NEET-semiotic-analysis

主記事「ニートの記号論・記号学で社会正義の程度を判別する」から分割して投稿する。
備考7項目に加え、主記事に同じ参考リンクを掲載する。

  • 「精神的日本国」 「日本語世界」とは?
  • 1 の用法の「ひきこもり」に対する適用
  • 2 の用法の「ひきこもり」に対する適用
  • 3 の用法の「ひきこもり」に対する適用
  • 学歴議論–論争、高低の定義
  • 不当な一般化–客体化がされた他の単語例
  • 行為と認知的階級の関係性


前回の概要:
およそ成人年齢に達した誰もが「肩書の名称(仮名–ラベリング labeling)」を使用することは、それが闘争の道具やファッション的な装飾としてではなく社会正義 (social justice) に基づいて社会で有益に機能することが志向されねばならない。
そこで、私は「ニートの記号論」を説明する。
この目的は学術的であるよりも社会的である(物事の本質的な善悪が無い立場よりも正義感に依拠する)が、学問の知識が基盤になる。
大衆的な導入として幅広い説明がある。
題材は現代日本語に制約される精神的日本国だが、比較のために多言語である:

「ニート」の多義性
本来の意味 (original meaning) と、侮蔑的な意味合い (pejorative/derogative sense) とがある。
後者の意味合い(確たる定義の無いもの)を3つの用法に大別し、概念と名称と指示対象とに関する客体化 (objectification) を考察する。

「ニート」の本来の意味の運用性
"Not in Education, Employment or Training"は実在個人 (real individuals) の仮名であるのみで他に付加される要素は無い。
あれば、それは社会正義のためにのみされねばならない。

「ニート」概念名称が日本の社会正義を試す機能
穢多・非人 (えた・ひにん eta-hinin) という差別 (discrimination) の観念がニート・ひきこもり (NEET-hikikomori) に移行している日本のインターネット(および日本系サブカルチャーの世界展開:英語圏や韓国語圏など)の現状を鑑みる。

備考 ←当記事の掲載対象

記事末尾から上げて「あとがき」

参考リンク



備考: 「精神的日本国」 「日本語世界」とは?

現代に学問を見ると、個別言語によって仮想の国境が築かれている側面を私は感じる。
これは情報の技術的な流通の可能性を妨げることよりも、情報の個人の受容に関わるものとして私は言う。
任意の個人の個別言語の理解の範囲で情報の受容と活動の範囲とが制約されることである。
個別言語の理解の範囲には:母語のみ monolingual, バイリンガル bilingual, トリリンガル trilingual, マルチリンガル multilingual, polyglot, 更には学者 Douglas Hofstadter のいうパイリンガル pilingual (円周率パイ π 3.1415…に由来) などがある。
学問に関しては、数学史の例で1797年のデンマーク語で書かれた論文に示される Caspar Wessel の複素平面(今の英語で言うとcomplex plain)に関する発見は長らく他の言語を主要に用いる学者たちの知るところとならず、同じ発見がドイツ語やフランス語の使用者(Gauss ガウスら。複素数や虚数 i に関して浸透しづらい時代背景もあったので単純に見ることは難しいが)から独立で後から報告されたものが広く知られること、などが見られる。
言語学–文献学の歴史にも、ラスムス・ラスク Rasmus Rusk のグリムの法則と同様の発見を先に示したデンマーク語の論文は、グリム Jacob Grimm (童話で有名なグリム兄弟の兄) の報告よりも知られなかった(ラスクの墓碑はサンスクリット語やアラビア語など多言語で書かれるが母語または祖国の重要さを示す文言"Vort Fædreneland skylder man alt hvad man kan udrette."がある)。
現代の面白い例は、フランス語圏(ベルギーとスイスを含む)のアカデミー académie が20世紀後半に成熟させたポスト構造主義やポストモダニズムに関する思想などが、フランス語圏のコミュニティの特徴と人気を持っていたことではないか、と私は感じる。
ポストモダニズム系の用語法や主張などに関して批判した数学者–物理学者のアラン・ソーカル氏が先に書いた「デマ論文 "Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity"」の参照 (Works Citedリスト) は、原典フランス語文献のかなりの数で英語訳に依拠していた(2020-01-18記事 注釈 *3, *4 に説明。原典フランス語の参照はあくまでも語彙までになる)。
学問の話に関しては、精査しきれないので、確認可能な事例を挙げるに留める。

インターネットの普及とウェブサイトの増加に関して、大衆的に、インターネットの利用者たちは、各々の便利に用いられる個別言語 (特に母語–第一言語 L1) の領域に、無意識にこだわっているようである。
または、その他の言語による「思考」「調査」「議論」、いずれの手段でも積極的な使用に頓着しないようである。
求める情報が異なる言語でどのようにどれほど多く説明があるか、とはなかなか考えないので、これが「情報弱者」の側面になるかもしれない。
これらの意義で、個別言語は個人の行動範囲を制約する。
※場合により、口語的なものと文語的なものの区分で、人々を見ねばならない。ポップな印象のウェブサイトに展開される情報が基盤とする言語は、たとえ同一の個別言語に認定できても、口調や文体と呼ばれるものが多様である。使用者個人での好みにより、言語化された情報の内容ではなく情報の媒体(e.g. ウェブサイト、活字と言われる印刷物、石碑)や文体が選択されることになる。換言すれば、日本語学習者が学術目的で最低限「便利な」日本語を学ぶならば、彼らにとって敬語や口語を含めた「マスター」はかなり難しく感じられ、まずは距離を置くであろう。
個人が複数いる場合に、その関係性で同一の個別言語の適用範囲が「精神的な国境」を形作っている。
これは個人の目線にとって、使用可能の個別言語ごとに自由な往来が可能である。
こうすれば、「日本人という名の日本語を使っている者たちが○○だ」という民族差別の原因になる誤謬を伴いかねない説明よりも現実的に「日本語を使う人々が○○だ」と説明できる。

インターネットが仮想された空間であり、そこに我が身(肉体と異なる意味で化身と呼ぶ)を置く後、どのような空間かを描写する。
インターネットは海も山もない平坦な陸地とも、無数の島が浮かぶ大海とも描写できる。
後者によれば、英語には英語島 (えいごじま, isola anglica; 文化的には英語と僅かなスペイン語許容のアメリカ合衆国の島 isola americana or isola di usonia)、フランス語にはフランス語島 (ふらんすごじま, isola franca) がある、と私は思うことがある(ラテン語とイタリア語を混ぜた定冠詞の無い名称を含めて趣味の悪い空想だと言われそうだが、私は自身の感覚を示した)。
※合理的モデリングには isole (islands) 散在モデルや、浅瀬=架橋モデルもある。または、客観的な要素からモデリングせず、言語の使用者の個人の活動領域や主観性を島で比喩的に表現するに留める。そうであれば、ほとんどの人は使用可能な言語の領域が陸地で海の移動に自由が無く、島の名は言語名(e.g. 先の anglica)または多少のバリエーション(流暢でなくとも辛うじて用いられるか関心が深いなどに依る; e.g. 先の americana)が可能なものでありえる。
機械翻訳 (machine translation) に関して、2011年から私はGoogle Chromeの右クリックメニュー(コンテキストメニュー context menu)で多言語のサイトの簡易Google翻訳を見てきた;これについての説明を省く。
機械翻訳の方法で、ビザ visa とかパスポート passport とかと例えられそうな「国境の通過手段」がある。

自作小説および注釈では、国家の理論の概要を示しつつ、人々の心のふるさと–故郷は多言語の世界において母語の領域にあるものと説いている。
ただし、南コーカサス周辺の「言語は国を実際の意味で分けることもできた」という実例の提示を含む(当記事で補足するならば、そのような実例がユーラシア各地で近現代に見られる反面、日本は異なる島の異なる言語である琉球語の話者が減りアイヌ語の伝統は一時的に断絶している。制度上は一国になったものでは:かつてのオスマン帝国に支配された期間が短くとも長くともギリシャ語やアルバニア語は健在であり、13世紀以前のローマ帝国の統治下では俗ラテン語とその派生語が普及して各地の言語は合流する形で絶えた。ケルト系言語としては現代までにブルトン語以外が大陸から絶えている)。
どうであれ、言語に関する空虚さの真理 (linguistic emptiness, inefable truth) を知る者が、聖者の境地に達してから里帰りして導く場所でもあるとする。

cf.,
2015-10-30記事: 「ネト本リア末」議論と而二不二の義
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2015/10/blog-post_30.html

2018-07-21記事: 萌えの典籍 2016年に起草された作品およびその関連作品 "街の女人篇・説法十箇の事(九)"
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2016.html

精神的世界または国土は、本来の特性として、精神状態の変化を持つ者は誰でも基盤の状態を持つ上で自然に変わるものであり、それは極端な結果を持っていない。
ここでいう「自然」とは、外界の条件に依存するという、精神のごく普通の道理を指す。
外界の事象は、欲望と不快感といういずれかにカテゴライズされるものが輪をかけるように精神で強く受容する傾向にある。
つまり、欲望に分類される事象には欲望の精神作用が強く受容し、不快感に分類される事象には不快感の精神作用が強く受容する。
2017年11月2日の日記メモより抜粋:
もし、私など他人のことを非難したければいくらでも言えばよろしい。神奈川県座間市のアパート在住者(先月30日に発覚した事件・9人殺害)・神奈川県相模原市の障害者福祉施設元職員のように、他人をいくら殺しても満足しないし、殺せば我が身に明らかに報いを受けるが、母親は他人の存在を幾度と心の中で抹殺し、繰り返してきている。これが取りも直さず自分で自分を虐げていることである。母親は私をブッ叩ければ満足するか?私が家を去れば母親は満足するか?それでは母親が誰とも互恵関係を得ず、母親自身も地獄で生死を繰り返すのみである。仏教における地獄の衆生は化生の存在であり、獄卒に身体を打たれて粉砕されても、大臼で擦り潰されても、すぐに生き返って苦しみを受ける。今までの延長として母親が苦しみ、以後も、弟(母親との喧嘩が重なって穏健な性格が暴力的となって抗精神病薬を服用する現状でも幼児退行の上に薬効が薄まりつつある)などと闘争が絶えなかろう(先月31日メモなど参照)。家族のみならず、赤の他人とも喧嘩腰の傾向がある母親が、心身を悪くしつつある今、雷雲や嵐が迫っているように見える。私も私で、今更、言うべきでなく、今までもそういうつもりで言わずにいたが、感情を優先しておく。母親自身が危ういとも分析されたためである。私も私で普段から母親に伝える努力を欠いているし、煩悩は絶たれようもない状態を持つが、母親が自ら改めるべき要素を自覚してほしいと思う。そこに私の事柄は、関係が無い。
そこに、変える意思で能動的に変える方法(自然に変わるのでない)が、多岐にわたる。
言語記号をテーマの一つとする記事であるため、その方向で例示すると、言葉遣いの、自己の心での影響と社会的な影響との考慮からの「清らかな言葉遣いの実践」である。
この発想の原点は、「観萌行広要」などで仏教典籍からの導入をし(観萌行広要の動画⑤説明文から以下に抜粋)、今は言語記号に特化して提示できる。
心・仏・衆生=是三無差別・・・華厳経(唯心偈)
十界論、仏の一界と凡夫の九界=依正不二・・・天台教学(一念三千)
菩薩が浄める仏国土に良い衆生が集まる=心は仏国土(浄土)・・・維摩経(浄仏国土)

言語の方法論は、その悩みの自覚のある人のための提示に過ぎないことは、他の教理(観萌行広要の原稿①にいう「対治悉檀」など)から察していただきたい。
形式的な理論から、社会方面への応用はどうあるか、これが課題として提起されることにもなる。
個別言語の通用する人々の地理的な位置や主流文化の属性が異なっても、本題の「ニート」概念–名称のみならず様々なスラング slang やジャーゴン jargon に見られるような借用 (loan) や意味借用 (semantic loan) が発生する。
義務教育でも高等教育でも、その課程から言語と各種歴史とを正しく理解して「社会生活」の中での思考に人々が活かすことを私は求めてもいる。
日本人が彼ら自身の民族集団や現代文化–社会–経済–産業–行政の一部に対して「井の中の蛙(大海を知らず i no naka no kawazu, taikai wo shirazu)」や、「ガラパゴス Garapagosu」ということも、どれほど正しく思考されて用いられるか?
用語法の危うい日本人全般を侮蔑的に「ざんねんないきもの Zannen na Ikimono」のうちに加えようとする者が、また日本人の中にいる(無論、同名シリーズ本の著者がそう言っているという意味ではない)。
"disgrace", "misfortune"; "shameful", "shameless" とは誰であろうか?
使命でも汚名でも、自覚ある者の身近な運動は、基本である。
言語記号の話と異なるが、身近なゴミ拾い運動に比較可能な心の掃除の大切さを説いたこともある。
諸説あるうち、伝統の例示には朱利槃特尊者–チューラパンタカ Cūḷapanthaka/チューダパンタカ Cūḍapanthaka の修行法「掃㨹」があり、2017-01-25記事2017-10-08記事などに示される。
掃除の行為をしながら行為者自身の心を汚す–荒らすという反例は、2017-01-01記事末尾で2016-12-08日記メモを引用しながら説明される。



備考:1 の用法の「ひきこもり」に対する適用

日本が島国であるという前提で「鎖国」(sakoku) と掛け合わせに用いられる。
絶妙なことに:英語では島国らしさを adv. insular と呼び、孤立を"isolation"と呼ぶ。
日本史における「鎖国」を孤立主義"isolationism"の例とみなしている。
ラテン語の insula, イタリア語の isola (island, isle) を参照。
複雑なことに:"isolation"はフランス語由来であり、-iton系の語句として語形をラテン語と共有せず、語形では"insulation" (insulatio) に当たる。
島を意味する"island"と"isle"は、どちらもゲルマン語系統の語彙のうち中英語での iland, yland; ile に当たるが、ラテン語との誤った語源推定から本来は無い -s- が加えられた経緯がある。
フランス語は逆に現代の île に対して古フランス語が isle とされており、フランス語とイタリア語はロマンス諸語の祖先としての俗ラテン語 *isula に語源が求められている。
英語と同じゲルマン語系統にあるドイツ語 Insel は、ラテン語の insula の中高ドイツ語のころの借用に由来するという。

「鎖国」とされる名称の指示対象は、歴史学の近代的な概念であって日本の一時代を指す。
その時代の中にも様々な出来事があったし、「鎖国」とされる行為の前にも様々な経緯(前提)があった。
利益や不利益の効果 (effects) もある (数行後に示すページでは良い側面が挙げられる e.g., 周辺国との平和的な関係や近代化以前の教育の普及や学問と出版技術の発展。飢饉などは世界各地で時代ごとに起こる普遍的なこと)。
いつの時代・地域・政治体制でも、精神的国土から見て遠い国土への興味は、個人ごとによって多かれ少なかれあり、この場合には比較言語学・比較文化論に近い行為を含めた国学や、西洋からの自然科学と医学とを用いた蘭学 (rangaku, 主要な著書は杉田玄白の「解体新書」、宇田川榕菴の「舎密開宗」などがあって近代化以後もそれらにある訳語で漢語領域に生きた語彙が多い。工学の真似としてエレキテル Elekiter も知られる) といった領域をはじめ、広く看取される。
それらを無視した非科学的な用法は何の妥当性もないことを知るべきである。
他者ないし他国との関係性の多寡について、極端な例として人々がバイアス的に認知することになる。
cf., 英語版Wikipedia - "isolationism". oldid=937791692; quote:

From 1641 to 1853, the Tokugawa shogunate of Japan enforced a policy which it called kaikin. The policy prohibited foreign contact with most outside countries. The commonly held idea that Japan was entirely closed, however, is misleading. In fact, Japan maintained limited-scale trade and diplomatic relations with China, Korea and Ryukyu Islands, as well as the Dutch Republic as the only Western trading partner of Japan for much of the period. [6][7]

The culture of Japan developed with limited influence from the outside world and had one of the longest stretches of peace in history. During this period, Japan developed thriving cities, castle towns, increasing commodification of agriculture and domestic trade,[8] wage labor, increasing literacy and concomitant print culture,[9] laying the groundwork for modernization even as the shogunate itself grew weak.[10]

比喩としても適切でない「ひきこもり」用法で、不適切な解釈や感情を歴史に加えても、ヘイトスピーチ hate speech よりも悪辣な認知のゆがみを持つだけである。
そもそも認知のゆがみが強い人がそれをしていて今から矯正させることは難しい、と私は思う。
ゆがんだ自虐などをせず、宗教的な美徳とその教義を知って本当に幸福であることが何かを知りながら、自身の意欲に従う努力をすることが自己と社会の利益に繋がる結果に近いとだけ、私は伝えたい。
当然、その確かな手段は何一つこの世に無いが、自身の理念によればそれが何にでもなるので、そうした時に人は「殺人や民族差別さえ手段にする者がいる」といった議論を起こして…この話はやめよう。

日本については、悪い側面があるとして、それを島国であるとか鎖国の歴史を持つとかに求めるべきでない。
日本人の中の「ひきこもり」に結びつけることは安直であろう。
用語法が無節操で卑俗であることは、単にそれだけであり、他の事象も島国であるとか鎖国の歴史を持つとかで形容されるべきでない。
言い訳で「ひきこもる」という動詞の連用形の名詞化であって社会学的な用語を指すのでないと言われるかもしれない。

あえて言えば、「島国文化」と仮定されるものは、イングランドの歴史、インドネシアの歴史、モルディブの歴史、スリランカの歴史などから色々と日本に対する類似点や相違点を感じることができた。
更に色々な島と、そこに住む民族がある。
仏教とキリスト教とイスラム教の伝播と土着信仰–祭祀の関係性も考慮すべきである。
島国だからこそ、民族の移動と定住に関する特徴があることを知らねばならない(なぜ近代英語の語源の語派は多様か?なぜ台湾–ハワイ–マダガスカル–インドネシア–ポリネシアに代表されるオーストロネシア語族 Austronesian languages の話者は大陸に住む例が少ないか?など)。
また、ザ・鎖国と他の類例は、それぞれの経緯を関連付けて比較–対照–対応 (comparison, contrast, correspondence) をした方がよい。
そうすれば社会科学の立場で「島文化」は存在しないとも考えられる。

※「封建制」や「封建主義」という語彙も連想されよう。これは「小さい集団内の全体性–排他性」や「寡頭支配–中央集権」や「前時代的なもの」の象徴(代替–記号)で悪用される傾向がある。悪用された「鎖国」よろしく、プロパガンダ的であって確たる定義に乏しいことは公平な目線での歴史学や政治学でも指摘されているのではないか?中世ヨーロッパの脈絡から来る英語"feudalism"に相当する西洋語の訳語としても「封建制」がある。比較してみよう。この西洋語句は悪用でない歴史用語としてさえ機能しづらいという見解がある。 cf., 英語版Wikipedia - "Feudalism". oldid=939399362; quote:
There is no commonly accepted modern definition of feudalism, at least among scholars.[4][7] The adjective feudal was coined in the 17th century, and the noun feudalism, often used in a political and propaganda context, was not coined until the 19th century,[4] from the French féodalité (feudality), itself an 18th-century creation.
[…]
The term feudal has also been applied to non-Western societies in which institutions and attitudes similar to those of medieval Europe are perceived to have prevailed (See Examples of feudalism). Japan has been extensively studied in this regard.[49] Friday notes that in the 21st century historians of Japan rarely invoke feudalism; instead of looking at similarities, specialists attempting comparative analysis concentrate on fundamental differences.[50] Ultimately, critics say, the many ways the term feudalism has been used have deprived it of specific meaning, leading some historians and political theorists to reject it as a useful concept for understanding society.[43]
Richard Abels notes that "Western Civilization and World Civilization textbooks now shy away from the term 'feudalism'."[51]

日本人を「ひきこもり」–「島国根性」–鎖国的である、と自虐的に用いるその感情こそが、その感情によって卑下されるべきでなかろうか?
侮蔑は実在の「科学的な社会学で定義できるひきこもり個人」–「島国民族」および実例の鎖国に向けられていない。
多くの日本人は歴史から日常生活に対する努力の意味での科学的観点を持っていない。
言葉がたとえ事実を指すとしても、偏向–バイアス bias や誤認を招く表現–思考の傾向は自覚的に(メタ認知で)捨てられねばならない。



備考:2 の用法の「ひきこもり」に対する適用

「日本破滅」や「亡国」の行為者として用いられる。
しかし、日本を壊す者は何らかの手段で日本を壊すのであり、それが個人であれ集団であれ無形であれ、「ひきこもり」が代名詞のように用いられる道理はない。
日本の凋落の原因をひきこもりに転嫁することは、はぐらかし–ごまかしである。
欺瞞的であり、個別の事例の適切な対処ができなくなる。

「日本破滅」は、そう言う者が破滅させる行為者でなかろうか?
彼こそが問題を引き起こしていなかろうか?
彼にとっての問題は、実在する「ひきこもり」のせいではない。
人は勝手に生まれて死ぬものであり、客体をそう恣意的に認知して自ら信用するのもまた人である。
花の名たれか言ひ初むる 物に名づくる心とは いつにもほとけ居りぬらし 名をもちゐるは人のわざ
— 雜萌喩(六) 別名「華果名義抄」
濫りに日本破滅の行為者として「ひきこもり」の名前を用いる人々は、自他の死を思索することが好きな者であろうか、と私は思う。
これが「日本人らしさ–日本っぽさ」と軽蔑されても仕方のない側面にある。
「高尚な自殺」…ゴーディカ尊者 Godhika およびヴァッカリ尊者 Vakkali と異なった無目的–無反省の自殺志願は控えられるように、私は願う。

卑屈な者が他のもっと卑屈な何かを仮想しても「空しい/虚しい」だけである。
実際に人の目につく発言や投稿は「泥酔したまま街中を歩いてゲロを吐き散らす酔っ払い (cf. public drunkenness)」の行動と似て、公序良俗を拡大した時の負の影響がある。

「ひきこもり亡国説」には「親孝行/親不孝 oya-kōkō/oya-fukō (filial piety/motherfu*ker)」ということも構造的に関わっている可能性があり、「親神教(親神様信仰)」と過去に私が呼んだ事柄も考慮される必要があろう。
余談だが、家庭内暴力やネグレクトや憎悪や退廃を想起させるイメージ写真を創作しているメディア(ニュースサイトなどウェブサイト)は、そういう客体化での見出し–サムネイルしか見ない層の偏見を惹起する。
家庭内暴力については、行為者や被害者の一方が「ひきこもり」個人に限られないし、家庭内暴力や親子喧嘩の原因の個別性 (individuality, individualness) を無視する方向に誘うことはメディアの罪になる。

他に、「ひきこもり」や「ニート」を不幸自慢の人とみなす人が無関係な場面で「ひきこもりは甘えだ/ニートは恵まれている」と言い出すこともある(e.g. 軍人が過酷な軍務で笑顔でいたり仲間と楽しくやっている映像、ニコニコ動画sm398344, コメント831)。
「彼らは幸福の相対性を知っていない」、「悩んでいる人の悩んでいる経緯と精神性に関して無慈悲だ」と叱責する必要を感じない。



備考:3 の用法の「ひきこもり」に対する適用

自己の「愚かな側面」の様態を表現するために用いられる。
または、元「ひきこもり」として、過去の存在であるとか、当時が愚劣であった(当時に今から見て空白–価値のない時間があった)とかという自虐に近い用法も多い。
今、その状態の人がその状態について悩んでいるか悩んでいなくとも、そういう身勝手な客体化を目の当たりにして何も言葉を発することのできない人々がいるのではないか?
単にインターネットにさえ言葉を発する機会が無い人として、2019年に川崎市多摩区登戸で通り魔殺人–自殺をした高齢ひきこもり男性(岩崎隆一・故人。養父母と住んでネット環境なし。通称:子供部屋おじさん、こどおじ;この語句もなぜか唯一の実例から換喩を通した一般化による濫用が広がっている、と思ったが川崎の事件以前から私はNHK NEWS WEBがやたらと高齢ひきこもり統計報道と特集をしていることを知っていたように彼を指すための表現でなかった様子)も挙げられる。
誰でも、結局、色々な個人がいるとして、それら個人のことを見て見る者自身に当てるほど心の余裕がある・思考の優れた私はかえって精神的ダメージが大きい。
以下のような英語版Wiktionary - "…". oldid=58014692 の謎の用法も、指示対象の"you" (35-year-old, no job, no hope, no prospects という the individual) が限定されているもの(cf. 定性 definity についての2019-01-08記事の記述)として読解すればよい。
(Internet slang, text messaging) A response used to express being at a loss for words, such as due to annoyance, shock or confusion.
― You're 35, you still live with your mother, you have no job, no hope, no prospects, what's the point of even going on?
― …
あながちにこういう「オンライン辞書」の用法も修正させようと思わない。
そういう「世俗的な社会通念」を持つ人が多かれ少なかれ世間にいることは、暗黙の了解である。
彼らにとっては、単純な特定個人 (certain individuals) の問題でないという側面もあろう。
しかし、現に希望 や意思を持つ私にとっては不愉快である。
同じように希望や意思を持ちながらニート・ひきこもりの仮名を持つ人がいないか、今でも探している。
自虐ムードを創出する社会は自滅を求めている、と言わない。
人間文明は常に反省すべき要因を備えていることを、広い歴史や精神の「貪–瞋モデル(欲望–不快感モデル)」から私は知っている。

※希望 hope, 「将来の夢」などという具体的な説明内容を指すか、精神的なものを指すか、多義的だがここでは後者。何を希望するかの指示性を問わない根本的な感情。人生はチャレンジであり、今は今にできること、都市のホームレスには彼にできること、山の仙人には彼にできることがあることと同じであり、誰でも相対的な希望を持つ資格がある。病で長らく臥す人も、彼の平癒や楽な死といった指定に関わる希望がある。この道理は「強がり」でも「屁理屈」でも「きれいごと」でもない。普遍的な希望が、主体的な思考の可能な全ての人間にある。反対に、覚者は主体的な思考が可能でありながら、寂滅–平等であって一時的である相対的な希望を持たない。

インターネットには、比較的、「おちゃめなイタズラ発言」が好きな人が多いと考えた方がよいが、時にリアルな場面でも実現されることが恐ろしい。
インターネットでの活動も、私のような固定的な名義の活動でない匿名の人々が、自身が貧乏かどうかに関係なく、可能であれば、ちょうど「雨ニモマケズ」の詩@に見られるような形で、誤ったニート・ひきこもり名称の使用や社会正義に悖る言動を真摯な態度と正しい学問的理解を伴って指摘すればよいのではないかと思う。

自称社会人たちが内心でニート・ひきこもりを侮蔑することは構わないが、自浄作用だと言わんばかりに侮蔑の用法を社会的に行えば、結局それは汚物をまき散らすことに等しい。
かえって社会に絶望を蔓延させる。
ニート・ひきこもりの実在個人は人間であってそれ自体が悪や汚物なのではない。
ともすると「人間自体が汚物(糞尿)の構成物である」、とは一部の宗教家や哲学者の考えることである。

演繹と帰納という2つの基本的な思考法も、大衆が社会の話題を好む場合にそれらが正しく機能しない方法で用いられやすくなる。

「ニート」や「ひきこもり」を現実逃避の象徴にする方が現実逃避であることを知らねばならない。
人は真面目な心があるときに正しく対処するわけで、不真面目な人が他に不真面目な存在を仮想している。
現実の「ニート」や「ひきこもり」の全員がそうラベリングされることは、ナチスドイツのユダヤ人に関するプロパガンダよりも悪辣な認知のゆがみによる。
しかし、前に記されるように、この種の呪詛にも似たラベリングは、現実の「ニート」や「ひきこもり」を対象とすることが正しく行われていないので、悪い感情が行為者本人に帰って終わる(対象の指示性を問わず「還著於本人」、「ブーメラン」、「人を呪わば穴二つ」)。
少なくとも「ニート」や「ひきこもり」の仮名を持つ私は私の問題に逐次に対処する(その方法は自称社会人の倫理規範に合うと限らない)し、人生の多様性や善悪の相対性(e.g., 100%の人間が画一的な教育を経て物質的な多くの種類の生産で労働することが多様性か?経済活動の多さのみが善か?)に関して理解を持っていることは「現実逃避」にカテゴライズされない。

よくある話で「未来」「希望」「救い」というものは、ニート・ひきこもり全般に存在しない、と他者が一例から一括りに評価することはできない。
『そう言う社会こそ「未来」「希望」「救い」は無い』といえば幼稚 (childish) であろうか?同一徹。
妄想–空想のニートとひきこもりを俎上にのせた人種差別的言論を行うよりも、各々の人生の省察のみに留める方が生産的で建設的である。



備考:学歴議論–論争、高低の定義

当記事で語るまでもないが、大概の日本人は学位 (degree, academic degrees) のうち修士号 (master…) や博士号 (doctor…) を有していない。
日本の学歴議論はほとんど、「中卒・高卒・大卒」の三分法 (trichotomy) に依拠する。
「大卒」が俗語である時の指示対象(所記 signified)は、学位で言うと学士号 (bachelor…) に当たるものであり、その人間をも指す。
そもそも言論は学位の有無にかかわらず、基本的に自由であるはずで、学位の高低や有無に依拠して言説内容の「価値のあるもの・価値のないもの」という判断がされるべきでない。
学位の高低や有無は社会的なものであり、一つの指標でしかない。
「中卒・高卒・大卒」ほどの表現は、社会的な学業や雇用などの目的までに留める(それでさえ懐疑的な学者もいる)。
現代日本で「低学歴 tei-gakureki」と侮蔑的に言う場は、慶應義塾大学SFCに通う某金髪男性が山本太郎参議院議員(2013年当時)について言ったことや、2ch(主にニュー速系)などで顔の見えない匿名の他人を相手にすることを含む。
侮蔑の感情に依拠する場合、その感情表現以上の価値を持っていないとして、「無価値」を認定する者の言説に「無価値」の価値判断が帰ってくることを注意する。
同次元の議論としては「文系–理系 bunkei and rikei」もある。

「当記事で語るまでもない」とする根拠は、参考リンク2019-05-16記事に述べたからである。
「Fラン大学」なども社会に有益な指標として議論の当事者が機能させているか、省みよ。

「低学歴」という単語の用法に付随しがちな誤謬 (fallacy) は:
・学歴の高低(中高大のようなY軸、文理のようなX軸などで仮定)についての客観的な定義が明示されていない 
・言及対象の人物個人の実際の社会的な学歴の最低限の調査と独学などの具体的な学習に関する精査が行われていない 
・言及対象が集団(e.g. 音楽ジャンルのファンなどサブカルチャー、政治イデオロギーなど)である場合、実際の社会的な学歴の信頼できる調査が行われていない 
・任意の学歴の社会的作用と個人における精神的作用(e.g. いわゆる学歴コンプレックスおよび超克–克服)とが加味されていない 
というわけで、1つでも当てはまるときには:
・任意の学歴や学業–教育課程に特権化されない知識や技能の特権化 (privileging)
・学歴の話題でさえない場面での論点のすり替え(ad hominemmissing the point in a certain context without gakureki topics; 元の議論をはぐらかす意図)
・直前まで参加していなかった者によるいたずら
・言及対象に対する自由な思考の抑制 
これらのような意図のいずれかが看取される。
「低学歴」という単語がその誤謬を伴って用いられる場合は、誰かが「低学歴」であることを求めても不毛であり、その用法の実行者の精神性を詮索する方が有益ではないか、と思う。


少し話題を変えるならば、何者が無教養であって経験の乏しい者か?
畢竟、教養の有無は個人の経験と連結する発言を知る他者の判断に依拠するのみで、高等教育を含む学校教育は経験の全てであるわけがなく、指標としての過度な依存は不適当である。
だからこそ、大学はもっと学士の教育課程で教養や科学的思考がもっと得られる教育を行う方がよく、任意の分野は修士課程が強く求められるべきでないか、と私は一種のアカデミズム académisme を推奨する。

私は不登校のままに中学校を卒業して更に進学しない「名目上の中卒」であり、用語の妥当性を問わず、レトリックとして「実質的な小卒」と表現してもよい。
逆にMITやOxfordの任意の分野の修士課程を通ったような気持ちになることもある。
私のこういった言語表現を精神分析の対象(防衛機制)にしても望ましくない。
何が低学歴–高学歴かという考えに、「上には上がある、下には下がある、具現化して最上でも最下でもある人」として私が象徴になれればよいと思った。



備考:不当な一般化–客体化がされた他の単語例

病気–疾患を正当な医療行為の外で他者に断定することも多い。
その名称として、「アスペ asupe (アスペルガー症候群より)」「糖質 tōshitsu (または等質、統合失調症より)」「池沼 chishō (知的障害に関する何かより)」「ガイジ gaiji (知的障害児より)」がある。
これらは新語 (neologism) と判断することが妥当である。
略語(i.e. 日本式約4モーラ以内の単語 Japanese abbreviation words)に関しては、学問の目的でないと日常的で感性的で侮蔑的な用法の温床と見ることも可能である。
これらは略語でなかったらば医療行為の妨害だ/日常言語の反社会的運動だ、とも見える。

「暇人 himajin」などの表現も、それがどのように正しく用いられるものか考えねばならない、という趣旨が2018-09-24記事と動画説明文に説かれる:
「暇」とか「働いている」とかの語句は、世俗の個人が分別して用いられることが多くあります。
智者はそのように量られ・分別されて用いられた言葉について倦厭します。
誰でも、どのような言葉の概念も理由があれば該当し、または理由があれば該当しないという世俗諦の教説を受持しましょう。
Quod apud mensuram erat, illud verbum omnia metitur. Immensa causa ad principium, liberator per verbum non tristis. (ラテン語自作歌詞より)

誰であれ世間に飛び交う種々の言説に振り回されて自己否定に至るまでの悩みを抱える意味はありません、もしもその人が真面目で真っ直ぐとしているならば。
引きこもりにおける真面目な・真っ直ぐとした生き方によって最低限の食糧を得る道理があります。
キリスト教のパウロさんがテサロニケ書で書いたこと(2 Thessalonians 3:10 ὅτι εἴ τις οὐ θέλει ἐργάζεσθαι, μηδὲ ἐσθιέτω. 趣旨: キリストのように神の福音を弘めるための良い行動をせよ・それを望まない者は食べない方がよい)が人口に膾炙して「働かざる者食うべからず」ということわざになりました(共産主義のレーニンさんが2 Thessalonians 3:10を恣意的に換骨奪胎したことが起源とも。"Кто не работает, тот не ест"=働かない者、その者は食べない。英語では"He who does not work shall not eat"と訳され、それが日本語で「"shall not" ~べからず」という多義的な助動詞に重訳をされた)。
誰でも真面目に生きて各々が現世に定義した目的を果たすことは、何かしらの対価を得ます。
仏教では、釈尊が乞食をしているとき、婆羅門の一人から(後略)



備考:行為と認知的階級の関係性

認知的階級 *social class by cognition とは、かなり相対的–主観的な計測によって各個人が想定するものである(ネット創作物「職業ピラミッド im5852299. 2016年 たいのね氏」は正社員とフリーターとニートという名の「職業」が客体化され、現実には最も少数のニートが最下に位置するように現実の「ピラミッド」と似ない配列に置かれる。ニコニコ静画のランキング・デイリー・創作カテゴリで頻繁に10位くらいに浮上した時期があって単なる落書きでない。胸糞悪いと感じた方は私の2013年11月における合理的なヒエラルキー円錐モデルを参照)。
ニート状態やひきこもり行為は、それがそうラベリングされるだけの「現実性」を持っているとしても、そもそもそれさえ検証できない「顔の見えない他人」への不正なラベリングを当記事(主記事)で追及してきた。
それでは「行為によって尊いか卑しいかを判断せよ」という基準は、現実の「ニート」らにどう適用されるか?
既に「人は単一の名称でその生き方の全てが叙述されることは無い」と述べていたが、比較材料を考察してみよう。

「ネイティブニート」は、ネイティブ native のラテン語の語源 nativusnatus から「生まれながらのニート」とも直訳できるので、生まれながら人の身分–階級が定められたとする「カースト」に似る(父母からの相続という基準はここで無視される。2015-04-24記事に記録されるように私の両親も単に無宗教で留年の無い大卒)。
いわゆるカースト caste で最も知られる例として古代インドのそれ–四姓 (ヴァルナ varṇa, Pi: vaṇṇa ) があり、私はしばしばパーリ仏典の経典多数とリグヴェーダ10巻90章とを連想する(有名な話、Wikipedia - "Varna (Hinduism)"oldid=934700133も参照)。
最も高貴とされる「婆羅門–ブラーフマナ brāhmaṇa (ब्राह्मण 現代インドでブランハナと発音されやすい。日本ではしばしばカタカナのバラモンを用いる; En: brahmin)」は「梵天 Brahmā (Rg. では原人プルシャ Puruṣa)の口」から生まれ、それより低い身分の者たちは順に:「腕」、「腿(太もも)」、「足」であったという。
仏道修行者への侮蔑の表現としてパーリ仏典で「梵天の足から生まれた者"bandhupādāpaccā" (bandhupādaの部分は複合語 brahma-pāda の転訛で俗語と考えられる)」がある。
仏教における釈尊は「婆羅門」が一応の身分の名であると同時に、四姓の起源の解明(方法論に民間語源 folk-etymology を含む)から「真の婆羅門」が何であるかを説いている。
私の2017-11-20記事『訛らないパーリ語句"Brahmā (Brāhmaṇa)"や"Bhadra (Bhadda)"の謎と経典編纂の光景』には、原始ジャイナ教典籍にも近い趣旨の主張をしていた例が挙げてある:
これはAṇuogaddārāiṃという経典に載っているそうである […] 一方、ブラーフマナについてはバンバナ"bambhaṇa"またはマーハナ"māhaṇa"と呼ばれ、「殺さないこと(mā = するな haṇa = √han殺す)」に関連付けており、殺さないことによって婆羅門マーハナ・バンバナなのだ、という(殺さないことが梵行bambhaceraらしい)。
その他には、古代インドのウパニシャッドも参照できる。
「婆羅門は任意の理由によって尊いと知覚される人の名」という記号的な定義と考えることも可能である。
そこで、自作の文学における宗教的な女性キャラの発言「屠殺の人と婆羅門と私とにどのような差別がございましょうか?」についての注釈を参照されたい:
 四姓・四種姓・4ヴァルナ(いわゆるカースト)の平等について語る「金剛針論」の説「一切皆従穢処根生、有何差別」に類似する。また、梵語版42偈にはsarve vai yonijā martyāḥ, sarve mūtrapurīṣiṇaḥ | (一切=人類はみな胎生であり、死ぬべき命と尿・糞とを持つ…)といった詩節が見られる。そういった不浄を前提にした人類平等(無差別)に関する説は、パーリ仏典にも見られ(後述の長部27経"Aggañña Sutta"など、ほか大量殺人をした者・アングリマーラが出家して彼の罪が国王から赦される話がある中部86経"Aṅgulimāla Sutta"も参照)、いずれも持戒などによってシュードラ・チャンダーラの人でも誰でも、ドヴィジャ(再生族、前者のみ)またはブラーフマナ(婆羅門)になるといった話をする(古ウパニシャッド文献BrhUp 3.5.1にも類似の説があって同様の説が釈尊出世以前から修行者のうちに伝えられていたろう)。生まれによる差別と、被差別者の精神にその烙印が押されることでは、精神においても自由が抑制される=被差別者が自ら抑制する(差別者であってもその心のままでは解脱できない)。人類平等(無差別)の理由を知る人は、その抑制を懐柔する。しかし、輸提尼はその前提(不浄)を超えた理由(前注*2の如し)で人類平等(無差別)を説いている点に注意されたい。 […]
 パーリ仏典によれば、何らかのブラーフマナたちが「ブラーフマナのみが清浄となり、他の者はそうでない」という見解を持っているとする。彼らが差別的に清浄や解脱の可能性を狭めていることについて、釈尊は「行為によって清浄になることや人から尊敬されること・ブラーフマナと呼ばれること」を詳細に説明している(例は長部27経"Aggañña Sutta"、同じ経には現世の起源と人類の発展に伴う四姓の発生を示す)。輸提尼は、誰でも解脱が得られるようにと願うことで、可能な限りに他人の精神の抑制や束縛を懐柔しようとする。もし差別を目の前にしながら、そう願えないならば、それは差別を目の前にする当人が未だ欲を捨てていない時に自己の束縛を解けない結果となる。思考だけでも、そうなればよい。行動については後の話(輸提尼が拉致された件)の通りである。四姓注釈が少し込み入ったが、もう1点注記しよう。釈尊であれ輸提尼であれ、既成事実化している四姓を社会運動で無くすることを説いていない。人の世が人の世たるもの人のうちに差別は消えないし、苟も消えても発生しようし、身分の違いだけならば人の世に有って然り。名称による区分を過度の差別に用いる者を問題視しているのみであり、できる限りに差別者・被差別者の迷妄を解こうとする慈悲による発言である。仏や菩薩が何を目的に教化したり行動したりするか、その意義を見失うべきでない。布教の結果に四姓が無くなることはあっても、目的のための手段とされていることは無い。誰であれ、解脱すれば本来に四姓も他人も何も存在しない(本不生)と言えるからである。

単に階級の上下/高低は、精神的指導者「婆羅門」よりも社会的支配者「刹帝利–クシャトリヤ kṣatriya (क्षत्रिय Pi: khattiya; En: kshatriya)」が最上/最高であると釈尊やサナンクマーラ梵天が説く仏典(パーリ経蔵・相応部・梵天相応6.11経長部3経)もあり、これがサナトクマーラと名乗る人物の発言=マハーバーラタ3章183節に同趣旨で見られる(2018-02-10記事anchor#dei2)。
現代日本と、ある意味で真逆の古代インドから学ぶことも多いのではないか?
記号論においてニートと比較可能な概念–名称には、日本版カーストにおけるアンタッチャブルとも考えられた「穢多–非人」の他にも、古代から現代までインドで尊ばれる「婆羅門」があることも考慮してもらう。
概念の名称の社会的構築 (social construction) と認知的構造 (cognitive structure) の必然的でない側面に関して、近似性が高い。

「どの行為によって尊いか卑しいか」は、判断される行為の数によるし、冷静に多くの要素を吟味するほど不合理な煩雑さも比例して増えると「凡庸な人々」は悩むことになる。
どの種類の行為をラベルにするとも、仏教徒は仏教徒の目的で尊ぶべき人物がいること(cf. 三宝)を知っている。
別の答えをあなたが求めるならば、「人は単一の名称でその生き方の全てが叙述されることは無い」という既に記された言葉がある。





参考リンク:記号論関連(分野自体の詳述や実践は無い)

2017-08-10記事: 仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/buddhist-dharma-and-social-law.html
紹介: 「仏教でも政治でも『仮の自己』を定義する」そうで、仏典の説と一般に知られた科学的見解とを示す。「同一性は無い。0.001%ないし99.999%以上の『相似性』しかない」という「詭弁・戯論」と思われそうな論証をしつつ、その後でも、同一性が無いことを完全に証明することはできないとしている。「文学作品」で譬える中で、この記事での言語記号と近しい話題のために音声学知識が披瀝される。なお、ソシュール名義の著作、一般言語学講義において「音声学/音韻論の原理"Principes de phonologie"」という項目は設けられていた。

2018-08-08記事: 英語・ラテン語・梵語に見られる関係代名詞の構文(虚辞・相関)
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2018/08/indo-european-correlative-syntax.html
紹介: 言語に造詣が深いパース氏や言語学者ソシュール氏が多かれ少なかれ学んでいたろうラテン語と梵語(サンスクリット語とパーリ語を含むブラーフミー系またはインド・アーリア系古典語)の文法を説明する。日本語の文語体によせて「新言語・漢文の訓読の結果に精錬されたものである。言語を記号的に用いる・仮定的に用いる前提においては、なおさら柔軟に日本語を論理的・弁別的な言語に擬して用いることもできる。とはいえ、それは、そういった理解の仕方ができる人(心を読める人、仏のような人)や、共通目的における承認がある場面にしか通用しないであろうし、私の活動では常用できない」とも言う。

2019-01-08記事: 究極の主観性・客観性と、入れ子構造の共通主観性(限定的客観性) ~言語・美術・音楽・宗教から
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/01/consubjectivity.html
紹介: ソシュール氏の原典から記号 (sign) に関する基礎概念の、簡易な紹介あり。

2019-05-16記事: 科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/05/glossaria-scientia.html
紹介: パースの記号論やソシュールの記号学 (semiotics, semiology; 訳語はそれ自体が記号だが一応) について、最小限の言及あり。

2020-01-18記事: "une équation sexuée" 性化された方程式とは?珍説の考察
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2020/01/une-equation-sexuee.html
紹介: ソシュールの記号学(彼のシニフィエ–シニフィアンが精神分析学者ラカン Lacan にシニフィアン–シニフィエとして応用された例を含む)についての簡易な言及。ソーカル氏やチョムスキー氏を引き合いに出し、「科学と正義」の話題もある。



参考リンク:ニート関連

現在の活動の方針と符合するものとしてではなく、あくまでも記事の理解の補助として「任意の客体Xについて任意の考え方Yで任意の表現XY/2が可能である (possibly/approximately)」ことの実例を学び取る目的がある。
過去の私の発言の参照源として公平に機能させる意図がある。

2012-04-01動画: 今日から無職の15歳 ゆとりのニートアピール
URL: https://www.youtube.com/watch?v=zXbD89b9UwY
紹介: 名目上の中学卒業を起点としたニート宣言。

2012-09-27記事: 中卒 ニート 引きこもり 黒髪ロング イケメン 画像
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/18249423.html
紹介: 「ニート」と「イケメン」の客体化の例。当時の「インターネットの空気に溶け込む目的での大衆的な言葉遣い」に注意。

2012-12-03記事: 成績優秀でも、人間関係に失敗して低学歴の中卒ニートの男
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/20820284.html
紹介: 受けるいじめについて、自己分析を含む説明の初期の例。

2013-04-21記事: ニートは底辺かもしれないが、ある意味貴族?
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/25916619.html
紹介: 当時にあえてニートの細分化–類型区分を望んで「貴族型ニート」と「底辺型ニート」と「ネオニート」の3つ示しつつ、うち前2つについての説明をしている。また、2つの属性として世間で連想されそうな語彙が最後に付録 (appendix) 状に羅列される。

2013-07-20記事: Livedoorブログ、祝「無職・ニート」カテゴリ誕生!
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/29731210.html
紹介: 2013年7月15日に私はLivedoorブログに「無職・ニート」カテゴリの新設を提案した(後略)、とする趣旨の本文を参照。

2013-10-22記事: 俺はキ○ガイ治安劣悪・豊川市民の継承者か?
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/33267772.html
紹介: ニート実在個人の例示。当時の「インターネットの空気に溶け込む目的での大衆的な言葉遣い」に注意。

2014-02-18記事: 絵の練習・落書きなど。もっと描かないと。。。
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/36454445.html
紹介: 私が創設の機会を作った『Livedoor「無職・ニート」カテゴリ』のブロガーを含む無職とされるネット上の人物の日記–ブログをウォッチするスレッドが2ch掲示板にある。そこでは以前に私の話題が無くも、俄かに私を真似しながら嘲笑を誘う演技をする人がいた件の紹介。現場へのリンクが載る。

2014-10-10記事: ニートの新世代「ネイティブニート」を提唱!
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html
紹介: 当記事(主記事)の本文で一部引用。

2014-10-22記事: 特定の層を卑下して驕る者 "驕慢の沙汰"
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2014/10/blog-post_22.html
紹介: 人種差別似の–侮蔑的な意図でラベリングをする人の例示。

2014-11-03記事: 謙遜と嫌味の区別 - 自己紹介で自分を謙る表現の御法度
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2014/11/blog-post_3.html
紹介: 自己紹介におけるラベリングの地雷の暴露。論理の形式として「○○しない××な人間」という自己紹介文を「お前は○○しない××なヤツなんだ」に言及方法を変換するなど論理学的な方法論が見られる。後日追記の部分にニートに関する言及がある(17歳・中卒・血液型B型・埼玉生まれ・ニート・ハゲあり)。主記事と同じく、当該記事の作成経緯は「たまたま虎穴に入って虎の子を得たように、こういった記事を作られる」と記されるようなもの。

2018-01-21記事: 道心あるニート・引きこもりの修行における障壁
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/neet-hikikomori-shugyo.html
紹介: ニート・ひきこもりの宗教的な立場を説明。デジタル人文学 (digital humanities) の奨励。2018年1月2日に本家ブログで先行公開される。

2019-07-15記事: 科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/07/arts-neet-hikikomori.html
紹介: ニート・ひきこもりのリベラルアーツを説明。デジタル人文学の奨励。




起草日: 2020年2月8日
分割の案は2020年2月26日に発せられた。
「最近のメモ帳更新一覧」などは主記事に載せたものを参照されたい。