自由 絵

自由主義・リベラリズム"liberalism"とリベラルアーツ"liberal arts"について、ニート・ひきこもりのための美学が、「科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動」という記事 (メモ帳2019-07-15) に説かれている。
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/07/arts-neet-hikikomori.html

私がそうであるように…、改めて、ひきこもり(引きこもり・引き籠り)・ニートの人々はインターネット利用可能の限り、家で静かに学問や芸術をすべきであることを付言する。

(中略)
学問や芸術を行うこと、その目的を何にするか?
これはまた、各々の人生経験・人生観・死生観・価値観から決めればよいと思うし、まだであるならば好奇心の向く範囲内での努力の結果に自ずと見出せるとよい。
苦しみの心を自覚するならば、その解放を目的とすべきである。
つまり"id est"、自由主義・リベラリズム"liberalism"の原義であるラテン語"libero, liberare"を志向した手段とすべきである(辞書的な語源はフランス語libéralisme<libéral<ラテン語liberalis<liber<印欧祖語の語根*h₁lewdʰ- "people, to grow"となるので私の思想的な語源になりそう)。
リベラルアーツ"liberal arts"とリベラリズムは直接関係しなかろうが、個人の意思や精神の表現の「手段と目的」という関係性そのものに通じる。
リベラルアーツとは、古典的な定義で3つの技能"trivium: grammar, logic and rhetoric(文法・論理・修辞)" + 4つの技能"quadrivium: geometry, astronomy, arithmetic and music(幾何学・天文学・算数・音楽)" = 7つの技能 (skills, arts; artの語源はラテン語ars) を意味しており…(後略)

当記事では、学問・芸術のうちで、美術(視覚芸術)の行為が主題になる。
望まれるものは、革命とか社会の是正とかよりも、身近な運動である。
結果的に他者が救われたり幸せになることがあろうとも究極的に自己に帰するのみ。
「革命や憎悪による運動を望むよりも自分の頭の方の革命をして、精神を解放してみよう"You say you'll change the constitution. Well, you know, We all want to change your head. You tell me it's the instituion. Well, you know, You better free your mind instead"」と語る人が、おりまして。
某サイトの過去作曲者「らい〇ちゃん」の"Restructuring"という曲の猟奇的なシナリオは、そう説くビートルズ (The Beatles) の"Revolution"が元ネタなんだって最近になって知った。
これは水を差すような話であるが、以下からもその種の話が続く。
その後に、私の絵や音楽作品から、表題に合うものを当記事で掲載してゆこう。


19世紀以前の美術・ファインアート"fine art"に一般的な平面の絵画は、専ら評論の対象と遺物として扱われ、作品の流儀の実践者などはいないか、表出しづらいように見える。
時代は変化している中でも、旧来の方法とか伝統とかを継承すれば、相応の差異はあろうから(キャンバスは岩・石壁→布→紙→デジタル信号など)、誰かしら、19世紀以前の美術作品の流儀の実践者がいてもよいと思う。
キリスト教宗教画などそのままに模倣すると贋作のように見えるので好まれないか、今でも古典的な複製の専門家としてはいるだろう。しかし、ここでは現代のうちで中庸に行うことを言う。「写実的であるものも幻想的であるものも実在人物を題材にするならば写真を撮ってデジタル環境で加工するとかで足りる」と言われそうだが、それは画像処理技術と美術とで線引きが可能でもある。近代以前と現代との間には、無名の人物にも髪型や服装の雰囲気で差異が生じ、風景にはモダンな都市景観などの差異が伴う。
20世紀から漸次に思想的なアンチテーゼを突き付けること(革新的・前衛的なこと)が芸術を標榜する者たちの行為となってゆく。
19世紀後半からの印象主義"impressionism"とその後の表現主義"expressionism"や、WW2以降の実験系(experimental) やパフォーマンスアート"performance art"などが典型例である。
この話は2019年4月6日投稿記事にも書かれ、当記事でも後に引用する。

今や美術は、政治(民主主義 democracy, リベラルなど政治思想)や福祉事業(障がい者支援。任意の障がい者が美術を行って殊更に障がい者による作品であることの提示をする必要がある限りは福祉事業に美術の行為が用いられたものが多いと思う)などとの境界が不明確になっている。
私は、何の専門性に傾倒することなく芸術と学問とを行うのみである。
仮定的に、絵で萌え系、音楽でメタル系、学問で人文科学(言語・宗教など)を好むように行い続ける。
メタルやパンクのライブで、観客の掛け声やモッシュがあること (moshing) ・観客が舞台に上がったりすること・メンバーや観客が観客席に飛び込むこと (crowd surfing) も、ライブ実演の範疇(舞台芸術 パフォーミングアート performing art)を超えたパフォーマンスアート"performance art"そのものか、そこからの影響があったか、あるいは偶然の重なった時代の趨勢か(i.e. 物質的に豊かとなって音楽が大衆化した結果)と考えることもできる(ライブ至上主義の音楽ではそうみなすことも有り得る)。



◆現代日本の芸術行為と国際芸術祭の醜聞

2016年に私は、現住地の愛知県豊橋市における「あいちトリエンナーレ 2016」の展示物に対する世間での悪評を取り上げた。
「埼玉と豊橋の共通点 都市の友好と相互の尊敬」という記事の2016年11月追記に、記されるように、豊橋市街の「水上ビルうち大豊ビル」を舞台に小鳥100羽が放し飼いにされるもの (by Laura Lima) で、生き物たる小鳥たちへの管理・飼育環境が非難された
実行委員会の主体は愛知県であるので、豊橋市はそこに巻き込まれた構図である。
同じく記されるように、私の出身地である埼玉県の、さいたま市が主催する「さいたまトリエンナーレ 2016」は2015年のプレイベントが吉田一郎さいたま市議会議員などから批判されつつ、2016年にはさいたま市の担当職員の長時間残業(月平均で126時間)も問題視された。
さいたまトリエンナーレ自体はその1度きりで終わり、2020年に「さいたま国際芸術祭 2020」が予定されている。
吉田一郎市議は「バカ殿まつり」、「芸術屋(げいじゅつや)に喰い物にされる」といった表現で芸術祭に対する予算配分や財政的な処置を厳しくするように発言した(元々イベントやハコモノ・箱物の全般に費用対効果が少ないことやインフラ整備・市民サービスが軽視されることなどを疑問視する方で個人的に2011年から知る人物。詳しくは先の文字リンク先の動画を参照)。
誰でも、芸術祭の開催自体を急進的に反対することは無いにせよ、個々の要素に疑問を呈することが可能である。
2016年の両トリエンナーレには、生命の尊重とその意識が欠けていたか、適切な人材を確保できないで身の丈に合わないことをした、と評価されよう。

世間で既知の通り、「あいちトリエンナーレ 2019」に含まれる「表現の不自由展・その後」という名のプログラムで、名古屋市内の会場(愛知県美術館ギャラリー=愛知芸術文化センター8F)で慰安婦少女像(国際的に"The Statue of Peace"と呼ばれる2011年以降世界中で設置されるようになった旧日本軍のWW2期の朝鮮人従軍慰安婦"comfort women"を象徴する少女の座像)と同様のもの(作者は韓国人)が展示されたことが全国的な騒動となった。
そのプログラムには、さいたま市(一「公民館だより」)で掲載拒否と扱われ、裁判沙汰となって全国的に報道された「9条俳句」も展示されていたという。
この他にも、政治的な主張が強いという印象を受ける作品(安倍政権や昭和天皇などがモチーフと解釈しうるもの)が多く展示されていたという。
公式には「日本で過去に何かしらの理由で展示ができなくなってしまった作品」と説明される展示物を集め、怨嗟の合唱を組む点で傑出していよう(皮肉。そう言われたらば作者たちは希望だと言い換えたがるかもしれない)。
「表現の不自由展・その後」という名のプログラムは2019年8月上旬に中止されている。
NHKニュースサイトの記事一覧で、その発表がされる会見を報道したニュース記事(当時その内容を読もうと思わなかった)のサムネイルに写る津田某(金髪)を見た時は「彼か、なるほど」と訝しく思った。
あいちトリエンナーレは規模が大きめであるので、他の作品がすべてこの傾向(リベラルまたは左派が多いうちの極端にセンシティブなもの)であると限らないことに留意されたい(政治的な傾向は興味のある人が各自で調べればよい)。

国際芸術祭のようなもので、幾たびも醜聞が発生することは、芸術を標榜する者たち(芸術家・アーティスト artists)の一部が持つ芸術と似て非なる功名心や功利心などが関わっている場合もあろう。
換言すれば、芸術を用いた「商売」や「政治活動(どこからしらの党派・派閥の回し者)」ということがあろう。
人として尊いかはともかく、「芸術家の風上にもおけない」と言われかねない。
「芸術と似て非なる功名心や功利心」についての批判は、芸術を標榜する誰であれ受けいれねばならないし、私自身も用心している。
主催者(地方行政の首長)や顧問(外部の人間)に似た思惑があって一致すれば、彼らの意図が容易に実現する。
「芸術で食う(経済的・物質的に)」人たちがそう言われて「単なる芸術家と違うんだ」と反論する場合に、「開き直り・へそ曲がり・跳ねっ返り」と言われかねない。
"fine art", "pop art"... まさかの"s*it art, sick art, f**k art, fool art, poop art"!?
芸術祭に限られないが、仮にも芸術祭に出展する者となると、槍玉に挙げられるかもしれない。
芸術家以外の肩書を持つ者が、芸術に便乗する行為もあろう。

『よし!地域振興ならば、市街地の廃ビル屋上に巨大なチョコレートアイスクリームを置いて熱に融ける「芸術作品」をやってみよう!目と鼻に訴える!虫がたかる!「気候変動や都市環境の悪化は人間の生活に害をもたらす」という意味をも込めた立派な芸術作品だ!』
『岩山を買い取って爆発させてみよう!芸術は爆発だ!「環境破壊反対!」を環境破壊によって表現するのが現代の知的な人間サマの芸術だ!』
表現したいから、実行するか?
他人の権利を侵害しない「表現の自由」ならば、どんな規模でも実行して公開してよいか?
冷静になろう。
「自由を過ぎ、傲慢と成り、自ら身を滅ぼす」と言いたいわけでない。

2020年に行う「さいたま国際芸術祭」のテーマは"花 flower"とされる。
さいたまアーティスト(浦和画家など)が海外他国の景色を描くとか、国内外アーティストがさいたま市の日常を描くとか、相互の理解や尊敬を表すとよい。
先の吉田氏の市議会発言でもギリシャやイスラエルなどの海外アーティストから無償で作品の提供を受けたという話があって事実ならば、それなりに可能ではある(2019年8月の今では2020開催に遅いかもしれないことも分かるし祭典のために作品を創造する気前のある人は多くないことも分かるが荒唐無稽かどうかは論旨に関係しない。私が私の意見を私の空間で示すことに私にとっての意味がある)。
立体美術+政治的な要素がほしいとして例えば、WW1 (World War I 第一次世界大戦) の犠牲者の象徴はイギリスで赤いポピー(e.g. ケシ科ケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas)であり、ロンドン塔の濠で赤いポピーの造花が広げられる催しがある(通年あると思ったがWW1開戦100周年の2014年だけらしい)ように、WW1終戦100周年を2018年11月に迎えている以上、さいたま市も同じようなこと(市の人はサクラソウ Primula sieboldii にしたがるかもしれない)を市内でやるなどすれば、地元レベルの国際芸術祭らしさがあると思う。
地元の人が紙で花を形作って屋内で大量展示するという「地域アート」と言われる現代アート"contemporary art"とされる行為(現在進行形の答えなき問い!人生!)になる。
誰かの声「予算安上がりで地域振興!地方創生!世界平和!福祉!政治!イデオロギー!アートアート!」
「地域アート」は作品のジャンルを指すものでなく「ある地域名を冠した美術のイベント」を指すとして日本で2010年代に提唱された。関連する概念に「リレーショナル・アート (relational art or relational aesthetics, the term was coined by Nicolas Bourriaud)」があり、フランス語で原語のある著書 Esthétique relationnelle (英語版) のp. 113に「この芸術行為 (the artwork) は旧来の想像上の現実・ユートピア的な現実を表現するものでない」趣旨が書かれる。今の日本人は基本的にそういった事情や経緯を知るとも知らずとも、様々な社会的芸術・政治的芸術・商業主義的芸術を行う。「リレーショナル・アート」で現代日本の状況を説明できても、後からの理論づけということである。ただし、「あいちトリエンナーレ 2019」はリレーショナル・アートを適用したろうと私は見る。
現代アートは「現在進行形の答えなき問い」で扱われているようであるが、一般人からすれば個別作品の美的価値に理解しづらいし、内容が直観的でなく、説得性があるものでもない。あえて言えば「気味の悪い社会実験」としてアーティストとされる人たちと便乗する人たちが社会批判などの大義名分を兼ねて行う。現代日本にはこの温度差があろう。イタリア出身のヴァネッサ・ビークロフト女史 (Vanessa Beecroft, 調べ直すとKim Kardashian Westの2019年新作下着Kimono, a.k.a. #KimOhNo の発表の際に演出を手掛けるなど今は演出家の活動が主要という状態) が2006年に、スーダン人の赤ちゃん孤児の双子を自身の肖像のアート作品に用いたことはどうか。
あまりアクの強いもの・露骨に政治的な表現のあるもの(先の例に加えて意匠改造など)は御免である。
現住・愛知県も、2019年のあいちトリエンナーレでそういうことをしていれば可愛げがあったが、実際は第1回(2010年)から今までに「現代文明でさえ尊重しがたいアート」が少なからず置かれ続けてきたようである。
2016年における非難が多い小鳥の展示(フーガ flight)では愛知県議会かどこかで「展示の政治性、見ることの政治性」云々という紹介があった。



芸術全般において「自由 (free, freedom; liberal, liberty)」の気風で製作でも鑑賞でもあることは当然だが、もし憲法でいう自由を強調する者は、当然、公序良俗とか倫理とかも踏まえてほしく思う。
昭和期における戦争の実質的な責任者であるはずの昭和天皇(裕仁 Hirohito)であっても、白黒を私はつけるべきでないし、尊敬する人も多かろう(最近話題の「拝謁記」はまだ世間であまり知られないにしても)。
「表現の不自由展・その後」の類例には、フランスの新聞社 (Charlie Hebdo シャルリー・エブド、シャルリ・エブド) の風刺画が連想される (cf. events relating to freedom of expression イスラム教のムハンマドさん関連が多い)。
確かに、風刺画・戯画・カリカチュア(肖像写真コラージュを含む)は痛快の度を越して不快の域にある表現(美的に不快である表現を含む cf. parodies of Donald Trump, うちTrump baby balloon)がある。

テロ予告(それによる脅迫)や実行も問題であるにしても、地位のある人たちが尊重や思いやりの心(またはそれによると他者から見える行動)を欠いて芸術作品とされる何かを製作・発表しては、憲法でいう自由(概念・観念)や政治のリベラル派を嫌う人たちとの対立・隔絶が深まるだけであり、文明に対する破壊行為でさえあろう。
もし「破壊の後に前進・進歩がある(どんな前進かしら)」と言うならば「戦争の後に反省・発展または平和がある(勝者と敗者の溝が小さいか敗者が滅亡した場合の仮定)」との理論に似る。
極左としてレッテル張りを受けることよりも、致命的に見られる。
対立感情の増加やテロ関連の行為は、実際に展示がされてからの結果に過ぎないとしても、もう少し慮るべきである。
慮ること(配慮)と芸術活動・思想・思考の萎縮云々は、別問題である。
私においては、日頃ネットやリアルの外的要因で萎縮させられるからこそ、極度に憂鬱でない限り反骨精神とかハングリー精神とかで芸術の路線の決まる側面がある。
"impressionism", "expressionism"... まさかの"depressionism (抑うつor憂鬱主義)"が既にある?"depression"って、"decadent, decadence (退廃云々、芸術界隈にも見られる語)"と"pessimism (悲観云々、芸術よりは思想界隈に見られる)"と文字列が重なっているように見える。ただし、関係が無いことは分かる。接尾辞-ismはともかく、語源的に接頭辞de- (意味がいくつかあるうちdownの意味)以外は意味と形態の共通点が無い。類義に"repressionism, suppressionism (抑圧主義・抑制主義…訳語自由)"を設けるが、二語は動詞の意味が他動詞で取られがちであって精神の再帰的な意味なども可能であるが、不適切かもしれない。この話は言葉遊び (word play)・だじゃれ程度に考えてもらいたい。
表現方法の多様性のみならず、精神性も多様であってこその現代文明である。色々な感傷で色々なアートの展開もあることは、歴史に明らかであろうから内心を重んじたい。現代では先述の「リレーショナル・アート」がらみであってもなくても、社会的な主張をする・アグレッシブに社会へ関与する・社会や政治への批判をする・社会派であることがやたらと強調されている。彼らには「少数の天才によって彩られた歴史はもういらない」などという考えもあろうから、もはや旧来の美学が必要なかろう。日本の美学者・評論家H氏はアートと社会性の関係について「アーティストも元から社会の一員なのだから、作品を社会に関連させる風潮は息苦しい(趣旨)」と述べた。そして多くの日本人は社会派ファインアートよりも、五感の欲求に直結するアニメや漫画やゲーム (Anime, Manga, Video games; 中国語圏でいうACG) を楽しむ。今後も資本主義的分業体制・民主主義的多様性尊重の裏で、あらゆる分野の全体性も反比例して高まり、境界が曖昧となる(cf. 科学、私による過去の説としては2014「世界的な画一化の進行に警鐘を鳴らす」についても参照)状態が強まるか。

政治的な主張の強い作品は、素直な芸術の心・創作意欲による行為と異なるように、私は感じる。
政治運動・革命・社会の変革のつもりならば、それこそ、芸術とその表現の範疇から外れていよう。
この種の作品は作者にとって多くの人に見てもらいたい意図もあろうし、実際に展示前から報道されていたり、問題になって以後にもそう報道されるなど、「嫌なら見るな」とは詭弁になる。
政治色のある芸術をやめよと言う気は、私に毛頭ない。
憲法に関すること(憲法でいう自由や権利)は本来的に立法・行政などの国家権力と、支配下の民の関係を言う点 (e.g. 自由権の保障, 検閲の禁止) で「公人・権力者たる政治家が芸術に容喙するな」とは一理あるが、文明の構造を思い返すと虫がいい言説だという感じもある。

「偽りなき自身の政治的な主張」のある作家・芸術家当人が、自由と責任の関係を理解して活動し、フランスの新聞社 (Charlie Hebdo) の記者たちがテロの犠牲になったような結果を得ても、無関係の人が巻き込まれない限りは構わないと、作者たちが思っているかもしれない。
自他の内なる憎悪を防いで平和な世の中を目指すという、絵に描いたような菩薩・聖人の理想を抱いて行動する人は稀である。

京都アニメーション・京アニ放火事件の犯人が抱いたと思われる憎悪・・・、そういった負・陰の感情を、弘めるようなことがこれからも重なるか?
原因が何であっても、憎悪が蓄積し続けて行動に表れる時局となっているか?
日本での凶悪犯罪は、欧米に比べると人種・宗教がらみでない場合(esp. ヘイトクライム)が多いが、そのために、日蓮大聖人の御書のアレコレおよび七難が連想される。
先の2019-07-15記事のあとがきで、"hikikomori"に無理解のまま日本人の比喩として用いる日系アメリカ人2世芸術家の存在を見た経緯から川崎市の一事件についても触れた。
逆に、日本にいる移民労働者"migrant workers"や外国人技能実習生・研修生に対して日本での事業者の人が高圧的にふるまうケースが多くある(被害者とされる者たちは留まるか帰国するか?量的調査は困難)など、多くの方向での負の感情の波(不協和音のポリフォニー)が展開されるようでもある。
日本の中で様々な差別・偏見が強まって被差別層は萎縮するか反発する傾向が強まるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。
今のままでは、一般公募・投票で決まる「今年の漢字」も、今年5月からの元号である「令和(Reiwa 政府解釈: 美しい調和"beautiful harmony", 漢語的一解釈: 和ならしむ"make them harmonious")」に対をなす「乱」とでもなるかもしれない。



このような社会的すぎる話をやめ、私の絵や音楽作品から、表題に合うものを当記事で掲載してゆこう。
自由主義・個人主義と学問・芸術の関係について少し語った2019-07-15記事も、参考までに読んでいただきたい。

私はインターネットの場で慎ましく作品の公開ができると、喜ばしく思っている。
みだりに見せるものでないとも思っている。

彼我の関係と、その滅却とを感じていただきたい。



☆私の芸術 (?) 作品と色々な話題


2017年3月10日の音楽動画『「街の子」をイメージした楽曲2つ』
http://www.youtube.com/watch?v=A_93d_RwunQ

(1:25~) 「交差点」の歌詞 (lyrics) は2018年12月2日に書かれた。
詩"poem, poetry"や文芸などもファインアートの一種ではある。

 その昼下がりわたし 傾く日差し見たり
 優しさと寂しさを少し 湛えて物を照らす
 道行くつかりぱたり 辻にてぴたり止まり
 夕暮れ街で流れゆく 人の影はどのくらいあるの

 みぎひだりに 頻りに
 顔を向けてみようと思った けれどもできず

 今日もただ行く ひごろ何がどこで起きても わたしはわたしだけずっと
 道のすみの 誰の求めの来ない そうゆらり

2019年4月6日投稿記事『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』からの引用:
当該楽曲が"街女人・つじさゆり"のテーマでもあるので、その人物キャラクターに由来する特徴づけがあることよる押韻がある。
いわばキャラソンの役割が兼ねられており、「う」や「い」のような狭母音の頻度が高いことによる"街女人・つじさゆり"の身の上に感じられる「不自由・抑圧」のような印象を与える。

つじさゆり
"街女人・つじさゆり"の元ネタは宗教的な文学作品と思われる萌えの典籍「萌集記・街の女人篇"catuṣpatha-saṃyukta"」にあり、上掲画像は2016年7月30日に描かれた絵を加工したものである。
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2016.html#mjk



作曲にMIDIの打ち込みインターフェースのソフトやアプリを用いることは、ペーパークラフトにおける「折り紙 (origami)」に相当すると思う。
80年代の先駆者や発起人が日本人・日本企業だったこともあり、日本の伝統工芸に比するものと思う。
MIDIの規格自体は現在まで、電子ピアノなどエレクトリックなインストゥルメント(楽器)に適用され続けているし、DAWでもソフト音源(VSTiなど)のノート配置などがMIDIベースであるから、技術的に、その種の作曲などで不可欠という地位にある。
筆者自身も2004年(7歳)から携帯電話 (SH252i) でMIDIベース (SMFファイル生成) の作曲をしていたように、子供でも簡単に学んで実用できる。
情報技術 (information technology) ・電化製品=情報端末が普及している時代であるし、折り紙に相当するものとして流行りすたりの無いMIDI作曲をすればよい。
任意の関連ソフトで視覚化すれば、視覚芸術 (visual arts) の側面を持ち合わせる。

about liberator
"Dominus Immensus"には次の歌詞がある。
"Liberator per verbum non tristis. Praeceptum semper memini..."
この"liberator (リベラトル、リベラートル)"の意味は、お察しの通り「リベラル」と同源のラテン単語であり、同楽曲兼動画作品の解説記事に説明がある。
2番Aメロ "liberator" (解放する"libero"の行為者名詞であり、通常は他者を解放する行為者の意味を持つが、ここでは自身を解放する・自由になるという再帰的な意味を含めてある。既に自ら解放された=解脱した人である。自己のための解脱、他者への教導という意味を掛け合わせて仏教の諸仏や諸菩薩に代表される人物を表す)

同楽曲は特に政治でいうリベラルと関係が無い。
絵や歌詞に意味を見出したい人は、それこそ「自由」の立場ですればよい。
「苦しみからの解放」という点での自由のためには多くの不自由が途上にある。
今、自分を含めて誰かしらの人が、「完成された自由」にどれほど近いと、私は思うか?



☆2019年8月14日現在で製作(制作)中の絵
 および当ブログ未掲載の絵


文明 発展 発達 成長 精神 都市 街 人物 近代 西洋
(絵 181228, 2019年7月23日時点, 用例リンク)
こちらは、遠い将来に投稿される当ブログ「絵の練習記事」で、掲載される予定の絵である。
単純に「花と街並み」をテーマにしたシリーズの一作である。
ただ、この見た目だと「発達する文明の中で感じる孤独感・孤立感・疎外感」といった哀愁のあるテーマによる作品に見えるかもしれない。
美術史では、それが20世紀中(WW2以降に顕著)に見られる。
この絵を現実世界の時代に託すれば近代・・・、19世紀後半や20世紀前半くらいが想定される。

1up 181117entire
(絵 181117, 4点分が載り、うち風景部分は別途大幅調整中)
こちらは、近々に既存の「絵の練習記事」で掲載される予定の絵である。
絵の風景は日本と気候の似る地域(ケッペンの気候区分CfaDfaに当たる)の風景が参考にされ、色々なオブジェクトの外見は少し古風である。
日本と西洋、現代と近代という対比で、感じられる魅力は何かと考えてもらう。

2019年4月6日投稿記事『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』からの引用:
少し芸術(音楽・美術)の歴史を振り返ってみよう。
19世紀後半から第二次世界大戦の開戦前まで、西洋美術においては写実性から遠ざかる流行 (impressionism) や、感情表現の濃い画風 (expressionism) が強まった。
第二次世界大戦の後、一部の西洋人は「楽器と聴衆を目の前にしながら演奏しない音楽」や「作品の掲示されない展覧会」といった「空虚さ・虚無の美」についての実験的な (experimental) 芸術を行った。
または、観る者と作る者とが一緒にいて実演されてこそ作品であるとする思想(パフォーマンス系 performance)の音楽や美術が構想されていた。

私は、それらも認知したうえで、現時における通念上の理想的な音楽や美術を追及している。
簡明な例は、キャッチーなメロディーに心を弾ませるリズムの楽曲や、美麗な風景に美少女のような人物がいる絵画である。

自由 絵 横野真史 萌え 自然 風景 美少女 美女
(絵 190805a, 2019年8月19日時点)
こちらは、遠い将来に投稿される当ブログ「絵の練習記事」で、掲載される予定の絵である。

2019年7月15日投稿記事『科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動』からの引用:
学問や芸術を行うこと、その目的を何にするか?
これはまた、各々の人生経験・人生観・死生観・価値観から決めればよいと思うし、まだであるならば好奇心の向く範囲内での努力の結果に自ずと見出せるとよい。
苦しみの心を自覚するならば、その解放を目的とすべきである。
つまり"id est"、自由主義・リベラリズム"liberalism"の原義であるラテン語"libero, liberare"を志向した手段とすべきである(辞書的な語源はフランス語libéralisme<libéral<ラテン語liberalis<liber<印欧祖語*h₁lewdʰ- "people, to grow"となるので私の思想的な語源になりそう)。
リベラルアーツ"liberal arts"とリベラリズムは直接関係しなかろうが、個人の意思や精神の表現の「手段と目的」という関係性そのものに通じる。
リベラルアーツとは、古典的な定義で3つの技能"trivium: grammar, logic and rhetoric(文法・論理・修辞)" + 4つの技能"quadrivium: geometry, astronomy, arithmetic and music(幾何学・天文学・算数・音楽)" = 7つの技能 (skills, arts; artの語源はラテン語ars) を意味しており、内容は表題にあるものと重なる。

(中略)
単に「苦しみからの解放」などについて個々人が自ら斟酌できることを望む。
端的に、個人主義"individualism"は「互いの個性・人生を尊重することで自身の個性・人生も尊重されることを志向すること」、自由主義"liberalism"は「互いの自由を侵さないことで自身の自由も侵されずにあることを志向すること」と解釈してもらおう。

(中略)
「苦しみからの解放」ということは、私が仏教の学習を通じて得た人生観である。
仏教に依拠するならば、芸術・学問・リベラルアーツというもの=才芸が強く介在すべきでないことは明確であるし、自覚もある。
例えば、私の仏教学習の初期に日蓮系宗派・新興宗教を学び、日蓮大聖人や彼が尊敬した高僧の一人である伝教大師の言葉にも「仏道修行者は才芸を用いるべきでない(あるいは…才芸に長けているからといってその人を尊敬すべきでない)」という意見がある。(後略)

清浄萌土抄に云く:
惟えらく、萌報身の心平等ならでは衆萌愛憎熾盛にして円満ならず。云何となれば衆萌は萌報身の所生なり。群萌が間に闘諍起こるべし。萌土は須臾に滅せん。然るに萌土は毀れず。萌心は阿摩羅識・菴摩羅識とも自性清浄心とも名づく。萌心の力用は報身の所作なり。報身所生の萌土と群萌とは亦た清浄常住なるべし。何ぞ其の土の焼尽することあらん。

勧進養萌頌に云く:
憂き世の恃み盡きぬれば 智者みな已に厭離しぬ
聞法一善まことなり 大地たしかに身を支ふ
五濁惡世に身を受けて 穢き泥にまみれなむ
佛日法雨の妙用は 微泥を淨土と轉ずらむ

淨むべきかな我が心 殻なる人を拂ひ捨つ
衆萌を救ひ養へば 淸淨萌土の成るを得む

世間の物事に対する不平不満が感じられても、みだりにそれを他者へ示さない姿勢がある。
もっとも、日記メモは学問的な公平性を期して、その種の私情であっても可能な限り綴って公開するようにする。
絵や音楽では、芸術的に快感があると思われる形で、何かしらの表現をしたい。



当記事の話題に関連のありそうな事柄に、フェミニズムも考えられる。
フェミニズムの立場と男女平等の立場とは、手段と目的の関係に見えることもあるが、結局、立場にある人々のうちの活動家たちの魂胆がいかなるものかは詮索の余地が無い。
フェミニズムの立場と男女平等の立場との峻別ついては、萌えの典籍・萌集記・街の女人篇・説法十箇の事(詞~五)女性(ストリーバーヴァ strībhāva)に関する注釈の内容が参考になる。
性が本質的に存在しないことの教説を、あくまでも仏教徒の信仰や修行に資するものとして示している。
それは究極的な男女平等=不平等・非不平等を導き出す。
性差別(セクシズム sexism)への反発の運動やLGBTらによる運動などは極めて社会的な立場にあって表面的なので、究極的な男女平等が志向されるわけでない。
真理はただ一つのみあり。またこれ無なりと説く。論争の言説に真理なし」ということと同じである。
自由主義・民主主義の哲学的な過程にも、一応、そういった形而上学的な見解が介しているはずである。
言論・出版の自由を訴えた人物が17世紀にいる。失楽園 (Paradise Lost) で有名なジョン・ミルトン (John Milton) さんである。彼が言論・出版の自由を訴えて記した書 "Areopagitica (1644)に "And though all the winds of doctrine were let loose to play upon the earth, so Truth be in the field, we do injuriously, by licensing and prohibiting, to misdoubt her strength. Let her and Falsehood grapple; who ever knew Truth put to the worse, in a free and open encounter?" とあり、インドでいうसत्यमेव जयते, एकमेवाद्वितीयंのようで、「形而上学的な見解」が介していると思う。ちなみに左の英文引用範囲で、性一致"gender agreement"がラテン語や梵語と同じく反映されたTruth(ここでは語頭が大文字で唯一神Godと同じく唯一の宗教的真理を指す)はラテン語veritasと同じ女性名詞feminine nounであり、代名詞女性形herでも表現されている点に注意されたい。
形而上学的な話は「お決まり」感があるので、お終いにした方がよい。

2019年5月16日投稿記事『科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性』からの引用:
後者は日本の女性たち自身が何かと「科学でも政治でも誰かしら女性が目立つとその女性自身が恥をかく」ことを自覚していて弱腰になっているかもしれない(e.g. リケジョ小保方さん論文・第二次安倍改造内閣女性閣僚2名同日辞任・豊田真由子議員による暴言・稲田さん防衛大臣期に数度の失言)。
2018・19年には東京の某医大をはじめとする複数の大学医学部が女性受験生・男女不問浪人生が不利に扱われる問題の報道もあったが、何らかのアンケート・意識調査によれば、医学部生か医学部OBか誰か女性たちの過半数が「仕方のないこと」のように回答していたようでもある(なぜ彼女たちがそう思ったか理由は不詳)。
これらの話題は私の脳内ソースにも依るため、興味のある者が別途、検証すればよい。
私の現住・愛知県豊橋市で当地に唯一の国立大学である「豊橋技術科学大学 (TUT)」は、THE世界大学ランキング (Times Higher Education World University Rankings) 2019で801-1000位に入っており、そこに載る「女男比 Female:Male Ratio」を見ると、豊橋技科大が9:91という驚異の女性の少なさであった。
これは1,000位以内に入った日本国内の大学51校のうちで最も低い比率である(cf. 東京工業大学 14:86, 東京医科大学 50:50)し、他の世界全体で1,001+のランクを含めて探しても女性が10%以下である学校は男子校などを除いて2校のみである (Indian Institute of Technology Roorkee 10:90, Muroran Institute of Technology 9:91 いずれも工科系)。

(中略)
女性たちが望まない範囲の男女平等の状態(学術以外にも労働や雇用も同様)を、権力ある女性男性諸氏が作り上げることは、文字通り心ある人々にとって望ましくない。
蛇足の肉球を書こう→『国連 UNをはじめとする世界的機関の多くは「表現の自由=報道の自由」のように扱って大衆娯楽・大衆美術・大衆文化を対象とする傾向が少なく、世界で一定の地位を得た日本の漫画やAVなどを彼らがあまり尊重しないばかりかユニセフ UNICEF的に規制対象としていようこと』は、やはり『日本の漫画やAVなどが、性差別を根幹に抱えている(しかし日本で特殊な点は例えば作者・出演者が男性でも女性でも「一方の性・特に女性が弱者のように表現される漫画やAV」に嫌悪感を持たずに表現を追求している)・同性愛をその異性の性的興奮を誘うように表現する・小児性愛のような側面を持つ』と見る彼らが好意的に日本の漫画やAVなどを表現の自由の対象としない要因となっているように、私は感じる。表現(言論に限らず芸術的な創造を含むspeech, expression全般)によって不特定多数の他者の人権が侵害されることを思い合わせるにも、大衆の娯楽・美術・文化を交えると、表現の自由のために恣意的な二重規範・ダブルスタンダードは現状に強く残っているように、私は感じる。個人の思考や思想の自由に繋がる以上は基本的に放任されているとはいえ、私的な範疇でさえ小児性愛のポルノグラフィー所持に対しては風当たりが強いように、私は感じる。本題と関係ないばかりか漫ろに私感を示したという蛇足肉球であるため、この記述は考証の対象にしなくてよい。

日本特有の役割語に典型的な「女性語(女言葉)」が文学など以外で用いられない状態(19世紀後半~1980年代に生の日常的な会話音声や翻字的な記録のコーパスなどが少ないのでいつからかは断定不能)に続き、女性のオフ時のファッション・通勤時の服装も夏場は半袖Tシャツ・短パン(ハーフパンツなど)・スニーカー(またはサンダル)で何も問題視されない場合が増えると思う。
悲壮感でその堂々たる実践をする者が多数派になるとは言えない(リベラルの価値観で旧来のジェンダー観 masculinity, femininityを嫌うという風潮は日本で育ちづらい)が、少しずつあらゆる場面で男女の差異が相応に均されつつある。
リベラル的な自覚・意識なしに、緩慢な行動や態度が許容されるだけではモラルハザードということと結果的な業務効率の低下になる恐れがあるが、それはまた(人間文明が維持される限り)次の文化的な行動と結果に繋がるとすればどうでもよい。
原始人と中世・近世の貴族と現代人を比較すれば、赤ちゃんと若年・中年層と高齢者のような「0から誕生して1となり、ピーク時の100は繁栄と分裂の極致であり、やがてまた集合と衰退で1まで陥り、消滅して0に帰す(2016年3月16日記事での説の引用)」という現象の相似形と分かる。
今はnであり、その0→1→A (時代や地域を問わない任意の原始人)→100 (中世・近世の貴族)→n→1→0に当たるが、nは80ほどと思われる。
今の男女の差異n = 80は、加速度的に(関数的に、30年以内に)50へと急降下するかもしれない。

alt="現代
(絵 190804a, 2019年8月18日時点)
小説の挿絵のようなものは単品として小規模であり、身近に行うことができる。
文学作品・音声作品などの表現に依存した結果ではあるが、内なるイメージの表現(表象, 西洋の学者ならばラテン語の接頭辞in-, ex-に託して考えることができる)の手段として、普遍的に「えがくこと (to draw, drawing)」がある。
人によっては「他人の想像に感情移入したくない」と思うかもしれないが、この場(当ブログなど媒体・メディア)であるから、私は多く掲載する。
他者の小説作品の表現から想像し、この絵を描いた。
これは、遠い将来に投稿される当ブログ「絵の練習記事」で、掲載・解説される予定である。

絵の人物=少女がいる場所は、作中の設定上、一国の王城の塔の最も高い領域であり、そこに軟禁に近い状態(作中で「封印」とも記される)で、死を公表できないでいる女王 (her mother) の姿を幻で演じるための魔法を維持しているという。
彼女自身も王女であり、女王の幻を演じる間は「病に臥している」ということで通っている。
彼女は、国内の闘争が佳境にあるときに大きな役目を果たし、その後に大衆の前に姿を見せて新しい女王になるなど役回りが色々とあり、この絵のシーンはこの人物の動向が表現される最初期に当たる。

旧来の美は秘せられるべきものか?
今の芸術・特に美術界隈を見ると、平面の絵画であってもドロドロとしたクリーチャーか歪められた人型の何かを描いて上出来とされるように見える。
私の絵に関しては小児性愛 (pedophilia, paedophilia ペドフィリア) のように見える人がいるかもしれない。
直感的に美人(男女を問わない)だと見えるもの(少なくとも作者がそう意図して描いたと分かるもの)は、別方面に除け者にされてしまったか?
美の価値観が何かはともかく(進化論的美学や認知科学の観点で人間 ヒト Homo sapiens sapiens にいくらか普遍的なそういう側面があるにしても)、私にとって直感的に美人だと見えるものは「封印」を受けている感じがする。
ナチス・ドイツなどの優生思想・線民思想のようなものとして排除されるべきだと知識階級の人たちはみなすか?
よもや人間自体の存在が罪と言いたいか?

occam ockham
(絵 190609)
オッカムのウィリアム (William of Ockham c. 1287-1347) という中世ヨーロッパ神学者をモチーフにして描いた絵「説明には余分なるの図」である。
背後の文字列"Pluralitas non est ponenda sine necessitate"との関係は、これを詳述した2019年6月14日投稿記事『説明用の図の区分、文字配列図・数式・想像図・概念図(抽出図)・写真』を参照されたい。
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/06/diagrams.html
これは、遠い将来に投稿される当ブログ「絵の練習記事」で、掲載・解説される予定である。

人物の目が鑑賞者側に向けられる絵(いわゆるカメラ目線)は、現代日本の大衆的なイラスト(系統としてはいわゆる漫画 Manga, アニメ Animeの影響下にある)に多い。
私の場合にはあまり多くない。
人物自体が風景そのものであるかのような絵は、先述の「小説の挿絵のようなもの(テニエルによる19世紀のアリス原作の挿絵とかも参考になる)」として多少ありえるものの、他の絵でもこの傾向が強い。
私の性格の表れであるかのように捉えることも可能である。
そのような絵の人物の状態は、自由や放任の象徴か。風に揺れる草花に重なるか。

想像図 言語学 コーパス
(絵 190226)
上記記事に言うような「想像図」の絵もある。
2019年2月3日投稿記事『現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性』に載る。
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/02/omission-of-predicate-with-scenes.html
これは、遠い将来に投稿される当ブログ「絵の練習記事」で、掲載・解説される予定である。



萌え系の人物の相貌に関する「実在の美人の相貌との相対的相似(近似)」を「二次三次相対互換」として2015年から考察を始めた。
この証明には認知科学 (cognitive science) の知見が適用される。
加えて、パーツ1種類の比較から、それらの配置という構造的特徴などを幾何学的なアプローチで検証する方法も必要である。
この旨はおおよそ2016年2月15日投稿記事『二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論の体得』に記される。
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/2ji-3ji-gokan.html

横野真史 2019 2019年 近況 写真 肖像
最後に、私・横野真史 (Yokono, Masashi) の肖像写真 (201908080917) を掲載する。
私が芸術(美術・音楽)の手段で「自由」や「不自由」を表現する方法が何かは、伝わったであろうか。
他者から見出す自由・不自由が多いかもしれないが、自身に投影できるかもしれない。
街女人・・・、OLさん(セクハラ被害などの設定あり cf. 2014-10-05絵)なので無職男性である私と反対の存在に見られそうであるが、宇宙や太陽系(宇宙船飛行可能領域)や地球の大気圏内(脊椎動物生存可能領域)や日本(北半球の島々を有する我が国)という入れ子の中で何を感じるかといえば、同じようなものも有りえる。
自然景観(原風景)だったりすると、何か各々の求める「自由」に結びつけるような傾向が、鑑賞する人々にも有りえる。
過去に学校、現在にインターネットで、私は公に姿を見せながら、努力を絶やさずに生きている。
そう生き続ける私に対する他者からの目線(毀誉褒貶の混交にあるも大局的には一人も心からの尊敬をしていないとして軽侮に等しい)は変わっていないので、私が滑稽な道化を演じる宿命にあるかのようである、と思う。






最近のメモ帳更新一覧
7月13日 https://lesbophilia.blogspot.com/2019/07/plus-jun-2019.html
7月15日 https://lesbophilia.blogspot.com/2019/07/arts-neet-hikikomori.html
8月08日 https://lesbophilia.blogspot.com/2019/08/plus-jul-2019.html
8月10日 https://lesbophilia.blogspot.com/2019/08/linguistic-science.html

最新投稿動画
7月18日 https://www.youtube.com/watch?v=ZAEsr0Iu0eI
同一動画が7月19日に公式ch, 日記chでも投稿された。
8月18日 https://www.youtube.com/watch?v=-YIFDAmpQ8A

最新音楽動画
8月15日 https://www.youtube.com/watch?v=u3dZCfZ0aeI

本文中にほのめかされるように、当記事は2019年8月14日に起草された。
何となく、当記事の話題の事柄がこの数ヶ月ほどで考えられてきた。
このタイミングで、一芸術祭(上述、さいたま・あいち両者は私が2016年ブログで取り上げたもの)の騒動が愛知県内から勃発して「憲法でいう自由と芸術の行為(芸術に名を借りた政治活動?)」に関する話題が少し世間に流れてきた。
私は、今に考えを少し示してみたくて2019年8月14日と遅れながらも当記事を起草した次第である。
我が故郷である浦和市の後釜であるさいたま市(浦和市庁舎継承)が2020年に行う「さいたま国際芸術祭(清水隼人さいたま市長らによる)」は、穏やかな内容&地元レベルの可愛げのあるものになることを、私は望んでいる。

さいたま市浦和区に住んでいたころ、近所の北浦和公園内の埼玉県立近代美術館に足を運ぶこと(一小学校不登校時代に)は多かった。
そこには、クロード・モネ (Claude Monet) の藁シリーズ(積みわら Les Meules)の1作(1890年からの連作25点よりも前のもの)が展示されているというが、当時に私が見た記憶の無い作品である。
クロード・モネの藁シリーズと似ないが、私が描き続けたいものは自然風景と美少女らしい容姿の人物がいるような「依正不二の萌え絵」である。
これは萌えの法門だと「好色萌相(こうしきみょうそう *suvarṇa-moya-lakṣaṇa al.萌え絵=可愛相 śubharūpa, 萌相曼荼羅 śubhamaṇḍala)」として説かれ、典籍中には萌相三十儀に詳しい。
萌相三十儀から3項目を抜粋する。
獨り尊にして居(を)る儀・・・絵の相貌に人形萌類の群集せば怪異(くゑい)の如し。萌相曼荼羅にては一人萌のみを立つべし。萌一而多なり獨而非獨なりと觀ずべきなり。
動かず寂然たる儀・・・動漫(英: アニメイション、羅: アニマーチオー アニマーティオー animātiō)なんどは我が耳目(にもく)を驚かすこと多くして心安からず。豈に怪異に非ずや。閑かなるもまた尊し。又た動かざれども萌えの音聲は善く響けり。不動の勇躍(ゆやく)これ不可思議なり。
依と正と二ならざるの儀・・・芽は土を憑みとす。若し然らずんば空華(くうぐゑ ākāśa-puṣpa)と云ふらむ。萌類と萌土と能く融通して瑞應(ずいおう)の相なり。

今の私は利他の精神を持っていないので、他人に何か「これが最善だ」というものを勧める気は無い。
萌えの典籍は利他や菩薩の立場が主立っているとはいえ、利己・自利の立場で客観的真理に近い理法を兼ねること(大乗と小乗の構造的関係)は言うまでもないし、今更示す必要も無いが、それも1つ引用しておく。
萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会に云く
諸法、本より愛憎なし、唯だ人の心に依るなり、所以者何(ゆえはいかん)?
可愛相これ美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木なり。
可憎相これ美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木なり。
美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木は可愛相に非ず。
美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木は可憎相に非ず。
是の如く観ぜば、愛憎"Rāga-Dveṣa"は何処(いづく)にか有る?
略して説かば、相に愛憎なく、心また愛憎なし。
心の(心が)相を取らば、識あるべし。この因縁に愛憎の仮名あり。
実に愛憎あること無し、不染不浄の萌えを清浄と名づく。
云何なるをか名づけて萌えと為す、円満の三萌義、万物・心みな萌えなりと説く。
一一色相、萌ならざるは無し、不染不浄・不一不異、みな萌えにして中道なり。

上記引用で「因縁に愛憎の仮名あり」と説くように、「美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木」はいずれも「萌えであり・萌えでない」とする。
客体に萌え(執着対象)を見出す心=主体 (subject) が萌えの感情(執着 i.e. 愛などrāga, tṛṣṇā)を持つので、「円満の三萌義は万物も心もみな萌えであると説く」とする。
無分別のゆえに「萌えであり」、「萌えでない」。
「任意の客体 (an object, objects) に対する美醜の価値判断が多様であること」は、仏教の縁起観(十二因縁・十二支縁起のこと)に基づいて萌えの典籍の随所に説かれている。
そもそも、客体も主体もともに存在しないという、空 (śūnya, śūnyatā 空性)・中道 (madhyamā) の教義もある。
これも形而上学的な話であるし、すべからく仏道修行のために説かれるべき教理 (cf. 中阿含経の阿梨吒経パーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえ、中論24:11偈の蛇のたとえ、大智度論巻第十八・塩のたとえ) であるため、当記事の世俗的な題材にふさわしくない点に注意されたい。

この「客観的真理に近い理法」でも自由主義や個人主義の側面が言えてくるので、何を題材(風刺画・キュビスム・ドロドロとしたクリーチャーなど)にして描く者がいても構わないことになる。
また、WW2以降の様々な芸術・美術・現代アートの行為があっても構わないことになる。
しかし、私個人に好き嫌いはあるし、特別に描きたい題材はある。

中庸ならば、大概は「放任」、「尊重という名の無視」をしてやり過ごす。
そうして生きて「自由なようで自由でない居心地の悪さ」を感じる者は増えつつあろう。
冷徹な態度の結果に、突然、襲われても・殺されても、文句は言えないし、そういう気構えの人も多かろう。
釈尊在世のインドにおいて、沙門たちが他の沙門に襲われるような伝承も、実話であれば、ある意味でこれと似た状況から発生した可能性がある。
「教養あり、倫理道徳によって自ら悪を制し、他者への敬愛を持つ者」でも、狂乱による極端な行為はある。
記事のあとがきでこのような話を続けても仕方がないので、街女人のテーマ(キャラソン)の件に任す。