横野真史 肖像写真

横野真史の:思想に関する記述の引用 (quotation, quoted from…) を交え、写真を掲載する。

撮影された写真の日時表記は「YYYY年MM月DD日撮影」と記述されるが、この「撮影」という語句は厳密に、記録媒体にファイルとして書きこまれた日時である。
撮影手段として主に、携帯電話(特定の1つ)PC(特定の1つ)とに内蔵されるカメラがある。

見出しの後に (from Xx. YYYY-MM-DD) と書くが、"Xx."は以下のような掲載サイトの略号である:
Bg. = Blogger下ブログ /lesbophilia.blogspot.com/
Ld1. = Livedoor下ブログ /masashi.doorblog.jp/
Ld2. = Livedoor下ブログ /deathmetal.blog.jp/
Yt1. = YouTube上「横野真史」公式チャンネル
Yt2. = YouTube上「横野真史」日記チャンネル


★2016年6月30日7時59分撮影 (by P-03B内蔵カメラ; 陰部を手で覆ってはいるが更に当記事むけに絵でギリギリに隠す)
2016063007590001


●2016年2月6日から同25日までに書かれた文 (from Bg. 2016-02-25)
2016年2月6日、鳩摩羅什三蔵翻訳の「妙法蓮華経」に本来は無かった「提婆達多品第十二」 […] とある調べごとのために、この提婆品を読んでいたが、その中で無関係ながら「千葉蓮華(せんようれんげ・せんしょうれんげ)」という表現に惹かれた(爾時文殊師利。坐千葉蓮華。大如車輪。倶来菩薩...)。
これは真っ先に「千枚の花弁を持つ蓮"Sahasrāra (マクロン抜き正当: Sahasraara、サハスラーラ)"」という、私が初めてサンスクリット語として覚えた単語を思い起こす。
[…] アルファベットやデーヴァナーガリーから覚えたものとしては"Sahasrāra"が初めてである。
"Sahasrāra"を知った2013年中に「千弁蓮華」と、独自の漢訳をして記事に載せた(厳密に言えば、直に漢訳する知識は無かったから英語や日本語での意訳を四字熟語に置き換えたのみ)。

[…] 梵語・梵本の法華経にも見られる単語であるか、突き止めたく思う。

まず、英語版Wikisourceで対訳箇所を探すべく"Chapter 11"を披いた。
先述の通り、この「提婆達多品第十二」は鳩摩羅什三蔵翻訳の「妙法蓮華経」のみ設けられたものであり、別の本ではみな「見宝塔品第十一」に当たるパートに載っているから、"Chapter 11"を参照する必要がある。
また、サンスクリット語版としてDSBCの"11 STŪPASAṂDARŚANAPARIVARTAḤ"も披く。

[…]
要は、「千葉蓮華」をサンスクリット語に戻すと"Sahasrapatra padma (サハスラパトラ・パドマ)"ということになろう。

[…]
他の英語の意訳として、"Sacred Texts"所載の訳文における「千葉蓮華」の箇所は"centifolious lotus"とあるが、これは「百の葉の蓮」を意味しているようである。
ラテン語接頭辞"centi-"は、センチメートルなどと日本でも言うが、"100, Hundred"にあたる意味を持つ。
ちなみに100は、ラテン語 ケントゥム"centum"であり、サンスクリット語 シャタ"śata शत"である。
"fol"という語根なら、先のサンスクリット語"Patra"と同様"leaf"を意味している。


★2016年11月19日14時41分撮影 (by PC内蔵webカメラ)
WIN_20161119_14_41_05_Pro


●2016年4月24日に書かれた文 (from Bg. 2016-04-24):
古事記・日本書紀に関しては、ネット上で粗略な説明や信憑性の薄い情報などが乱れている。
本日2016年4月24日は、前日4月23日に読んだ明治期の論文の記述(高麗・百済・新羅の三韓を我が版圖に歸せしめ云々)に発端し、終日、断続的な調査を行った。

[…]
調査の折、少し話題を外れ、とあるブログを閲覧していると、たまたま本日4月24日投稿の最新記事に「水上交通が盛んになり、交易圏が広がり、遠く朝鮮半島までが大国主神の版図にはいった様子が、古事記に描かれています。」という文章を見かけた。
原文を引用せずに「古事記に書かれてっぞ!」と示されても、ますます情報が乱れてしまうし、大事な聖典の権威のため、「清明(きよくあきらか)」に教えてほしい。
言わば、示して示さないようなものではないか?
その記事においては枝葉末節の話題かもしれないが、私は残念に思っている。

例えば、どこかのお寺の坊さんが「○○上人はこう言いました~、○○聖人の書に書いてあります~」と趣旨のみを書いている度に、私は苛立ちを覚える。
同じ仏教でも、日蓮正宗や創価学会は彼らの発刊している「御書」などのページ数を示したり、キリスト教などでも「〇〇伝、○○による福音書」の何章の何節と示すものだが、なぜこういった姿勢を持たない人がいるか。
とはいえ、彼らが嘘をつくつもりで言っているわけではないのであろうし、たとえ何らかの誇張や脚色や恣意的な想像が混ざったとしても、まあ・・・


★2016年12月16日11時4分撮影 (by P-03B内蔵カメラ)
2016121611040000


●2016年10月6・8・9・13日の絵を載せた際のコメント (from Ld1. 2016-12-12):
この中には、今の判断で載せる必要性・価値を感じないものも混ざる。
載せる必要性を感じないものも載せる理由は、やはり心の中に「その時はきっと素晴らしいイメージがあって感興の故に描いたものだったのだろう」と思って当時の心情を尊重したい考えがあるからかと思う。
その時の気持ち、感覚というものは今の自分に到底思い起こせないものだが、絵が残されるということは、当時の心情の「印」であるから、こう思わざるを得ない。
よって、後に何か私の発想に寄与するかもしれないから載せようと、いつも思う。
載せないものは載せないままであるが。


★2017年4月8日14時32分撮影 (by PC内蔵webカメラ)
WIN_20170408_14_32_25_Pro


●2016年12月17日から2017年1月25日までに書かれた文 (from Bg. 2017-01-25):
私は、宗教信者・反宗教合理主義者の各々に言い分があるから、大いに尊重できる。
同時に、そういった「一理ある」主張はごく一面的であり、それのみを主張の要となして対立する者たちを侮蔑し、かつ憐愍しているのである。
一辺倒の主張であって広い理解や協調性に欠いている者たちではなかろうか。
仏教を学ぶ前から仏教の機根が僅かばかりあった例証である。
人々は人々の理想が多かれ少なかれ意識されるもとに諸々の言論をなしており、大いに尊重できると同時に侮蔑し、厭離すべきではなかろうか。
全て仏・菩薩の憐愍すべき対象である。

仏・菩薩は、一応、説法したり、論理的な説明もするし、大乗仏教で菩薩と尊敬される論師たちも論争に交わったが、同時に、みな論争を超越した存在である。
どんな言葉を発しても、心では常に泰然自若としている(人間の心の奥はみな愛憎も善悪も無い"無記である"と理解する。菩薩は理の無記のみならず事実に体得している。また菩薩は大悲を以て成仏せず衆生済度をされるから同様に論争についても戯論とお分かりで戯論を用いられる)。
現世で我が身の存在する以上は慈悲の心に随い、種々に説法して教化する。
論理的な説明が必要な仏弟子に論理的な説明を行うし、論争に交わって教義を示すならば当事者および当事者の取り巻きなどにも教化が適うということは、内証の悟り・慈悲が泰然として堅固であるからこそ現世の身は柔軟な立場でいる。

cf. Bg. 2017-03-15『一理ある、全ての思考と言葉 「一面的な道理としては紛れもなく正論だが・・・」』


★2017年4月13日12時3分撮影 (by P-03B内蔵カメラ; インスタ云々のイマドキな印象のフォトレタッチ–任意のフィルターを付与)
2017041312030001


●2017年未明のブログ加筆文 (from Bg. 2015-04-17):
「依法不依人」は、その涅槃経(曇無讖訳、大乗の大般涅槃経)に出るのみならず、維摩経にも「依於法不依人(鳩摩羅什訳)、依趣法性終不依於補特伽羅見有所得(玄奘訳)」と出る。
その涅槃経の説では、まず迦葉菩薩が「仏の所説の如く、是の諸比丘、当に四法に依るべし」と語って示されて釈尊が「依るべき四法(依法不依人・依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経)」の解説を行っていた。
その語義が釈尊によって解説されるときに「如来、法性」という言葉が用いられる。
「法性」は梵語で"Dharmatā (法であること・性質)"であり、維摩経の梵語版「依法不依人」にも "dharmatāpratiśaraṇatā na pudgaladṛṣṭyupalambho na grāhyābhiniviṣṭatā" と出る。
つまり、維摩経など、過去の大乗仏説にあることを再び涅槃経で説き直していると考えられる。
もし原典に忠実に学びたい人は、これらの情報を出発点として各自学ぶとよい。


★2017年4月15日14時6分撮影 (by PC内蔵webカメラ)
WIN_20170415_14_06_49_Pro



●2017年5月19日20時台とされる「硬き褥メモ」 (from Bg. 2017-06-01):
経験するほど強くならない、打たれ弱くなる。中学生から物事の分析の結論となっている。経験するほどもろくなり削られると嘆くならば、そのまま悟って解脱すればよいものを、わが身の可愛らしさが捨てられないために、嫌だと拒む。さながら未練があって成仏できずにこの世をさまよう怨念であるが、現世への愛着・未練があるうちは思考において反省と探求を絶やさず、我が名のもとに活動を続けたい。これこそ、我が身を削る悪循環だと、知って知らぬ気でいるが、本当に身が削られる運命かというと、断定できない。信念の灯火は、闇を照らして道を示すが、我が身を焼くかもしれない。


★2017年5月30日11時43分撮影 (by P-03B内蔵カメラ)
2017053011430000


●2017年7月27日の日記メモ文章 (from Bg. 2017-08-02):
(前略)私は覚者である。他者を侮蔑するための記録行為ではない。全て自己反省のためである。どうせ他人は、常に自己反省をしないから他人自身が私を尊敬することも無い。仮に自己反省をできる他人がいても、私に等しいか優れているのでその点での優劣を問えなくなる。私が他人を愚劣とみなしても、当事者が自身を私より愚劣であると反省しないならば無意味か、自己の慢心のみを強めて逆効果となる。論理は、自己の道徳のために活かそう。ここ最近、そう思えてならない。もはや他人に言葉を通じさせたくない。もし慈悲あって通じさせたいならば、言葉を発しないことで言葉を自己の仮想他人に通じさせればよい。他人は「自己と同じ人間」という存在でない。人間などという仮名・ラベルのついた、幻化人・操り人形と表現すべきバケモノである。真の人間不信は、真の信頼関係となる。不信即信頼とは?二項対立が無い中道円融の故である。道徳のための論理なので、ここまで一応書いた話も、執着すべきでない。元の作業を放棄してまで、このような文章を書いているという我に返る。

教育(社会)や説法(宗教)は人形へ対するように行う、ということを説いたのはいつであったか?
般若系経典の幻學品ではない別の–幻人聽法品などにある説を参照。
鳳潭という江戸時代の華厳系の高僧が、若かりし頃に比叡山の和尚さんへ人形を使って説得した話(cf. NDL検索「鳳潭」ページ例)も、私がどこかで提示していたと思うが見当たらないか?
それはBg. 2015-10-17記事に「『鳳潭の人形』と同じである」という表現で見られた。

それらの話は適切な典拠から参照されればよいし、解釈も自由である。
言いたいことは、教育–しつけから説法–説教まで、あくまでも自身の貪(根源的な欲望を意味する精神の論理記号 ton or musabori; Zh: tān, Sa: rāga)と瞋(根源的な不快感を意味する精神の論理記号 shin or ikari; Zh: chēn, Sa: dveṣa)とを省察することが無ければ、自他の長期的な利益にならないということである。
「人の為」といって行為者自身の貪と瞋とを増長することは、仏(真の自己)の憐憫の対象である。
貪と瞋とを随時に省察して具(つぶさ)に捉えることができれば、それだけの経験者である。
この意味で、教育や説法を受ける他人はみな幻人や人形に等しいし、自身もその不二である。
貪と瞋とを省察する者は、誰に対して教育や説法を行っても、幻人や人形に行うことと等しい結果を知る。
この理解は、行為者自身の教育や説法に関して理解が得られないような状況があると仮定して行為者自身の瞋のカテゴリにある悲観–憎悪–絶望を増長しないためにもある。
換言すれば、行動する際に精神的原因に貪の程度 (cupidity; quantity of ton) が少ないほど、結果的な瞋の程度 (quantity of shin) が少ない。
果敢な人は文字通り果敢であるが、それが状況に対して不屈である時、それだけの精神性–精神的な強み (mental strength, しかしmental toughness は通俗的?極端な成功–富裕と極端な失敗–転落はどちらも人の心を揺さぶって安定的な自尊心と自制心とが崩される。いかなる状況にも現実的な処理をするためのバランスが大事ならば mental balance か) が求められる。
それを持たない人であれば、まずは言語的な知識や理論から入ることも、堅実な道の一つとして私は示す。
情報に満ちた世の中/情報に依存する世の中/情報の量に対する入手しやすさの関数が大きい世の中/理性的な性質の強い世の中であるほど、この道はその下にある各個人に重んじられやすいと思う。


★2017年9月23日9時5分撮影 (by PC内蔵webカメラ)
WIN_20170923_09_05_59_Pro


●2017年8月3日の日記メモ文章 (from Bg. 2017-09-02):
7月31日メモに見るような夢精を恐れ(タマタマが下に大きく垂れる)、7時前にオナニー射精を行った。ハードなやり方で性欲の有無を気にせず、射精すべきものを射精しようとした。たまにはハードなやり方もよいと思った。これが風呂直後の身体状態の条件と相まって悪く作用し、人生初・包皮の腫れが発生した。包皮にリンパ液というか漿というか、浮腫らしいブヨブヨのものがあることを12時ころの排尿時に確認した。泌尿器科・男性科よ!それはそうと、病名は嚢腫(陰嚢の腫れ)か?いいや包皮炎か?仏教的には、ああ自己反省。呪い。烙印。疥癩癰疽と呼ぶか?我が身は7月下旬から、またも「ニキビ・褥瘡・痔瘻のような臀部左側の腫れ(粉瘤)」に悩みもしたが、本当に多病である。作業もままならない。罪が償いきれないし、而も大量に生んでしまうぞ!コラ!ヴォケ!口業重し!コーカーリカ、コーカーリヤ・倶伽利(くがり、倶伽離・倶伽梨・倶迦利とも)。の如くに!長夜に苦を受けて後生を悔いるなよ! […]

当該記事での注釈)「包皮の腫れ」は翌日にほとんどひいた。包皮の腫れ自体は人生初の現象なので「異常」だが、腫れの規模は小規模である。検索などをすると、いわゆるドーナツ型(リング状)のひどい状態の腫れが見受けられるが、「亀頭包皮炎」や「カントン包茎」という名称を私の症状にあてはめることは難しい。小児科方面を除くと信頼できない情報しか日本語インターネットには見られない。強めの物理的刺激を伴う「手淫」のオナニー・自慰行為を原因とし、1日ほどで回復するような現象であることも明示されない。当然、「典型的な細菌性の症状」ではありえない。
cf.:
夢精については、Bg. 2017-10-02;
「『ニキビ・褥瘡・痔瘻』のような臀部左側の腫れ(粉瘤)」については、複数の日記メモまとめ記事とLd1. 2019-02-17;
オナニー行為の多寡については、Ld1. 2016-02-18


★2018年8月23日7時32分撮影 (by P-03B内蔵カメラ; 部分的に塗り潰して隠す)
2018082307320001P1000067


●2018年3月下旬から同4月6日までに書かれた文 (from Bg. 2018-05-09; およびYt2.での2本の動画)
現代学問・芸術の向上を期して宗教学や言語学を研究している。こういった研究の末に文学や音楽(歌曲)に活かす目的がある。各宗教に表現された真理を考えるきっかけとなってほしくも思う。


★2018年12月27日1時37~38分撮影 (by PC内蔵webカメラ; GIFアニメーション)
WIN_20181227_01_37_52-to-38_05


●2018年7月における「勇躍足自到長安、頓天竺羅馬亦近」への注釈 (from Bg. 2016-04-16):
2点ほど、追記事項がある。
①「芸術や学問などで道を行く志のある人は、分野や業種などの区分(概念・名称)にくくられず、志のままに取捨選択をできる。例えば、旅においていくらか地図上の地名や道程を認知していても、実際に自分が道を行く時、未知の場所であったり、未開拓の土地や状態の悪い道(=普通の道でない)に当たることもあろうが、進む意志がある時はそれについて嫌悪せず、可能な限りに進む。そうして初めて地図に名の乗る地名や記載される地形や道がある。同じように、自分よりも先に同じことをした人がいなくとも芸術や学問で意欲の強い者は分野や業種などの区分の有無を過度に鑑みる必要が無い。自分の行動の結果によって新たな区分も生じるであろう」

つまり、長安・天竺・羅馬という地名は実在してもしなくても、特定の由緒で意味のある名として発生する。
彼は、日本にいながら・非ユーラシア大陸にいながら、長安・天竺・羅馬を踏破した者となり、更に優れた場所・優れているとさえ表現できない場所にも行くことができる。
地名やそのイメージといった、先の認知は必要・不可欠であろうが、優れた冒険家・探検家にとって、途中(途上)から意味をなさない区分となる。
彼は、何らかの分野の先駆者となるか、他人たちに見られることで先駆者とみなされる。
彼にとって、経由地や到達地は長安・天竺・羅馬とも、天国とも、地獄とも、他の場所とも、名付けることができる。
何らかの分野がその名称と共に新しく成り立つと、じきに合理化→固着・形骸化するので、止揚する者もまた現れるが、これは音楽でも芸術でも学問でも宗教でも、頻繁に発生する現象である。

②羅馬、ローマということで、私がローマの言語たるラテン語で歌を作ったことをここに記す。http://masashi.doorblog.jp/archives/52087869.html

①の中に記された話題とも関連する。
今の私は、「日本および世界に未だなされないか、あまりなされなかったこと」を、意欲に基づいて行う。
精神的に不備がある今は、常にそうなるわけでないといえど、可能な限りに行うことを期す。


★2019年2月26日1時40分撮影 (by PC内蔵webカメラ; デジタル環境での仮想化粧–メイクアップがある。ここではコープスメイクのようなもの。全体を鏡像反転–左右反転)
WIN_20190226_01_40_46b_Pro


●2019年5月9日における2度のコメント返信行為 (from Bg. 2019-04-06#comments):
愛智の精神 https://www.blogger.com/profile/14461141142339059253 さんへ
いくつかの作業の途中に、私はいます。当ブログで今月に2つの記事を投稿する予定が有ります。任意の月が、その間に投稿数0のままで終えられない限り、私の活動の停滞を案じる必要はありません。

私は、他の長期間失踪している人々を認知しますが、彼らには干渉しません。自ら(再帰標識 reflexive marker 自分で自分の)智に利することを目的とする限り、過去の聖人を拝するように黙って見ます。この記事の目的は何でしたか?私によって他者の智が有ることはありません。また智を愛するらしい者が直接に私とその周辺の智について利することが無いことを改めて私は感じたので、当ブログでコメントを受け付けることを望まなくなりました。私もとい横野真史によって当人自身の智が利せられることを欲する人は、これからも私のことを見ればよいと思いますが、多くの人はその必要も無く、他の場所や機会に自ら智に利することを求めることが妥当です。

雀の涙ほどの情け・慈悲でもう少し書いておきます。突然(俄然・唐突)現れた人が、まだ、その場限りの適切な話題提供や既存の話題に意見を出すことは望ましくありますが、「くれ」だの「心配」だのと言い出す人には「あんた誰?」「貴様は何様なのだ?」と感じる人もいると思います。私の平等の心と理法とによれば、それは有り得ませんが、これは社会的な見地で言わねばなりません。たとえ長年に一方が他方を見守ってきたつもりであっても、インターネットならばもっと交流の形跡や意思の相似が明らかにできます。

インターネットには様々な目的で活動する人がいます。あたかも小学校の教師と児童とのような関係などが、一定の目的性・人生経験を有した年代の人同士では、俄かにできるはずはありません。あたかも小学校で児童同士の社会的交流をするような場にしたい人も、そうはいません。俄かに発生した空虚な馴れ合いは、それをしたい人の間でのみ有り得ます。誰が何の目的でインターネットで活動し、または適切(適度・適当)な交流を用いるか、はっきりとしている人には、それ相応の振る舞いが必要となります。この観点で、私の活動は私の目的に適合しても、他人は理論値1万人に1人(動画閲覧者・ブログ閲覧者などから)として適合しませんでした。この種の話題を2015年以降、幾度と繰り返してきましたが、もうモグラ叩きのようなことはするまいと、その度に思います。

当時の反映は、以下に引用するようなメモ帳ブログのコメント欄に注意事項として記される:
当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされることを期待して解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

人身攻撃 ad hominem 的な傾向のコメントは、それが攻撃的でなくとも根源の精神性は近しいので、常に私が活動の中で警告してきた。
Yt1. 2016-07-08 動画コメント欄の問題(実際の人身攻撃が2件以上見られた)などが典型例に当たる:
返信の必要性に応じて適宜返信を行いましたが、動画の主題と関連性のあるコメントが見受けられませんね。
私の所説の中道義およびこれに根差した政治観に関しては諒とされていることとみなしますが、実際にみなさんが諒とされるか否かではなく、最初から所説に興味自体が無いのではないかと疑念が生じて仕方がありません。
もし「難しい」として嫌う方がいらっしゃれば、それは知的怠慢・思考放棄です。
同じ日本人でインターネットを利用して日本語でお話ができれば、あとは「心」次第です。
(後略、2日後のコメントも以下に抜粋)

コメント返信以後、2日経っても特に誰の反応もなく、動画のコメントも増加が無く、高評価や低評価も8・1のままであり、やはり動画視聴者の99%以上が魑魅魍魎であると再確認した。
魔ですら善友に変えられると信じて活動をしているが、現状には気が滅入る。
やはりコメントなどは、読むに値しないとみなして読まないできたが、今後も同じように思ったほうがよい。
心ある視聴者など、いないものだが、いつかは一人だけでも希代の求道者が現れんことを仄かに願うしかない。


★2019年5月16日18時57分撮影 (by P-03B内蔵カメラ; 同年2月28日の絵1点との比較)
2019051618570001


●大衆的な作品の名称とその受容(検索候補–サジェストでの優位性)に関するコメント (from Yt2. 2019-12-24):
私は中学生のころから日本の音楽界隈を低劣だと思うし(商業・同人を問わず。一般人・ファン・リスナーたちは勝手に競争して勝手に勝者や敗者を決めるのでJ-popはK-popに勝手に敗北した。オンリーワンとされるものをSmapもとい槇原敬之さんが説いてもファンらには浸透しない)、関わりたくない。
曲名・歌詞における日本語の使い方も、特定の社会層に対する差別を持つので、見るに堪えない。

しかし、音楽というラベリング・レッテル貼りのされた大衆音楽"popular music"を離れて自由に、好きな音楽に対する好きだという気持ちのまま努力・活動すればよい。
他人が消費文化の下でどう金稼ぎをしても、純心な努力家・活動家にとっては関係ない。
自身が好きだという気持ちを失っている上で他者に貢献できないことを憂える時、その人は音楽を潔くやめて他の労働に専念するしかない。
「何のために?」音楽をするか、その意義を分からない人々は、そりゃ、日本での音楽など友達ごっこ・馴れ合いまたは金稼ぎ以上の世俗的な価値が無いので、やめるほうが賢明である。
分かる人は(私には正しい意味での自己満足と古典音楽・認知科学の学術研究がある。宗教利用もある。社会メッセージもある。多くの他人は聴かないが)どこでも、好きに音楽をやればよい。

[…]
人に絶望を与える事物・言論は即刻、世間から消え去ることを願うが、それは精神世界でのみ実現されるとだけ言おう。
こういう敗北と絶望の国土 dystopia から精神的に離れるために、まず"Cupiditas"のような歌は日本語と外国語をまじえたり古典的な詩の韻律や押韻に擬して翼を与えるのではないかと思う。

[…]
社会的な身分などは関係なしに(無条件に)人の命の尊厳は平等だし、人の努力の姿勢は尊重でなく尊敬されるべきものと私は言う。
聖夜(聖誕夜)クリスマス・イヴなので (Cupiditas? ...id autem Humanitas, Caritas est.)。



公開済み画像からの提示

Ld1. 2016-02-18記事『性欲は乏しくオナニーせずして2ヶ月、抜こうと思うだけで尿道が痛む私(19)』トップ
3


Ld.1 2016-08-25記事『髪を切らない日々が6年を超過した』トップ
1kami5


Ld.1 2016-09-11記事『横野真史の一日 (2016)』トップ
1nichi1016


Ld.1 2017-01-01記事『平成29年(皇紀2677年)の新春を寿ぎ奉る』トップ
1 2017ny








最近のメモ帳更新一覧
※集計範囲が広いため、2020年1月以降に限定した。前年分は月別アーカイブを参照。
2019年11月 12月

最新投稿動画
12月07日 https://www.youtube.com/watch?v=kueKZEj-HJ0
12月24日 https://www.youtube.com/watch?v=z_r2Rb6wd90
(2020年) 1月30日 https://www.youtube.com/watch?v=KMTJg-g73VQ
2月05日 https://www.youtube.com/watch?v=JOBf018Wv14

最新音楽動画
上掲12月24日と2月5日の動画2点は音楽をテーマとしている。

上掲リンクのうち「1月07日」の記事と「1月30日」の記事と動画は、強い関係性を持っている。
「1月18日」の記事は、「1月07日」の記事から話題の一部が分立される。
「2月05日」の動画は、「2月05日」の記事の説明内容を映像として示している。

当記事は2019年9月4日に起草されているが、当時から、記事に載せる情報を収集する行為はゆっくりと行われることが念頭に置かれていた。
それは「たまたま過去記事を見直す機会があってふさわしいと思える文を見た時」に行われることである。
しかし、2020年2月12日から更新情報が溜まりすぎることが意識されるようになり、この記事と別の下書き記事のどちらかを投稿すべきではないかと考えた。
2月14日からこの記事の投稿を決断して画像に関する作業を急速に進ませ、翌日の午後には最低限投稿できることを期した、という経緯がある。

当記事は2013年3月28日に『美しき横野真史の画像集』という題で投稿された記事の題名を借りているつもりで名づけられ、概ねテーマが共通するが、内容はあまり似ない。
生物学的性 (biological sex) を無視して用いられる「女の子」カテゴリの慣習を、当記事でも踏襲した。
2013年10月に『素晴らしき横野真史の画像集』という題の動画も投稿されていた。


私の英語スピーチがある2020年1月30日の動画の埋め込みを表示する。