NEET-semiotic-analysis

およそ成人年齢に達した誰もが「肩書の名称(仮名–ラベリング labeling)」を使用することは、それが闘争の道具やファッション的な装飾としてではなく社会正義 (social justice) に基づいて社会で有益に機能することが志向されねばならない。
そこで、私は「ニートの記号論」を説明する。
この目的は学術的であるよりも社会的である(物事の本質的な善悪が無い立場よりも正義感に依拠する)が、学問の知識が基盤になる。
大衆的な導入として幅広い説明がある。
題材は現代日本語に制約される精神的日本国だが、比較のために多言語である:

「ニート」の多義性
本来の意味 (original meaning) と、侮蔑的な意味合い (pejorative/derogative sense) とがある。
後者の意味合い(確たる定義の無いもの)を3つの用法に大別し、概念と名称と指示対象とに関する客体化 (objectification) を考察する。

「ニート」の本来の意味の運用性
"Not in Education, Employment or Training"は実在個人 (real individuals) の仮名であるのみで他に付加される要素は無い。
あれば、それは社会正義のためにのみされねばならない。

「ニート」概念名称が日本の社会正義を試す機能
穢多・非人 (えた・ひにん eta-hinin) という差別 (discrimination) の観念がニート・ひきこもり (NEET-hikikomori) に移行している日本のインターネット(および日本系サブカルチャーの世界展開:英語圏や韓国語圏など)の現状を鑑みる。

備考(分割で投稿する予定の説明)

記事末尾から上げて「あとがき」

参考リンク



「ニート」の多義性

本来の意味 (original meaning) と、侮蔑的な意味合い (pejorative/derogative sense) とがある。
本来の意味は"Not in Education, Employment or Training"(教育を受けない・職業に従事しないかその訓練を受けない、状態または人物)である。
後者の意味合い(確たる定義の無いもの)で多くの用法に分岐されている:
1. 任意のインターネット利用者が、顔の見えない/匿名の他人にそれが行儀の悪い人と知覚される場合に「ニート」とレッテル貼り(ラベリング labeling)すること=ラベル用法。
2. 任意のインターネット利用者が、社会的に抹殺したいか不要だと思う人格 (disgusting, wasted) の象徴として「ニート」の名を挙げること=破壊的用法。
3. 任意のインターネット利用者が、自身を「つまらない者–愚者」と卑下するために用いること=自虐的用法。

1については、「ニート」名称の指示対象が「世間知らず naive, childish, immature」であること、「ヘイト–ヘイター hate, hater」であること、「悪人 evil」であること(類似概念で英語スラングの意味の「トロール troll」とも)、といった意味合いが見られる。
先述の通り、方法は「顔の見えない/匿名の他人」に対する一方的な知覚である。
それらは「悪しきもの」の別名のように代替された結果ではないか。
記号の恣意性の中でも社会の一部にある共同の主観性が作用していよう。
「記号の恣意性 (英語: arbitrariness of the sign; フランス語: arbitraire du signe)」とは、意味は能記 (signifiant) 所記 (signifié) の間に絶対的な関係が無いこと  (cf. Cours de linguistique générale, Wikisourceに原語1971年版が公開されている; 邦訳の例: 小林英夫1928 言語學原論, 1972 一般言語学講義; 英訳の例: Course in general linguistics) である。

※「記号の恣意性」は言語学者ソシュール氏 Ferdinand de Saussure (1857–1913) の最晩年の説であり、その原著–原典 Cours de linguistique générale は彼の弟子たち(バイイとセシュエ)による講義録から編纂されたもので直接彼が言及した証拠は確認しづらいが、通説として受け止められる。彼の意図(langue, parole, langage に関することや言語学の目的について)と異なるとしても、私は説明のために借りたいと思う。言語学の目的や言語の主観性に関する話として、私はソシュール氏の説を参考リンク2019-01-08記事に紹介している。彼は「記号 (Fr: signe, En: sign)」について恣意性とその他の性質 (nature, かつ原則 Fr: principe, En: principle であるものとして) を示している:Ⅰ Fr: l'arbitraire du signifiant, En: the arbitrary nature of the signifier; Ⅱ Fr: le caractère linéaire du signifiant, En: the linear nature of the signifier; 他に"de l'immutabilité et de la mutabilité du signe"など。原著では、言語学を記号学の一部分としていた。記号学の基礎に関してまずはこれらをしっかりと学習した方がよい。
On peut donc concevoir une science qui étudie la vie des signes au sein de la vie sociale ; elle formerait une partie de la psychologie sociale, et par conséquent de la psychologie générale ; nous la nommerons sémiologie (du grec sēmeîon, « signe » ).  […] La linguistique n’est qu’une partie de cette science générale […]

[…] c'est pourquoi la langue, le plus complexe et le plus répandu des systèmes d'expression, est aussi le plus caractéristique de tous ; en ce sens la linguistique peut devenir le patron général de toute sémiologie, bien que la langue ne soit qu'un système particulier.
— Cours de linguistique générale 上部はp.33, 下部はp. 101 より

パース Charles Sanders Peirce という人物 (1839–1914) が科学全般や哲学に関して「記号論」を説明したこと(英語での名称はsemioticsだが当時の表記ではギリシャ語の形態からsemeioticsとも。ソシュール氏の記号学はFr: sémiologie, En: semiology)も参照されたい。多分野のキャリアを持っていた彼は、言語学を行ってもいた (cf. Charles Sanders Peirce, Pathfinder in Linguistics. Winfried Nöth)。パース氏とソシュール氏は後に発展する記号論・記号学(中立的にsemiotic studiesとも呼ばれる)の潮流に関与しないことは没年から明らかであるものの、出発点として重要視されたり、象徴にされていたりする(いわゆる構造主義にとってのソシュール氏も同様)。言語論的転回 (linguistic turn) で別の潮流としてのソシュール氏とウィトゲンシュタイン氏 Ludwig Wittgenstein などが挙げられても、彼らの関係は無い (irrelevant)。私は仏教における釈尊の絶妙な説法と龍樹菩薩の中論 Mūlamadhyamakakārikā の趣旨を尊びながら彼らに一定の評価を与えたことがある。2017-07-10記事『仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱』:
科学も数学も、物事を数字に換算するが、それは、どこまでも「言葉と言葉に定義された物事とを知る者自身や、理解が共通する他者」が意思疎通をすることのために行う。
例えば、1つと想定されたコップがあり、それと同じ形・絵柄のコップもう1つを隣に置けば、2つと想定でき、これが"1 + 1 = 2"という数式となり、道理として肯定できる。
しかし、そのコップがどうして「同じだ」と言えようか? 
[…] 
定義をして名称を付ける行為は、水の入ったコップに「80mlの水」とか「2017年1月1日0時に汲んだ水道水」とか「この水、飲まないで!」と多種多様にラベルが付けられるよう、人の都合・人の目的・人の便宜のために行われるのみであり、真実には空虚である。
[…] 
何であれ、多くの哲学は、言葉・概念の構築によって思考・論議を行うなどしてその結論に真理があると考える(その哲学を疎ましく感じて龍樹菩薩のような卓見を示す哲学者もいるようだが→ヴィトゲンシュタインとかハイデッガーなど?ともに1889年生まれのドイツ語名の人)。
言葉は、言語の形ですら文化・習慣・宗教が反映された限定的なものであり、普遍的な意義のあるものとしても、相対的な物事を示す道具に過ぎず、99%以上の説明を尽くすことができても100%や0%を実現することがない。
思考の結果として発した言葉は、みな正論であるが、何らかの定義・道理を前提(命題)としている場合に限る。
[…] これもスッタニパータ4章の随所に説かれ、龍樹菩薩も大智度論巻第一に引用していることは過去記事に私が紹介する通りである。
[…] 仏教における「説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在」とは、そういった「世界の発生・自己の前世・死後の世界」という大層なテーマを設けずとも、般若経典や中論や、多くの大乗経典では、万物自体が万物であって万物でない、認識できて認識できないような「中道・真如実相・言語道断心行処滅・不可説・不可得」のものとして説明する。どのような存在・非存在・想定された事物であれ(自己・他者・仏・我が心・行為…)、みな寂滅の相であるという教理(中論23:15偈)であり、特別なテーマを要しない。

こういう「ニート」名称の用法は誤用であると判断されなければ、後述の社会正義は日本語世界に存在しなくなる。
社会的な用語を種々に混濁させてしまえば、各々が各々の立場によって「真面目に生きる」ことができなくなる。
「自覚・反省・努力の心」さえ絶やしかねない。
いな「自覚・反省・努力の心」の乏しい者が 1 の用法で「ニート」名称を用いている、と私は思う(このようにあまり客観的な検証ができない情報は私の意見として表現する)。

2 についても色々とあるが、小さな例を挙げると、1 の用法の亜型として「主体性や人間性の抹殺(口先だけの無能, うんこ製造機と表現するようなこと; 大半の文明人がそう比喩される側面を持つのになぜかニートの特徴として誇張される)」がある。
端的には「自分でできないことを他人に求める悪い意味での依存が強い」「社会に関して不満げに言及して他は何もしない」として知覚される発言の行為者に対して用いられる例が考えられる。
当然、匿名であってもなくとも、それ以上、発言の行為者の素性を知らない状態で/その「ニート」名称の使用者も自身の素性を明かさない状態で、行われて本物の「ニート」がその場にいることが全く証明されていない場合が多い。
「ニート」名称の使用者個人の感傷的–センチメンタル sentimental, 感情的–センシティブ sensitive, センセーショナル sensational な基準による推量–断定のみで、合意も無かろう。
泥沼式で:A「こいつはニート」、B「お前はヒッキー」、A「黙れハゲ」、C「お前ら低学歴バカ」…と、互いに幼稚な水掛け論を行う。
こうして素性の不明な一般人どうしが醜悪な「相互の言論封殺」を行っており、抑圧行為の悪弊は政治家–為政者でなく民衆から生じる側面が啓発されるべきだ、と本物のニートである私は感じている。
他に「上の階のニート (the neet living on the upper floor) はうるさいから死^ね」のような言い方も、ただ任意の期間の平日も休日も昼も夜もうるさく居住する上の階の人間–実在個人(単数または複数)がいるだけで、この「ニート」という表現は社会的な機能が無く「無意味–ナンセンス nonsense」である。
関係のない場面で、善人または「社会人 shakaijin」に対比するものとしての譬喩–比喩的用法なども多い。

1, 2, 3 の用法はみな、非民主主義–非リベラリズムであるし、また非保守的でもある、と私は感じている。
あくまで簡潔に:民主的であれば、個人の合理的実在を考慮する;保守的であれば、新語「ニート」を用いずにいる。
右翼と左翼との二辺(二極–二項)にとらわれず、よいものをよいと思えばよい。

これら用法の実例が気になる者は、コーパス手法での調査をすすめる。
対象として考えられるウェブサイトは:2ちゃんねる (2ch, 今の5ch.net)、ツイッター (Twitter)、Yahoo!知恵袋などであり、それらの一般的な投稿物–書き込みやプロフィール文章などがコーパスに当たる。
範囲を拡げたければSNSやブログ全般を優先しながら際限なく拡げればよいが、上の3点は参考リンク2014-10-22記事をはじめ過去にも典型例として挙げていた(Twitterを含まない場合が多い)。



「ニート」の本来の意味の運用性

"Not in Education, Employment or Training"は実在個人 (real individuals) の仮名であるのみで他に付加される要素や属性は無い。
あれば、それは社会正義 (social justice) のためにのみされねばならない。
ここでの「運用性」とは、それだけであるが、一般人にとって理解は容易でない。
社会学でそういう用語が提唱されることは、分類を好む一部の学者や機関に起因するとしても、一般的な社会に定着する時は、やはり「等しい生まれを持つ人間 Homo sapiens」としての扱いに依拠せねばならない。

例えば、その人が経済的に困窮(いわゆる貧乏や貧困)を「悩んでいるならば」その解決手段を示すなど、心の助けとしての宗教的美徳が必要ではないか?
「本人が嫌がるから無理」と関係者が決めつける場合はしかたがない。
本当の意味での思いやりは難しい。
「上下 up and down」や「強弱 strong and weak」なる社会的な区分を用いる場合は、二項区分の相互関係は現代において「中性化」の結果にかけての前提と思わねばならない;強者も弱者も互いの生き方を尊重していかなる者も人格的優劣を有しないこと。

この記事の文章が1万文字ほど書かれた段階で、少し歴史を調べてみようと思った。
Knowledge of the word spread after it was used in a 1999 report by the Social Exclusion Unit (SEU).[2] Before this, the phrase "status zero", which had a similar meaning, was used. Andy Furlong writes that the use of the term NEET became popular partly because of the negative connotations of having "no status".[3] The classification is specifically redefined in other local government papers, such as "respondents who were out of work or looking for a job, looking after children or family members, on unpaid holiday or traveling, sick or disabled, doing voluntary work or engaged in another unspecified activity"; the acronym, however, has no agreed definition with respect to measurement, particularly in relation to defining economic inactivity. Karen Robson writes that the classification has "virtually usurped discussions of "youth unemployment" in the UK literature".[4] Scott Yates and Malcolm Payne say that initially there was a "holistic focus" on the NEET group by policy-makers which looked at the problems young people went through, but this changed as the NEET status became framed in negative terms—"as reflective of a raft of risks, problems and negative orientations on the part of young people".[5] NEET figures for England are published by the Department for Education (DfE).[6] The methodology used in calculating the number of NEETs aged 16–18 is different from that used for those aged 16–24. The first relies on a range of sources, the second on the Labour Force Survey.[7]
— Wikipedia - "NEET". oldid=932830531. section "United Kingdom" ※同記事の導入部にNLFET (neither in the labour force nor in education or training) というものの例示もある。

SEU: Social Exclusion Unit (社会的排除ユニット) は、労働党トニー・ブレア氏がイングランド(およびイギリス連合王国–英国)首相になって間もなく内閣府の機関として設置され、SETFへの改称を経て2010年に別の機関へ統合されたとする。
"social exclusion" (社会的排除) の意味は各自で調べてもらえばよいが、ここで一点だけ言うと、フランス発祥 (exclusion sociale, 一説では1978年における Réne Lenoirの Les Exclus から) とされる概念であり、対義語に"social inclusion" (社会的包摂 Fr: inclusion sociale) がある。
SEUについての2002年の報道も以下に抜粋する:
The government has defined social exclusion as "what can happen when people or areas suffer from a combination of linked problems such as unemployment, poor skills, low incomes, poor housing, high crime, bad health and family breakdown".
[…]
The unit published a series of reports on five key issues: neighbourhood renewal; rough sleepers; teenage pregnancy; young people not in education, training or employment, and truancy and school exclusion.
The reports criticised the way central and local government had in the past failed deprived groups and areas.
They found there had been poor investment in measures to prevent social exclusion and little effort to reintegrate those who had become excluded through unemployment, homelessness and so on, while deprived areas had fewer basic services such as GP surgeries.
— The Guardian - "Social exclusion: the issue explained" ※太字は筆者による。政治で正しく解決されるべき課題として例示されていると思う。太字範囲でNEETのように略するとはNETEになってしまう。略語NEETはもともと無かった。大衆の中で略されて俗語的に用いられるようになった?略語でない表現として見た場合も、実は約5年前の1994年にウェールズの機関から Young People not in Education, Training or Employment in South Glamorgan という著書 (Istance, D. et al.; ISBN: 9780948935787) が発刊されている。

1999年の文書では彼らの経緯に基づく「目標 (the goal)」が示されていた。
目標は義務教育が満16歳であるままで18歳までの「2年間の教育(GCE A Levelなど。英語版Wikipedia"Education in England"oldid=941539934の節#Schools_and_stagesも参照)」を普及させることなどであり、pp. 102-104にはイギリスの16–18歳"not in education, employment or training"個人の3例 (‘Jenny’ age 17, ‘Adam’ age 18, ‘Lisa’ age 18) が挙げられる。
3例は、児童虐待やアルコール依存症や薬物依存症や少年犯罪や十代妊娠などの実例でもある。
「彼らが教育や勤労の社会的な手当てが無いと深刻な犯罪の実行または被害の恐れを持つこと」は、重大な懸念事項であるが、あくまでも労働党政府は16–18歳の教育の普及が目的であったようである。
日本とは、背景の事情や議論の対象が違っている、と読み取れる。
point, aim, goal... 読者にはうまく把握できるであろうか?
トニー・ブレア氏の署名が入ったページからの引用:
But we are now clear about the goal – higher standards of education for all, support for those who need it most, and an end to a situation in which thousands of young people are not given the chance to make a better life for themselves and a bigger contribution to society.
— Bridging the Gap: New Opportunities for 16–18 Year Olds Not in Education, Employment or Training; p. 7, July 1999

トゥーッカ・トイボネン氏 Tuukka Toivonen は2011–2013年のいくつかの文書にイギリス–日本の歴史の説明をした:
The emergence of the target group category NEET
 Bridging the Gap: New Opportunities for 16–18 Year Olds Not in Education, Employment or Training was the definitive report that all early Japanese articles on NEETs cited in 2003–5 as they sought to ground their arguments regarding this puzzling new phenomenon. The interesting point to note is, of course, that this document was issued by the Cabinet Office of the United Kingdom –with absolutely no reference to Japan– in the early years of the Blair era, amid growing fears over the ‘social exclusion’ of 16- to 18-year-olds and the UK s relatively low educational participation rates. Roughly a tenth of British youth in this age group were found to be inactive at any one time because of factors such as ‘educational underachievement and educational disaffection’ as well as ‘family disadvantage and poverty’ (Social Exclusion Unit 1999). Inactivity was found to be disproportionately concentrated among those from working class and ethnic minority backgrounds. Based on basic comparative indicators, the UK was indeed an outlier in terms of its low educational participation rates, especially at the high school (i.e. upper secondary) level: at ages 16, 17 and 18 the respective participation rates in the school year 2000/2001 were 86, 74 and 55 per cent in the UK against the EU-15 averages of 93, 84 and 74 per cent (Eurostat 2004: 30). Japan, on the other hand, found itself at the other end of the international spectrum, with 88 per cent of 18-year-olds graduating from high school in 2001 (Obunsha 2004), suggesting that, if there was a problem of exclusion among Japanese youth in the early 2000s, it was of quite a different nature. This striking structural dissimilarity made the transfer of this education-related policy concept from the UK to Japan all the more puzzling.
 What was missed by Japanese writers in the early 2000s was that the roots of the ‘NEET’ concept in fact stretched back much further. […]
— A Sociology of Japanese Youth: From Returnees to NEETs; Roger Goodman, Yuki Imoto, Tuukka H I Toivonen; 2012. ISBN: 9780203802076

現代日本で理解できる額面的な意味を、当記事で「本来の意味」として考える。
ニートの本来の意味"Not in Education, Employment or Training"は、任意の実在個人 (a real individual) の生き方を指す。
平叙文は: They are not in education, employment and training. He is a person who is not in education, employment and training. のように可能である。
しかし、人は単一の名称でその生き方の全てが叙述されることは無い。
通時的でも共時的でも (diachronically, synchronically)、色々な側面を個人の生き方に包含している。
例えば私は、絵や音楽や学問を個別にも統合的にも行って体系化を目指している。
「人間の行為は同じ人間に限られる」という出発点から、完璧主義ではない形で「一個体の人間の可能性 (possibility, not perfection) の追求」を意図してもいる。
故に、私は「誰かから十分に尊重される表面的理由」を有しているが、同時にニートという「誰かにとって名前だけで軽蔑すべき理由」も有している。
また、たとえ「誰かから十分に尊重される表面的理由」があろうとなかろうと、人の人としての生まれは、社会正義によって等しく人権 (human rights) がある、と私は「再往 profoundly」みなす。

※権利とは、社会を統べる立場(権力者 i.e. 三権)が民衆に等しく与える。義務 (duty, obligation) に関しては、権利とともに国民が負う「公共の福祉」という道徳的/倫理的な方針が原則である。日本国憲法第三章: 第十条, 第十一条, 第十ニ条, 第十三条を参照。「勤労の義務」は同じく第ニ十七条1項(権利と義務のどちらも示されるが「義務」は対応する1946年2月13日GHQ草案: 第二十四条などに無く後で社会党などの修正案を容れたもの。世界人権宣言: 第二十三条も権利しか示していない。失業に対する保護をするという権力者の義務の意味が強い)に示されるが、他の日本国の法令に特別な罰則の規定(比較には社会的な運用: 日本での納税の義務の具体的な法令と違反に対する検挙事例, ハンガリーのアレ, ベラルーシのアレ@がある)が無い以上は、「勤労の義務」を守っていない者がそれだけで非難される必然性は無い。なぜならば、非難することはそれだけの「公共の福祉」に関する目的性や正義感があらねばならないからであり、基本的人権 (fundamental human rights) を無いものとしてニートというそれだけの状態を理由に個人を非難すると、かえって非難の行為者の倫理的過失が露見すると思う。非難の内容によっては、侮辱罪の立件–訴訟または行為者の関係先への苦情から行為者が社会的な制裁を受けるおそれもある。念のために言うと、法学の話をしたかったり自己及び他者のニート状態の擁護をしたくてこの記事を私は書くつもりでない。「社会」という題材のために法律解釈を参考までに示した。

※蛇足になるが:「権利」の対義語として「義務」ということは、古代ローマから近代欧米を経て現代までに思想的伝統または転換点のようなものがあれば教えてほしい。日本人は全体主義的傾向からメディアなどによって吹聴されたことを受容した、と私は思う。加えて、「国民の三大義務」には明確な根拠が無く、通俗的な抽出の受容である。「三大」という修辞も日本語では恣意的な判断基準での認定(権威なき権威による認定。または言い出した人が参照されずに噂で伝播か)が多く(e.g. 世界三大夜景三大和牛中国語版Wikipedia - "分类:三大"なども参照)、例えばキリスト教"trinity", ヒンドゥー教 त्रिमूर्ति (trimūrti, trimurti), 日蓮系「三大秘法」、浄土系「浄土三部経」、皇室「三種の神器」といった宗教の教義–伝統から言われる名称とは異なる。英語の比較(似るか似ないかの参考)には北アメリカ「五大湖」(great lakes, five lakes), ビッグ・スリー (Big Three; 話題は多数)がある。世俗「三大」の修辞は、観光–ツアリズム、美食–グルメなどで調子のよい大衆文化と資本主義のポピュリズムの側面で言われやすい、と私は思う。ましてや「世界三大宗教(よく聞くものはキリスト教、イスラム教、仏教の3つ)」という呼称は、日本語–中国語圏の目線の反映が強く、宗教の多様性を損なう点で倫理的に問題である。

先の2, 3 のように「ニート」を「唾棄されるべきもの」として言うには、社会的すぎる実在個人である。
実在個人を離れるか、偶像化された(specialized, ステレオタイプにされた/アイドル的な)僅かな人物の例(e.g. マスメディア・TV番組で取り上げられてネットで知られた:ニート君と呼ばれた人、元自衛隊員のネトゲ廃人とされる人、2000年代のニートスズキ氏)をもとに「一般化」されてしまっている (generalized–objectificated)。
このことは概念の名称への偏見–バイアス bias の陥穽を伴う。
しかし、実際に私は私が求める「本来の意味」で指示されるべき実在個人を見ることが稀である。
「ホンモノのニート」は実際、インターネット上にさえも露出しづらいと思う。
すると、2014年に「ネイティブニート Native NEET」として「名目上の中学卒業」後すぐにニートになる人の「いわゆるニート」との差異を示すこと(cf. 参考リンク2014-10-10記事)もあった時の文章を私は連想する。

「ネイティブニート」の定義(the definition of Native NEET)とは、端的に言えば、不登校のまま義務教育を終えてニートになる状態(例えば私は中学途中から卒業まで不登校状態が続いてそのままニート)である(ネガティブと混同しないでね)。
即ち、高校中退以上の学歴は含まないし、バイト等の職歴がないことも大前提なのだ。
(中略)
結局、世の人間は、やれ騒ぐだけだったり、表面的な議論に終始したりで、もっと高尚な深遠な方向へと転換させるべきだが、不可能なんだよね。
それが出来る世間なら、不幸な命が今こんなにも増えるはずはないだろうし。
17歳の俺や、俺に類する「若き勇士・良識派ネイティブニート」が研鑽を進めて専門家顔負けの高度論文を出せばいいのだ。
インターネットネイティブの世代、90年代後半以降に生まれた純粋ゆとり世代は、娯楽や将来の夢の多様化と同時に、厭世的かつ現実的で金に貪欲な思考も強い、ジレンマの渦中にあるけど、その故に新人類として突然変異する私などがいてよいはずである。

そうと雖も、この記事を見てる人間に「良識派ネイティブニート」にあたる逸材がいるかという点に加え、縦しんば見てるとして彼らがこの啓発活動に与するものなのだろうか?
私のように相当の知力と相応の逆境に遭ったことに伴う反骨精神が必要だ。
私との集団性は持たない単独の活動いいので、とは思うけど誰もやらんね。
私を知らず偶発的に現れる、ということもなさそう

今日びのネットにおかれては、ニート界隈は逆に衰退の兆しも見せているし、ネットでニートの文字が書いてあれば前後の文章は押しなべてネガティブなものしかない。
これなら2010年までのニート賛美な時代(主にニコニコ等)が遥かにマシだった。
一般人というのは偏っていて、この時は好奇の目でそういった知られざる層に興味を持ったに過ぎず、今は逆に軽蔑しているといった心理現象なのだろう、儚いね。
※ホモを弄ぶ最近の風潮がそれで、実際に同性愛者を見たら「引くわー」とかと思い、抵抗があるのだろう。

こうなると、そのアイデンティティ identity を強めれば新しい人種 (race) としてのニートができる、と思う人もいるであろうが、人類学的に (anthropologically, n. anthropology) その生殖が続いていない場合はそうでない。
通念上、ニートを自負する個人の間で交際–性交–育児の関係を持つことは考えづらい。
また、そもそも多くのニートがニートであることに自身のアイデンティティを置いていないようであることも当時から観測していたし、2019年2月(2019-02-17記事)には「ひきこもり(引きこもり・引き籠り dim. ヒッキー)」をそうみなした。

「何かの名称による複数人の一括り(画一性)」を出発点に据えた研究は好まない。この意味で、現代学問や私の学究姿勢は個人主義的である。「引きこもりという名称の社会階級または民族集団」の傾向を統計的な客観性に見出そうとすることは望ましくない。引きこもり当事者も、多くは引きこもりの名に民族的アイデンティティを自覚していないであろうし、誰であれ、生活の特徴や引きこもるまでの経緯が人ごとに異なっているのだから。

ニートにしてもひきこもりにしても、社会が社会的に問題視して「社会病理 *sociopathy」などと決めつけるならば、その目的性で定義して確立(隔離 isolation =保護)せねば、疫学的に (epidemiologically, n. epidemiology) 救われるべき病人の救われる結果と健常者の罹患の防止とが実現されないのではないかと思う。
当然、社会や心理というものは定量的研究に欠けていたり、中途半端な実例に託して感傷的–センチメンタル sentimental, 感情的–センシティブ sensitive, センセーショナル sensational な推定をする傾向が強いことを私は少なくとも2015年から危惧している。
この方面は倫理を切り離すことができない。



「ニート」概念名称が日本の社会正義を試す機能 (competence of temptation?)

先の1, 2, 3 はいずれも非人道的である。
穢多・非人 (えた・ひにん eta-hinin) という差別 (discrimination) の観念がニート・ひきこもり (nīto-hikikomori) に移行している日本のインターネットの現状を鑑みる。
それらの用法は、しばしば「社会人 shakaijin」に対置している。
政治家よりも、中途半端な教育から「社会人」を階級のように濫用する日本の民衆に対して、思想や歴史に関する正しい理解が求められる。
一般的な左翼は政府や権力者を非難することを生業とする傾向にあるが、あくまでもニートは中道であることが望ましい。

「好き・嫌い」の気持ちが強いサブカルチャー(subculture, 文化研究での意味。サブカルという通称のようなアニメ系ポップカルチャーに限られない用語だがここでは実際にアニメ Anime 漫画 Manga, video gamesが近い)を介して世界中に"neet"(本来の意味を失いつつあるので小文字 minor scale 表記で可算名詞 countable noun に扱われる)の日本的な用法が普及しつつある問題も考慮する。
その用法の"neet", "hikikomori"も結局は日本系のサブカルチャーに近しい人(その他では音声学者 藤村靖氏の息子として私が知った日系アメリカ人–芸術家 Makoto Fujimuraについて参考リンク2019-07-15記事anchor#twitterに例示している)が用いる傾向がある。
enigmatic glossary: nolife, truNEET, hikikomoquoy…
英語圏を調べたい場合は: Reddit, 4chan (およびwarosu.orgのようなクローンサイト), YouTubeなどを対象にするとよかろう。

以下の記事は「ニート」の名称を挙げていないが、サブカルチャー性"subculturality" (詳細な区分に個人サブカルチャー属性 subculturalisticity) の有る領域での「用語法」を論っている。
人種・言語の隔たりを身近に感じづらい日本の9割の人やアメリカの5割の人(私の目測)では、「好き嫌い」の感情の発現を自ら認知して自制しない限り、「新たな人種差別」を起こしかねない。
2020-01-07記事: ジェンダー研究の例示(宗教学・社会言語学・美学・文化研究から)
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2020/01/gender-studies.html
ごく一部分の抜粋:
[…] そのように対比される主流の文化 mainstream culture や社会 society の尺度(ものさし)が前提にあることで、利用可能になる。どのような地域・文明の下にローカライズされた localized 多種多様のサブカルチャーがあっても、サブカルチャー属性・サブカルチャー性が普遍的–ユニバーサル universal である、と私は理解した。つまり、サブカルチャー属性の高い彼らは、それほどの深さで「夢中」である。 
[… 注釈の段へ] 
サブカルチャー界隈に聞かれやすい用語「にわかファン niwaka-fan」をめぐってかつてないほど人々が騒ぐまでもなく、その種の話題に関与したくないと2015年18歳当時でも思う。サブカルチャー領域に自由主義–リベラリズム liberalism の概念が定着しづらいことが2019年現在でも分かりやすい。 
[…] 
個人サブカルチャー属性の高さ(濃さ)の認知から、日本の人々は「-ファン」・「-サポ(サポーターの略)」・「-民(みん)」と呼んだり、侮蔑的に「-オタ(オタクの略)」・「-豚(ぶた)」・「-厨」・「-信者」と呼んだりするようになると考えること(これらは状況に応じて比較的やさしい表現にされやすい)も可能である。

韓国語(Korean 朝鮮語圏)のウェブサイト"Rigveda Wiki"(アニメファンまたはオタク otaku のコミュニティとされる) では、"Wiki Neet"というWiki編集者の一部に対する呼称(揶揄)があるとして英語版Wikipedia 同名記事に説明がある。引用:
(section: Wiki Neet)
This term is used to describe people who spend a lot of time in Rigveda Wiki. It includes people who think that they do not have any special purpose in their lives and spend their time just doing nothing.[8]
— Wikipedia - "Rigveda Wiki". oldid=932410316
この「人生の目的を持たない」と認知する行為は恣意的な推量であるが、後述の「インド在住日本人の例(2019-07-15記事anchor#twitterを参照)」と同じでアジアのネチズン East Asian netizine の普遍的な推論である。
余談だが、ウィキペディアン Wikipedian 全体または特定個人がしばしばニート扱いを受ける事情に近いものの、日本語版を含む多くのWikipediaは個人攻撃 (personal attack, 人身攻撃 ad hominem) としてそういう行為をしないようにユーザーに求めるガイドラインを掲げている(フリー百科事典を作る目的 WP:5P で)。
※この推量の前提にある軽蔑の感情を持つ人々にとって、高潔な意思や目的を持たないで社会人とされる立場になる人も多いと見られる側面は、しばしば無視される。逆に、無視しないときはその若い社会人をニート(ニート予備軍)扱いする詭弁が見られる。もし若い社会人もそういう高慢な「大人–オトナ otona」の言論を受ければ、彼らも同様の推量を好んで負の連鎖が起こりやすくなろう。職務の目的性を見失って愚昧な発言をして処分を受けるか謝罪を余儀なくされる「大人」の例(朝日新聞社員が匿名掲示板で「ニート」文字列を含む差別書き込みをしたことは「処分」の詳細が不明。執筆中の報道例:気候変動の運動に与する若者を指して「グレタ症候群 Greta Syndrome」とTwitterでツイート–発言したヨーロッパ委員会の人物でスタンフォード大学・応用数学修士号ほか経済学関係のキャリアを持つボレル氏 Josep Borrell が2度の謝罪をした by Reuters. 2020-02-10 9:42 PM JST)も人々は頻繁に聞くにもかかわらず、これにも盲目的でいる。Twitterでの数多の例を「バカッター」とラベリングする者もいるが、私は2012年からしてTwitterの情報発信の機能性と運用の実例から、個人の利用法とモラルの問題として考えていた。インターネットの書き込みは「便所の落書き」ではない、という信念もある。Twitterのツイートや2chレスやYouTubeコメント欄などに見るよう、高所得者(らしい)でさえも無自覚に低俗な書き込みをするので、「ポピュリズム populism」の性質の高低をここに見出す。サブカルチャー性"subculturality"の話題と同じく「有る・無い」の二項区分で語ることはできない。イデオロギーも学歴も職業も何も関係なく、「同じ人間」の悪い側面が現れやすいものとしての「ポピュリズム」という概念を設定しよう。「コメンティング・ポピュリズム commenting populism」、このインターネットに理性なきリベラル(商業的に用意された自由)の風潮が広がっても、直接民主制はかえって遠のく。誰かが行う動物実験にも似た社会実験と仮想できる。

一般日本人と彼らに似た人々は、「大卒(学士)」であってもなくても人権意識が欠如している(文明的な蛮族?)、と私は常々思う。
あえて言えば、当記事は「日本人論 nihonjinron」を含むかもしれないとして「大和魂によれば、実際の目的意識や使命感の有無と別に『目的』や『使命』という言明を好まない人も昔は多かったのではないか?」という側面も示唆する。
現代の「理知的なこと」に関して、私が常に短期的ないし長期的な目的性や物事の前提を重視していることは言うまでもない。

客体化 (objectification) の例として、非人間化 (dehumanization, 特に非人道的である方法を指す cf. 英語版Wikipedia - "dehumanization", oldid=934580252) がある。
それに近しいものとして「だめ–ダメ人間–駄目人間 dame-ningen」という属性 (property) の具現化もある。
これは奥手であること/弱気–弱腰であること/失敗を重ねること/奔放であることなどで悲劇的にまたは喜劇的に (tragic or comical) 表現される。
大衆文化 (popular culture) にそのようなものが多く見られることも社会不正の発現である、と考えることは可能である。
2020-01-07記事の注釈*2で、芸術とされる大衆文化の作品–メディア media への表現規制の話題を取り上げていることも参照されたい。
婉曲的には「デフォルメがお好きですね」と言っておく。

それでは、「ニートは本来イギリスの政府機関の目的から作られた概念–名称だ。現在に就職に関する領域から遠く多彩な活動をする横野真史があえて『ニート』を名乗ることは、必要な社会的議論を奪い取ること (to deprive) ではないか?」と、考える人がいるかもしれない。
私はただ15歳の名目上の中学卒業を起点に、「ニート」名称を慣習的に用いる。
あえて言えば、イギリスの義務教育–中等教育の終わる年齢から、高等教育までの間の2年の教育を普及させたい当時の英国政府(基本はイングランドとウェールズのみだが可能性としてスコットランドも含まれる)の思惑と異なって日本に輸入されてローカライズされた経緯こそ、日本人たちが2004年以降に「本来の議論を奪い取った–掠め取った」のではないか、と言ってみる。
日本国の厚生労働省による定義と、90年代のイギリス連合王国(主にイングランドとウェールズ)内で議論する対象とは、別個に考える必要がある。



個人的な来歴

中学2年生の期間(2011年3月以前)に一般化–客体化されたニート像(観念偶像)に便乗して一部インターネット利用者と同じようなニート賛美と軽蔑とを兼ねて行っていた。
面白いインターネットでの例は、杉田淳一(2009年に活動引退)氏のロート製薬替え歌 (彼がアンチであると糾弾する対象コメント投稿者への非難。ニコニコ動画sm7048577が発端で転載やMAD: sm7137881, sm11001992がある) である。
当然、自身がニートとなる可能性に自覚もあった。
不必要に軽蔑を行う人たちもそのような「コンプレックス」のようなものを持っている可能性が高いので、どんな理由であれ、感情が先行して不適当な侮蔑が行われることには自制心が求められる。

2013年7月15日に私は、当ブログの供給源であるLivedoorブログに「無職・ニート」カテゴリの新設を提案し、これが実現した。
間もなく、「自称ニート」が多くいる自体に気づいて問題視した。
そのうちには先の3 の用法も含まれる。
「問題視」の行為は節度を持つようにしていたし、2014年5月21日を最後に少ない頻度で行って終えている。
2013-07-20記事: Livedoorブログ、祝「無職・ニート」カテゴリ誕生!
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/29731210.html

5位も7位もブログ名がキモイ自虐を混ぜてるが、こういう自虐する人ほど集団で陰口したり、誰かや特定の性質を持つ人々を遠まわしに貶めるような陰湿で陰険な精根腐ったゴミばっか。
俺は一人で集団を叩いたり(この記事のように)、一人で直接悪口を言えるタイプの人間なのだが・・・
自分ことを落ちこぼれだのクソ女だのいちいち書いてる人は嫌いだね。

私自身が、普通の言動(つまりウケ狙いの演技など想定された状況を除く)から「ニート」や「ひきこもり」とラベリングされたことは無いが、そういう現象が2ch掲示板やYahoo!知恵袋やYouTubeコメント欄やニコニコ動画タグ–コメント弾幕やTwitterツイートに見られることに2013年(16歳)から嫌気がさすように感じた。
既述の通り、「匿名であるか顔の見えない他人」を相手にして彼らは行う。
私自身が「ニート」や「ひきこもり」を名乗りながら「意志による努力」や「意思による創造」ということを重んじているので、「ニート」や「ひきこもり」の非科学的かつ非人道的な適用を好んでいなかった。
同じような語句には「低学歴」や「童貞」や「ハゲ」や「ぼっち(友達いない)」も含まれる。
私はその全てでありながら、成績が優秀であったこと(現在も多言語を中心に意欲的な学問行為がある)と逆ナンやラブレターを受けたことや長髪であることなど、同カテゴリの反対の例を持つ(両面を持つ)と自負している。
男女 (male or female, gender) についても同じである(2020-01-07記事2020-01-30動画に筆者の写真と絵とそのジェンダー論的解説がある。他の箇所で仏典の男女観も示される)。

人は誰でも、他者によるラベリングで一方的に意思・意志が妨げられるべきでない。
ラベリングの思考が実際に進学・就職の際に妨げとして機能する場合もあること(事例としては人種を示す名前や性別を示す外見・情報で就業が拒否されるなど)が、現今の社会(日本や欧米を問わず多少の実例を持つ)である。
当然、私は進学・就職について「差別を受ける経験」を持っていない。

当記事の話題は単純に精神的問題である。
ニート個人がどう「他者が他者に対する醜悪なラベリングをしていること」を目の当たりにして対処してゆくかの問題である。
個人の尊厳と別に、インターネット上で他者が「醜悪なラベリング」をしていることは、彼らの悪しき行為として還元されるのみである。
主体と客体は唯一であり、客体化は、その主体に帰するのみである。
仏教やインド伝統宗教の典籍や、物理学者シュレーディンガー(シュレディンガー)さんのインド哲学を借りた発言 (一般向きなので例示 cf. Wikiquote - Erwin Schrödinger, oldid=2719916) を示唆するが、引用しない。
仏教やインド伝統宗教の典籍についての私の紹介は、興味のある人が探してみるとよい。
インド伝統宗教のうち現代ヒンドゥー教信者でインド在住日本人が、聖句"एकमेवाद्वितीयं" (IAST翻字: ekamevādvitīyaṃ) を知っていながら、ニート・ひきこもりの概念名称を「実在個人を除いた一般化で用いる」くらいである(参考リンク2019-07-15記事anchor#twitterを参照)。
方向の誤った客体化は、その感情の矛先が主体に帰する可能性が高い; 雷が高い針に迸るように。
これは、思弁哲学–形而上学的な話であるよりも仏教典籍のうち阿含経典–ニカーヤの道徳的な教義に近いと思ってほしい。



備考リスト

2020年2月26日時点で「備考」が7項目19015文字(最も簡易な測定方法による)が記されている。
当記事が長くなりすぎることを避け、分割で投稿する予定である。
以下は項目リストと項目別の語彙集 (glossaryと呼ぶ; lexicon や vocabularyでもよいが特に; index 索引については用法が活字の本と相違する) である。

「精神的日本国」 「日本語世界」とは?
glossary
: 仮想の国境, 個別言語, 母語のみ monolingual, バイリンガル bilingual, トリリンガル trilingual, マルチリンガル multilingual, polyglot, Douglas Hofstadter, パイリンガル pilingual, 円周率 パイ π, 数学史, デンマーク語, Caspar Wessel, 複素平面 complex plain, ドイツ語, Gauss ガウス, 複素数, 虚数 i, 言語学, 文献学, ラスムス・ラスク Rasmus Rusk, グリムの法則, Jacob Grimm, 墓碑, アラビア語, 祖国, ベルギー, スイス, アカデミー académie, ポスト構造主義, ポストモダニズム, 数学者–物理学者 アラン・ソーカル, 第一言語 L1, 媒体, ウェブサイト, 活字, 印刷物, 石碑, 文体, 日本語学習者, 精神的な国境, 誤謬, 化身, 英語島 (えいごじま, isola anglica), フランス語島 (ふらんすごじま, isola franca), モデリング, 主観性, 機械翻訳 machine translation, Google Chrome, 右クリックメニュー, コンテキストメニュー context menu, Google翻訳, ビザ visa , パスポート passport, 心のふるさと–故郷, 南コーカサス, ユーラシア, 近現代, 琉球語, アイヌ語, オスマン帝国, ギリシャ語, アルバニア語, ローマ帝国, 俗ラテン語, ケルト系言語, ブルトン語, 言語に関する空虚さの真理 linguistic emptiness, inefable truth, 聖者, 里帰り, 欲望と不快感, 言葉遣い, 心・仏・衆生=是三無差別, 十界論, 依正不二, 一念三千, 仏国土, 浄仏国土, 方法論, 教理, 対治悉檀, 応用 ,主流文化, スラング slang, ジャーゴン jargon, 借用 loan, 意味借用 semantic loan, 井の中の蛙(大海を知らず i no naka no kawazu, taikai wo shirazu), ガラパゴス Garapagosu, 用語法, ざんねんないきもの Zannen na Ikimono, "disgrace, misfortune; shameful, shameless", 身近な運動, ゴミ拾い運動, 心の掃除, 朱利槃特尊者–チューラパンタカ Cūḷapanthaka/チューダパンタカ Cūḍapanthaka, 掃㨹.

1 の用法の「ひきこもり」に対する適用
glossary
: 鎖国 sakoku, 島国, insular, 孤立 isolation, 日本史, 孤立主義 isolationism, insula, isola, island, isle, insulation, insulatio, iland, yland, ile, isle, *isula, Insel, 歴史学, 効果 effects, 平和, 近代化, 出版技術, 飢饉, 非科学的な用法, 妥当性, ヘイトスピーチ hate speech よりも悪辣な認知のゆがみ, 自虐, 幸福, インドネシア, モルディブ, スリランカ, 仏教, キリスト教, イスラム教, 伝播, 土着信仰–祭祀, 台湾, ハワイ, マダガスカル, ポリネシア, オーストロネシア語族 Austronesian languages, 比較–対照–対応 comparison–contrast–correspondence, 封建制, 封建主義 feudalism, 全体性–排他性, 寡頭支配–中央集権, 前時代的なもの, 象徴(代替–記号), プロパガンダ, 政治学, 中世ヨーロッパ, féodalité (feudality), 島国根性, 島国民族, 偏向–バイアス bias, メタ認知.

2 の用法の「ひきこもり」に対する適用
glossary
: 日本破滅, 亡国, 代名詞, 凋落, はぐらかし–ごまかし, 欺瞞, 客体, 自他の死, 日本人らしさ–日本っぽさ, 高尚な自殺, ゴーディカ Godhika–ヴァッカリ Vakkali と異なった無目的–無反省の自殺志願, 卑屈, 酔っ払い, public drunkenness, 公序良俗, 親孝行/親不孝 oya-kōkō/oya-fukō (filial piety/motherfu*ker, 親神教, 親神様信仰, 家庭内暴力, ネグレクト, 憎悪, 退廃, メディア, ニュースサイト, 見出し–サムネイルしか見ない層, 個別性 (individuality, individualness), 不幸自慢, 甘え, 相対性, 無慈悲.

3 の用法の「ひきこもり」に対する適用
glossary
: 元ひきこもり, 川崎市多摩区登戸, 通り魔殺人–自殺, 高齢ひきこもり, 岩崎隆一・故人, 養父母, ネット環境なし, 子供部屋おじさん, こどおじ, 換喩, 濫用, 精神的ダメージ, 指示対象の"you", the individual, 定性 definity, オンライン辞書, 世俗的な社会通念, 暗黙の了解, 特定個人 certain individuals, 自虐ムード, 自滅, 人間文明は常に反省すべき要因を備えていること, 精神の「貪–瞋モデル(欲望–不快感モデル)」, 希望 hope, 将来の夢, チャレンジ, 都市のホームレス, 山の仙人, 病で長らく臥す人, 強がり, 屁理屈, きれいごと, 覚者, 寂滅–平等, おちゃめ, イタズラ, 雨ニモマケズ, 自称社会人, 自浄作用, 汚物, 絶望, 汚物(糞尿)の構成物, 宗教家や哲学者の考えること, 演繹と帰納, 現実逃避, 不真面目, ナチスドイツのユダヤ人に関するプロパガンダよりも悪辣な認知のゆがみ, 呪詛, 「還著於本人」、「ブーメラン」、「人を呪わば穴二つ」, 生産, 労働, 多様性, 経済活動, 未来, 救い, 幼稚 childish, 同一徹, 妄想–空想のニートとひきこもりを俎上にのせた人種差別的言論, 人生の省察.

学歴議論–論争、高低の定義
glossary
: 学位 (degree, academic degrees), 修士号 master…, 博士号 doctor…, 「中卒・高卒・大卒」の三分法 (trichotomy), 学士号 bachelor…, 学業, 雇用, 懐疑, 低学歴 tei-gakureki, 慶應義塾大学SFC, 参議院議員, ニュー速, 文系–理系 bunkei and rikei, Fラン大学, 誤謬 fallacy, 学歴コンプレックス, 超克–克服, 特権化 privileging, 論点のすり替え, ad hominem, missing the point in a certain context without gakureki topics, いたずら, 無教養, 科学的思考, 修士課程, アカデミズム académisme, 不登校, レトリック, 小卒, MIT, Oxford, 精神分析, 防衛機制, 高学歴.

不当な一般化–客体化がされた他の単語例
glossary: 病気–疾患, 医療行為, アスペ asupe, アスペルガー症候群, 糖質 tōshitsu, 統合失調症, 池沼 chishō, 知的障害, ガイジ gaiji, 知的障害児, 新語 neologism、 略語 Japanese abbreviation words, 反社会的運動, 暇人 himajin, パウロ, 2 Thessalonians 3:10, 働かざる者食うべからず, ことわざ, 共産主義, レーニン, 換骨奪胎, "Кто не работает, тот не ест", 助動詞, 釈尊.

行為と認知的階級の関係性
glossary: 認知的階級 *social class by cognition, ピラミッド, 正社員, フリーター, ヒエラルキー, nativus, natus, カースト caste, 古代インドのそれ–四姓 (ヴァルナ varṇa, Pi: vaṇṇa ), パーリ仏典, リグヴェーダ10巻90章, 婆羅門–ブラーフマナ brāhmaṇa ब्राह्मण  ブランハナ バラモン brahmin, 梵天 Brahmā , 原人プルシャ Puruṣa, 梵天の足から生まれた者 bandhupādāpaccā, bandhupāda, 民間語源 folk-etymology, 原始ジャイナ教, 梵行, 金剛針論, アングリマーラ, シュードラ, チャンダーラ, 再生族–ドヴィジャ, 古ウパニシャッド, 輸提尼, 拉致. 刹帝利–クシャトリヤ kṣatriya (क्षत्रिय Pi: khattiya; En: kshatriya), サナンクマーラ梵天, サナトクマーラ, マハーバーラタ, アンタッチャブル, 社会的構築 social construction, 認知的構造 cognitive structure, 三宝.





記事末尾から上げて「あとがき」

民衆は民衆で好きに騒ぐものなので、それらを「子供」とみなす主体側がどれほど大人でいられるか、それが実在ニート–ひきこもりに求められることである。
一歩進んでみると、「子供」とか「大人」とかの何らかの判断基準による価値判断を関係させずに、自覚–反省–努力の心を重んじる。

大衆を変える運動は、上流階級の一個人の意思でさえ実現された試しがなく、個別の運動の例はいくらかの限定的な効果しか挙げることができない。
往時の「宗教の開祖とされる誰か」が現代までに最も大きい影響を持っていると思った方がよい。
この故に外的なものの状態を変えるよりも、まず自身が変わることをいつも先として言う。
ただし、日蓮系の「無宗教・非無宗教」の進行の実践をした私にとり、日蓮大聖人がどこまでも末法の衆生に関して「折伏 shakubuku」の立場を重んじていたことはしばしば回顧されている。
自身の努力を重んじつつ、せめてもの「折伏」を望む私でもある。
当然、自他の「貪–瞋」を除こうと願う「慈–悲」を前提にせねばならない:

釈尊とは、慈悲を以て種々に法を説かれたろう。
慈悲・方便の故に自在に説法をなしえる境地を、数多の経文より学んだ。
経文の中では間違いなく、「神通力」を行使して会座にある衆生にも会座にない衆生にも妙法を聞かせられる(三十二相には"大舌相・広長舌"が示されることも光明遍照の如き慈悲を顕現する)。
それでは、斯様な言説をなす徒輩もまた、内心は慈悲の故に鉄面皮の如き言説をなし得ようか?
ああ、他人の心を推し量り難いから、既に言語の道が断たれた。
経文の中では間違いなく、「他人の心が手に取るように分かる」という神通力を行使して円滑に教説をなし、対告衆を歓喜させ、滅後末世の私にまで及ぼすわけであるが、実際の人間は言葉で感情の一致や理解が確認できても、真に一致や理解があることはない。

しかし、「彼らの内心が慈悲でないときになされた言説である」という傍証を挙げられる。
(中略)
その宗教団体の教義についての論駁に徹し、その宗教団体(≒カルト教団)に所属して苦しんでいる人への心のケアみたいな方面は当然なく、ただ宗教団体への憎悪・驕慢の心で行っていよう。

宗派の教義の非合理性(漢訳経典の誤訳や祖師僧侶の誤解やオカルト的な伝承など)を仏教学的・科学的観点で云々することは、それもそれで多角的視点の意義においては尊重できるが、その論難自体は人の信仰を否定せんとすべく発せられた、邪悪なものである。
ただ「人(自他)の心」も知らず、自身の良心をも失う勢いで情報発信しており、発言者自身を頑固にしかねない。
信仰及び、主観性の立場では、まったく、多くの教えは解脱の道であることを知らず、また、あえて菩薩行として自身の奉じる教えを弘めて折伏を為す人々に、仏教の修行と無関係な横槍を入れる(学問的論難など)とは、愚の骨頂であろう。
無論、そういった信仰の立場にある人々が、私ほど包括的理解や尊重の心ありきで、あえて自身の奉じる教えを弘めんと折伏しているか、不明である。
妄信者も不信者も、二元対立に陥り、中道ならざる境地で「苦しみの道連れ」を行っている。
不信者・無宗教者による宗教団体への論難は、「正しい仏道へ導く慈悲の行い」ではなく、悪道輪廻の黄泉路に誘い込んでいる。
(中略)
他人の心は推し量り難くとも、私のように「そのような言葉遣いや、驕慢の心による論難が、最終的には堕獄の悪業(死後にある地獄の説を虚妄と思う人はそれでよいし慚愧を覚える人は現世が地獄のように思うからこの意味での堕獄は有り得る)となろう」と自他の三業を悩む道心のある者に、大乗・小乗経典の仏教を広く見聞してもらいたい。
非力の私からは、よき経文もろくに提示できない。
非力とは何か?集中力「禅定」に欠け、言葉の記憶能力や感受作用にも欠け、「鈍根」であることを示す。
そのために、何ら、経文の提示ができないと自ら恥じる。
しかし、一つだけ載せる(以下は今までの性善説というより性悪説のようなもの)。

Purisassa hi jātassa, kuṭhārī jāyate mukhe; Yāya chindati attānaṃ, bālo dubbhāsitaṃ bhaṇaṃ. (Sutta Nipāta 3.10 Snp. スッタニパータ)
世間人輩當生時 舌頭自然出斤斧 所謂口中説惡故 還自損害割其身 (起世因本經)
訓読: 世間の人輩(にんばい)当に生ずる時、舌頭(ぜつず)自然(じねん)として斤斧(こんぶ)を出して、謂う所の口中(くちゅう)悪しきを説くが故に、還って自ら損害して其の身を割るべし。
現代語訳: 人間は、世に生を受けた時から舌の先端に斧が付いている。悪口を行う結果、かえって自身を引き裂くのである!

※漢訳阿含経典類・法句経・大智度論には"夫れ士の生まるるに、斧・口中に在り。斬身の所以は、其の悪言に由る"という偈が載る。このような悪口妄語の人が地獄に転生して長く諸々の苦を受けるという説を受けて大智度論では、人に生まれ変わっても苦悩が付きまとうという。法華経譬喩品に十四誹謗・正法を信じない人の果報(2016年1月23日記事・注釈6)が説かれるが、物事を考え直すと大智度論と同じ趣旨とも言える。キーワードは「人不信受(自分の言葉を人に信じてもらえない=私のこと)」か。この教えを見聞して慚愧の念(自覚・反省・努力)を生じた人は、仏の信仰を確かにして自己の身口意をよく調伏しよう。仏は非の打ち所がない人格完成者であり、正しく信ずれば自己の人間的な完成に繋がる。 

そんな私でも、なんとか「人の心(善良さ)」・・・「人の心とは所詮、進化の過程における功利性と防衛本能を根源とした結果に過ぎない」とかと思っても構わない。
とにもかくにも、「人の心」による、理性を打ち破る作用(良心の呵責)を感じ取り、自ら尊重することで他者と融通できるようになってもらいたく、様々な場面で説いてきた記述をご覧になってほしい。
「願作心師・不師於心」、能く心を調えて御せられんことを・・・。

引用 <blockquote> 範囲は2017-04-21記事『形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理』である。
本文で「仏教やインド伝統宗教の典籍 […] を示唆するが、引用しない」とした部分で想定された仏教典籍の一つ(パーリ経蔵–小部–スッタ・ニパータ3章10経1詩、相応部–梵天相応6.10経1詩および多数の阿含経典パラレル偈)が以上の範囲に載る。
同じ仏弟子の間で中傷を起こそう者は、彼自身の悪業として還元されるし、釈尊も梵天もそれを何度も戒めていたが、結局、改心せずに地獄に堕ちる者(倶伽離–コーカーリカまたはコーカーリヤ。過去記事に詳述の例あり)もいるという例を含んでいる。
あえて言えば、釈尊や梵天は「親の慈悲で兄弟喧嘩を鎮静化させたい」のではないか。

仏典を重んじるように、私は私が褒められるために活動しているわけでない。
軽佻浮薄の毀誉褒貶は当人が善良でない感情を持っている状態で行うならば、それ以上の文明的価値を持たないことを私は知っている。
cf., 2015-02-05記事『「独学孤陋」・・・邪説の摧破は誰が為ぞ
2017年にはそれまで面識が無い一人物が私の前に現れ、私を「他のひきこもりに無いぐらい賢い」と褒めた後に私からの「学問的な善意による批判」を受けた後、悪態をついて投稿物に「幼稚な非難」を書き始めたように、実現されている。
私はコメント返信を敬語で行うことが2013年以降基本的であるが、彼を含むいくらかの人は敬語で行わない。
cf., 2017-03-15記事コメント欄、観萌行広要①・・③コメント欄(合計は記事や動画のコメント欄換算で10件ほどある。うち承認制コメント欄では公開されていない個別のコメント2件ほどを含む)
当時の抜粋:
>幼少の頃の親御さんの教育
そうですね、それだけでは良いことの成立が有り得ないという旨が記事の後半に書いてあるはずですが。
(中略)
私は釈尊が出家せられた経緯とは異なりますが、このような方ですら道(世間の苦から解脱する道・人を導き入れる道)を求めて世間の生活や名誉や財産を捨てます。
世間の善業を勧める自己の想念を、悪魔ナムチ(ナムチー)に譬えて自ら打ち破る話がスッタニパータにあります。
あなたのようなナムチのような言葉で「たぶらかし」を行う人は多くいます。
現代、世俗の道にしか多様性は認められませんか?
個人主義の時代でも、まだこのことに疎い人が多いようで、現代日本人は社会のしがらみ・妄執が強いようです。

彼が「唾棄されるべきもの」だと私は言いたいのでなく、個々人が善良でない感情を捨てて自ら行為を正してほしい(自覚–反省–努力)、と言いたい。
自ら恥じる心(発心とも言おう)が無いと、それは「救いが無い」と量られてもしかたがない。
参考リンク2014-10-22記事に示される人物(曹洞宗系の禅を尊ぶ者)が「放逸–サボり」の象徴として挙げるニートや社畜だから「宗教的な救いが無い」ということではない。
心における出発点が人々に必要ではなかろうか?
読者には、学習の方法と実践を学び取ってもらいたい。
私は学術的言論と社会的言論と教育を同時に行うための書式で、この記事をも記述している。

世間の学問やスポーツは「実践する個人が大成するか」という意味で狭い専門性を現代までに獲得している。
例えば、スピードスケート選手がスキーに転身しても後の大成が無く、量子の物理学者が心理学に転身しても後の大成が無い。
「特殊な経歴」のハイライトや「多才かもしれない」という名声がよいところである。
しかし、意思によれば、私はニートであると同時に音楽家でもあり、画家でもあり、他の全てでもあり、大成によるカテゴライズを受けない。
そう言われるとき、世間の人は普段「専門性は視野が狭いこと」だと言いながら「狭い専門性は素晴らしい/社会の発展に有益だ」と感じる。
実にひねくれており、彼らは普段「一往–再往 (superficial, profound)」、「多面性 (diverse nature, more-than-duality; 右記は使用不能: versality, multidimentionality)」などを考慮しない。
広いも狭いも、感情的に善悪が与えられている。
つまり、私は広くも狭くもある。

広い思考も狭い思考も、条件によって「この世の無価値さ」についての結論を与える。
やはり、「虚無ならば『生きている自己=心』は何か?」とするときに、自覚のある個人の努力のみが尊いことの止揚–アウフヘーベンがある。
ニートは平等に真実を見ることもできる。
思考や視野が他人によって社会的に測定 (measurement) で計量されることは非人道的である。

日本語を乱すことは、精神的日本国を乱すことに等しく、ニート名称の悪用者は国土壊乱者と判断されよう。
私自身もさまざまな陥穽を伴うが、ニートを名乗ることが「必要な社会的議論を奪い取る」という問題意識から名乗る行為の再考をしよう。
「在宅・無収入かつ学問や芸術や倫理に関する社会的な活動を行う私」の代替表現があるとすれば、最近日本で話題の「無給医」の問題が想起されるし、同時に、「中国の新型コロナウイルスの感染症–肺炎に関して初期の情報発信を行った医師の1人が自身もまたその肺炎で亡くなったこと(人物名は李文亮)」が連想される。
よって、「在宅の無給医」がその代替表現に適しているのではないか、と私は思う(これも不適格か)。
新型コロナウイルスによる感染症の報道の後で、疫学的な知識がもっと知られる努力が人々に必要ではないか?
参考リンク2020-01-18記事から引用:
そうした時に悪いレッテル貼り–ラベリングによる「誰かが弱者とされてしかも抹殺されること」が無くなることを私は望む。
弱者は情報弱者も含めて、社会的に救済されるためだけに「弱者」と言われるべきである。
例えば、災害の時に情報を上手く得られないか誤った情報を受け取る人も情報弱者であろう。
一人の死者でさえ大事である、とは民主主義国家の政治家の信念でもある。
もし任意の弱者が弱者と認知されれば、すでに社会の相対性に位置していて社会的存在であり、論理や精神での抹殺は非人道的である。
いかなる人も抹殺されないための努力が、各々の可能な形でされねば平和に遠い。
私は救世主になれないが、この趣旨を心から言うことはできる。
とはいえ、この言明には多くの陥穽が伴うこと(利害関係)も注意しよう。

「ネイティブニート」についても、全くイギリスで当初の問題として考えられた"young people not in education, training or employment" (本来は略語なし originally no abbreviation) と目的性が異なり、「議論を奪い取る」かもしれない。
義務教育の終了–修了(e.g. 日本国における満15歳/不登校の有無を問わない名目上の中学卒業)を起点として社会的アクティヴィティ (activity)–キャリア (career) が欠けているという事実性から"inactive after compulsory education", NEETのように略して"IACE" アイエースとでも呼ぶ。
代替案で"careerless after compulsory education", NEETのように略して"CACE" ケース。
このような略語は俗語的であれば、冒頭に記された「それが闘争の道具やファッション的な装飾としてではなく社会正義 (social justice) に基づいて社会で有益に機能することが志向されねばならない」という趣旨が想起される。

何度も趣旨を示したように、ただ現代文明の人々に科学的思考と最低限の正義感と努力の精神性を意識してもらいたいのみで、「ニートに市民権を与えよ」とか「ニートの雇用を助けよ」という意見を私は持っていない。
また、革命を起こす必要を感じないことは2019-08-19記事で示されているし、民衆を変革させる可能性は無に等しいと知りながら意思による自発的な努力を重んじる姿勢も当記事や2020-01-07記事で示されている。
過去に幾度と示す譬えでは、精神と行為の関連についての「大洋の航海(または五里霧中の地)でコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)を見ること」(2016-09-21記事12-20追記2019-05-16記事)がある。
「自分と自分に関わる他人にとって最も好ましい結果を得ることが何か」という目的性のコンパスから、正しい判断があることについての人間的な信念がある。





参考リンク:記号論関連(分野自体の実践は無い)

2017-08-10記事: 仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/buddhist-dharma-and-social-law.html
紹介: 「仏教でも政治でも『仮の自己』を定義する」そうで、仏典の説と一般に知られた科学的見解とを示す。「同一性は無い。0.001%ないし99.999%以上の『相似性』しかない」という「詭弁・戯論」と思われそうな論証をしつつ、その後でも、同一性が無いことを完全に証明することはできないとしている。「文学作品」で譬える中で、この記事での言語記号と近しい話題のために音声学知識が披瀝される。なお、ソシュール名義の著作、一般言語学講義において「音声学/音韻論の原理"Principes de phonologie"」という項目は設けられていた。

2018-08-08記事: 英語・ラテン語・梵語に見られる関係代名詞の構文(虚辞・相関)
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2018/08/indo-european-correlative-syntax.html
紹介: 言語に造詣が深いパース氏や言語学者ソシュール氏が多かれ少なかれ学んでいたろうラテン語と梵語(サンスクリット語とパーリ語を含むブラーフミー系またはインド・アーリア系古典語)の文法を説明する。日本語の文語体によせて「新言語・漢文の訓読の結果に精錬されたものである。言語を記号的に用いる・仮定的に用いる前提においては、なおさら柔軟に日本語を論理的・弁別的な言語に擬して用いることもできる。とはいえ、それは、そういった理解の仕方ができる人(心を読める人、仏のような人)や、共通目的における承認がある場面にしか通用しないであろうし、私の活動では常用できない」とも言う。

2019-01-08記事: 究極の主観性・客観性と、入れ子構造の共通主観性(限定的客観性) ~言語・美術・音楽・宗教から
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/01/consubjectivity.html
紹介: ソシュール氏の原典から記号 (sign) に関する基礎概念の、簡易な紹介あり。

2019-05-16記事: 科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/05/glossaria-scientia.html
紹介: パースの記号論やソシュールの記号学 (semiotics, semiology; 訳語はそれ自体が記号だが一応) について、最小限の言及あり。

2020-01-18記事: "une équation sexuée" 性化された方程式とは?珍説の考察
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2020/01/une-equation-sexuee.html
紹介: ソシュールの記号学(彼のシニフィエ–シニフィアンが精神分析学者ラカン Lacan にシニフィアン–シニフィエとして応用された例を含む)についての簡易な言及。2016年以降の私の言説と、当該記事の本題にあるポストモダニズム系統の言説の相違点を考える。ソーカル氏やチョムスキー氏を引き合いに出し、「科学と正義」の話題もある。



参考リンク:ニート関連

現在の活動の方針と符合するものとしてではなく、あくまでも記事の理解の補助として「任意の客体Xについて任意の考え方Yで任意の表現Zが可能である (possibly/approximately)」ことの実例を学び取る目的がある。
過去の私の発言の参照源として公平に機能させる意図がある。

2012-04-01動画: 今日から無職の15歳 ゆとりのニートアピール
URL: https://www.youtube.com/watch?v=zXbD89b9UwY
紹介: 名目上の中学卒業を起点としたニート宣言。

2012-09-27記事: 中卒 ニート 引きこもり 黒髪ロング イケメン 画像
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/18249423.html
紹介: 「ニート」と「イケメン」の客体化の例。当時の「インターネットの空気に溶け込む目的での大衆的な言葉遣い」に注意。

2012-12-03記事: 成績優秀でも、人間関係に失敗して低学歴の中卒ニートの男
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/20820284.html
紹介: 受けるいじめについて、自己分析を含む説明の初期の例。

2013-04-21記事: ニートは底辺かもしれないが、ある意味貴族?
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/25916619.html
紹介: 当時にあえてニートの細分化–類型区分を望んで「貴族型ニート」と「底辺型ニート」と「ネオニート」の3つ示しつつ、うち前2つについての説明をしている。また、2つの属性として世間で連想されそうな語彙が最後に付録 (appendix) 状に羅列される。

2013-07-20記事: Livedoorブログ、祝「無職・ニート」カテゴリ誕生!
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/29731210.html
紹介: 2013年7月15日に私はLivedoorブログに「無職・ニート」カテゴリの新設を提案した(後略)、とする趣旨の本文を参照。

2013-10-22記事: 俺はキ○ガイ治安劣悪・豊川市民の継承者か?
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/33267772.html
紹介: ニート実在個人の例示。当時の「インターネットの空気に溶け込む目的での大衆的な言葉遣い」に注意。

2014-02-18記事: 絵の練習・落書きなど。もっと描かないと。。。
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/36454445.html
紹介: 私が創設の機会を作った『Livedoor「無職・ニート」カテゴリ』のブロガーを含む無職とされるネット上の人物の日記–ブログをウォッチするスレッドが2ch掲示板にある。そこでは以前に私の話題が無くも、俄かに私を真似しながら嘲笑を誘う演技をする人がいた件の紹介。現場へのリンクが載る。

2014-10-10記事: ニートの新世代「ネイティブニート」を提唱!
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html
紹介: 当記事の本文で一部引用。

2014-10-22記事: 特定の層を卑下して驕る者 "驕慢の沙汰"
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2014/10/blog-post_22.html
紹介: 人種差別似の–侮蔑的な意図でラベリングをする人の例示。

2014-11-03記事: 謙遜と嫌味の区別 - 自己紹介で自分を謙る表現の御法度
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2014/11/blog-post_3.html
紹介: 自己紹介におけるラベリングの地雷の暴露。論理の形式として「○○しない××な人間」という自己紹介文を「お前は○○しない××なヤツなんだ」に言及方法を変換するなど論理学的な方法論が見られる。後日追記の部分にニートに関する言及がある(17歳・中卒・血液型B型・埼玉生まれ・ニート・ハゲあり)。当記事と同じく、当該記事の作成経緯は「たまたま虎穴に入って虎の子を得たように、こういった記事を作られる」と記されるようなもの。

2018-01-21記事: 道心あるニート・引きこもりの修行における障壁
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/neet-hikikomori-shugyo.html
紹介: ニート・ひきこもりの宗教的な立場を説明。デジタル人文学 (digital humanities) の奨励。2018年1月2日に本家ブログで先行公開される。

2019-07-15記事: 科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/07/arts-neet-hikikomori.html
紹介: ニート・ひきこもりのリベラルアーツを説明。デジタル人文学の奨励。








最近のメモ帳更新一覧
2月29日 https://lesbophilia.blogspot.com/2020/02/leap-year-2020.html
3月02日 https://lesbophilia.blogspot.com/2020/03/plus-feb-2020.html

最新投稿動画
3月05日 https://www.youtube.com/watch?v=slHAK2zPIh8

最新音楽動画
上掲3月5日の動画は音楽をテーマとしている。



起草日: 2020年2月8日

本来はここで「あとがき」を書くつもりでいたが、上部に移動した。

学術的メモ帳の記事と同じように「起草日」の表記をしてみる。
起草日から投稿日までの「空白に見える期間」は、目安として初めの3日以内に最低限の状態まで書かれ、残りは校正や思い付きの加筆や「いつ・どのように投稿するか?投稿によって公開されることの過失は何か無いか?」といった考察に費やされることに偏る。

「備考リスト」の記事は、同時に投稿する処置である。

執筆中、とても耳にしたろうニュース–報道に、新型コロナウイルスと感染症COVID-19(coronavirus disease 2019, 肺炎を含む症状群)関連がある(日記メモでは2020年1月31日2020年2月2日に言及、ただし母親と弟の話から間接的に示される)。
当記事では、「疫学」ということを2度・言及した(社会病理という奇怪な用語に尊重を示す文脈と言語の破壊的用法に対して問題視する文脈)中でその話題を引き合いに出した場面(後者)がある。
これに限らず、比較的起草日に近しいイベントへの言及を含んでいる。

当記事の題にあるような「記号論・記号学」という呼称は、分野名自体を指すと考えづらい。
パース氏とソシュール氏の名称のどちらの意義にも必ずしも合うものでないし、"semiotic studies"の意味でもない。
ここでは"semiotic analysis"(記号論的分析)という意味であると決定してトップ画像にも反映する。