言語が典拠ですが、現代語訳がついていますので、多少は理解しやすいはずです。

仏教徒・仏弟子の事例は、他に「チューラパンタカ」なども参照。



関連記事

私が10代である時に書いた記事(過去の見解に関する参考までに)

良識派という「ネイティブニート」
http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

「引きこもり」という概念に関して言及した過去記事の例
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html

「閑居求道者」関連の例
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_29.html

「思考区分による社会思想の分析」二章で人権(差別行為・被差別者や日常的な対立)に関する言及
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/12/shikokubun.html#fm



自我意識における一面を示す記事

筆者は長髪であるが1歳の時から頭にハゲがある
http://masashi.doorblog.jp/archives/32273471.html

謙遜と嫌味に関する考察、自己紹介の表現法
http://lesbophilia.blogspot.com/2014/11/blog-post_3.html