あらゆる分野に足を突っ込んできた横野真史の活動で、任意の同一分野の専門家(半分匿名である人の多い分野を含む)がいくらインターネットで活動していても:私に言及することや、私の投稿物にコメントすることは無かった。
私が意思を示して継続的に行う場合も、その意思を汲んで批判や評価などの批評を私に行う者はいなかった。
そのように私は認識している。

絵などの創作、音楽などの創作、地理学、仏教学(宗教学)、言語学、および、これら以外で小規模に行ったものなどもある。
上記のアプローチ「インターネットでも活動する任意の同一分野の専門家(半分匿名である人の多い分野を含む)が:私に言及することや、私の投稿物にコメントすること」は一度も無かった。
思い返せば、小さいころから、私の行動を個人として正当に評価する他人はいなかった。
今までも、何らかの理由で大人–オトナに相対する子供–コドモというレベルでのみ扱われた。
または、少しでも才能を見出すとマウントを取るような人の言動を私は常に受けたろう。
才能、努力、意思…、どのようなレベルに関しても私を正当に評価することを他人はしなかった。
そのように私は認識している。

私は、「蘭室」といって自分の才能を養うために色々な場所に身を投じたが、無論、その種のコミュニティやSNSに深く関与したわけでない。
他、YouTubeはメディア–媒体として利用するのみであった。
ただし香港の住民を昔は英語で民族名から"Hong Kong Chinese" "Hong Kong Britons"と言って「香港人"Hongkongese, Hongkongers"」と言わなかった (1, 2; cf., シンガポール) ように、"YouTuber" (ユーチューバー) という呼称が定着していなかった2013年以前、私は「顔出し動画投稿者」という立場でいることはあった。余談だが、2013年以前にYouTuberと言うとYouTube動画投稿者を指すよりはYouTube利用者全般を指すことが多かったろう。"YouTubers hate" by Tony Marano https://www.youtube.com/watch?v=alMYTWyeoU8

そういう方面を除いて考えてみよう。
一介の、善良な市民として認識されても、この家に住む無職の私であり、ガキという位置づけなのであろう。

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