あらゆる分野に足を突っ込んできた横野真史の活動で、任意の同一分野の専門家(半分匿名である人の多い分野を含む)がいくらインターネットで活動していても:私に言及することや、私の投稿物にコメントすることは無かった。
私が意思を示して継続的に行う場合も、その意思を汲んで批判や評価などの批評を私に行う者はいなかった。
そのように私は認識している。

絵などの創作、音楽などの創作、地理学、仏教学(宗教学)、言語学、および、これら以外で小規模に行ったものなどもある。
上記のアプローチ「インターネットでも活動する任意の同一分野の専門家(半分匿名である人の多い分野を含む)が:私に言及することや、私の投稿物にコメントすること」は一度も無かった。
思い返せば、小さいころから、私の行動を個人として正当に評価する他人はいなかった。
今までも、何らかの理由で大人–オトナに相対する子供–コドモというレベルでのみ扱われた。
または、少しでも才能を見出すとマウントを取るような人の言動を私は常に受けたろう。
才能、努力、意思…、どのようなレベルに関しても私を正当に評価することを他人はしなかった。
そのように私は認識している。

私は、「蘭室」といって自分の才能を養うために色々な場所に身を投じたが、無論、その種のコミュニティやSNSに深く関与したわけでない。
他、YouTubeはメディア–媒体として利用するのみであった。
ただし香港の住民を昔は英語で民族名から"Hong Kong Chinese" "Hong Kong Britons"と言って「香港人"Hongkongese, Hongkongers"」と言わなかった (1, 2; cf., シンガポール) ように、"YouTuber" (ユーチューバー) という呼称が定着していなかった2013年以前、私は「顔出し動画投稿者」という立場でいることはあった。余談だが、2013年以前にYouTuberと言うとYouTube動画投稿者を指すよりはYouTube利用者全般を指すことが多かったろう。"YouTubers hate" by Tony Marano https://www.youtube.com/watch?v=alMYTWyeoU8

そういう方面を除いて考えてみよう。
一介の、善良な市民として認識されても、この家に住む無職の私であり、ガキという位置づけなのであろう。

2020年5月30日に愛知県内の家に住んでいる下の弟 (当時19、言うまでもなく上の弟は父親と埼玉県内に住む) が家で激高し、母親によって警察が呼ばれ、警察官2名が下の弟らから事情聴取をする。
ついでに、警察官2名のうち1名は私にも話しかけてきた。
彼は私 (23) に、小学生くらいの子供に対するものと似た話し方(下の名前にくん付け)であった。
もう1名とは話さなかったが、私が部屋を出ようとしたあるとき(彼らが家にいた時間の後半)、「ごめんねー」と同じように小学生くらいの子供に対するものと似た口調で言った。
彼らの態度は善良な市民、個人以上に、母親の家に住んでいる私の相対的な子供に対するものであった。
もし、私がそのような子供でなく居候の他人として紹介されたらば、彼らがそのような話し方をするであろうか?
彼らを悪く言いたいのではないが、こういう最近の軽度な事例からしても、私のような人に対して個人主義的な尊重を行うとは考えられない。
母親からして幼いころから、私に憎悪を懐いていたか子供全般に憎悪を懐いていたかは知らないが、平手でも拳でも頭を打ち付けることを日常的にしていたもので、話す内容も悪いオトナたち以上に悪辣でいた。
三兄弟では、長男である私が最もそういう虐待じみた暴力を受けた。
2人の弟は児童養護施設にいた時期の後、母親と住むことが早く再開してもすでに暴力が低減したこともあり、累計では私より少なかったろう。

そういえば、以前にも同じアカウントで投稿した動画が、グロ動画認定によって削除されたんだよね。
海外YouTubeで再生20万近くの奴を転載したところ、グロ動画認定によって1日足らずですぐ削除された。
何故?

著作権侵害とかが理由で削除するというならばいざ知らず、グロ動画として削除するのは明らかに不可解。
それならその再生多い転載元の動画も削除されるべきだろと。
—顔しか映してないのに動画が削除される事案が発生、当ブログ2012年9月20日投稿
インターネットで:
2013年以前、匿名や、他の名義でも、私が創作や言論をしても杭を打つような言動を私は受けるし、動画投稿サイトのガイドラインに抵触しないと見られた転載行為も"abuse", "copyright claim"などに抵触しているという様々な難癖を付けられて消されることも数多く、私の活動はどのようなことであっても他者に潰され続けたろう。
2013年以前、YouTubeなどでコメントを投稿しても、私はアンチになりきることなど一度も無いが、勝手にアンチ認定を与えるオトナたちが、まだ15歳以下の私の口や心を潰した。
母親がああならば、他の人たちもボコボコ、日本も世界も私に関して露出を望んでこなかった。

父親も才能などに対する承認の行為が少なすぎ、互いにぎこちないまま2007年4月から2010年10月の家庭内別居開始まで3年半も関わりあった。
ここで言うまでもなく、2人の弟の児童養護施設にいたころの創作物や写真のみが父親の家に掲示されるなど、何とも詮索しづらい行動があった。
言うまでもなく、ぎこちないため、私だって私のものが掲示されることを望んだわけでも本人に見せたわけでもないが、どちらも掲示しないで保管すればよかったろう。
学校教師などについては詳述しないでおくが、下の弟の少人数特別支援教育(普通小・中学校ないし特別支援学校)と比べると、私の中学校以降の教職員の対応があまりにも欠けていたり、冷淡であったりと思える(小学校は3つ通ったいずれでも、一部の例外を除いて十分)。

彼らの行動を私が認知するという前途がどうあっても、私は隠密に行動しつつ、ほのかに評価されればよいとも思ってきた。
これからも、そんなことはありえない;それを知りながら、また、今までのように私の活動がされることを望んでいる。
この活動範囲は、当然、他者がどうあるかを介在していない。
今までのようなままでもよいし、私が心の奥底で望むような他者からの評価が得られてもよい。
変な行動は潰し返されるので、漸進的な「涵養」が中心になろう。

私が他者をどう承認するかの話は、ここで関係が無いのでしない。
また、私がオトナ様やシショー様からの承認を求めるよりも、弟子の育成を望んでいた側面も多くあったが、当然、そういう人材が今まで見られなかったことも、ここに記す事項でない。
同じ家に住んでいる2人のゴタゴタが今年も長く続いたので(今も家族関連の記事や動画は公開レベル低の措置にある)、精神的に不安定ではあるから、こういう記事を書いている。
表題の話題が強く思われたことが執筆の始まりなので、逸脱しない程度に終えておこう。



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自己引用集
(部分的な尊敬/尊重はできて自身の糧にしても真に尊敬できる人に会うことは無い)

私の翹望するところは即ち、敬う存在と敬われる存在である。
良き師匠と良き弟子のようなものどちらも得られるとよい。
私には、このうちの片方だけでも有難くして余りがあろうか。
今のところ、どこのサイトにも優れた人間性・創作性を完全無欠に備えた人が見られなければ、衷心より尊敬してくれるような人も現れない。
要は顔出し動画・絵・音楽の創作においていずれもこなしつつ、私と同年代であり美しい外見の「師匠」も、絵・音楽の創作において協力するような「味方」も、私の活動全般を深く正しく理解して心から敬ってくれるような「弟子」も、その出現を未だ見ない。
ひたすら一人きりの孤陋の如き活動が続くのであった。

私はこの半年で「孤陋」という表現を自らに当てることが2・3度ほどあった。
どこでどうしても、他者の協力はおろか理解すらありえないから、ただ一人では修めきれないであろう幅広いジャンルに渡って追究する。
また、私から尊敬できる人・尊敬すべきような人も、この目で見ず、会うことは到底おきえないから、ただ往古を偲ばせることに徹す。
苟くもその稀有なる人材と居合わすとて、相手が自分を受け容れるとは限らず、常のように嫌われようか。
それでも求め続ける私は、「孤陋」の意を多分に含めている。

「須らく善友(ぜんぬ)を求むべし、(孤独の戦いが)人目にはわろきやうなれども、道心を安定(あんぢやう)せしめんがためなれば、なほ親近(しんごん)すべきにあらず」
「余・孤陋の身にて候へども、末代に正師(しやうし)の稀なるを思ひ候へば、苦しけれども苦しきは候はず」

—『通常の顔出し動画を投稿しなくなって久しい現状と回想回顧 (11月16日起草)』. Ld1. 2016-02-02.


「苦しみからの解放」ということは、私が仏教の学習を通じて得た人生観である。
仏教に依拠するならば、芸術・学問・リベラルアーツというもの=才芸が強く介在すべきでないことは明確であるし、自覚もある。
例えば、私の仏教学習の初期に日蓮系宗派・新興宗教を学び、日蓮大聖人や彼が尊敬した高僧の一人である伝教大師の言葉にも「仏道修行者は才芸を用いるべきでない(あるいは…才芸に長けているからといってその人を尊敬すべきでない)」という意見がある。
無論、彼らも上代日本・中世日本において十分に才能がある人たちであったろうが、その彼らこそが言う。

(後略。伝教大師最澄の願文日蓮大聖人の御書の唱法華題目抄などを引用)

—『科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動』. Bg. 2019-07-15.






最近のメモ帳更新一覧
11月03日 https://lesbophilia.blogspot.com/2020/10/plus-oct-2020.html
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12月04日 https://lesbophilia.blogspot.com/2020/12/202011.html
12月13日 https://lesbophilia.blogspot.com/2020/12/12-12-2020.html

最新投稿動画
11月18日 https://www.youtube.com/watch?v=lMbUqdZVvh4
11月18日 https://www.youtube.com/watch?v=29nJr22I5Yg
12月02日 https://www.youtube.com/watch?v=jmUbgpMuSqY
12月18日 https://www.youtube.com/watch?v=UT2RQjseEEs

最新音楽動画
11月01日 https://www.youtube.com/watch?v=DyvJCNcSR0U

起草日は2020年11月13日である。
その後も焦燥感を募らせてきたので、2020年12月10日時点での考えを正直に記そう。
私自身の努力は何であれ、良いと思える見返りが無いと空虚に思える。
私の生活で、生命維持の観点で窮地に陥る事態こそ無かった(2015年12月22日からの件など飢餓や栄養失調の傾向は一時的な変化がある)が、あまりにも報われないので、何の努力にも意欲が芽生えなくなる。
リアルであれネットであれ、手足があっても、崖に囲まれているとさえ思わせられる状況(妄想や幻覚だというならばそれもよいが)では、極端な行動に出づらい。
家の人の問題がある中で部屋を空けるような、近所で清掃活動を一人で行うとか、そういうことさえ行うには至らない。
そういう可愛らしい行動はしないで、他の努力や苦悩が色々とあるが、これらは他人が知覚可能であろうとなかろうと、話しているように、報われない。
どこまでも焦燥感というものを払って残るものは、同時に付随してきた閉塞感くらいであろう。

自己完結の「崇高な努力」ということに誇らしさを2016年以前に覚えていたろうが、2017年以降は段々とそれだけで満足するというメンタリティでなくなり、今では「無機的な努力」と思えてならない。
2016年=平成28年の参院選、18歳からの選挙権が初めて施行される(私の関連動画v=TIXBzgculzM)中で当時の私を含む19歳の投票率は、最低であったが(後で検索しなおすと20代の方がもっと低かったそう)、選挙の時「18歳」ばかりが言われて19歳の疎外感を同年齢の人は誰でも感じたのではなかろうか?
「ゆとり世代」云々を含めて、年齢からして1996~1998年生まれは最も忌み嫌われ、私は個人としてではなく社会の「集団妄想、共同妄想」である生年、世代によって差別を受ける可能性が高い。
極め付きには「現代っ子ごみかす20代」という意味不明のワードの浮上。
NiziU代を笑うとは、コロナ禍の新卒で内定取り消しやリストラの人たちがかわいそう。
「日本人=ざんねんないきものたち」などと考える者に私はなりたくないが、まだまだ「精神的日本国=日本語が通じる領域」には問題が多い。

前回記事に記したように顔出し動画投稿は複数回、行った。
音楽動画の投稿について「2つのチャンネルでの音楽」でなく、音楽チャンネルでのみ行った。
前回記事での、2020年12月2日追記内容もついでにご覧いただきたい。

2019年の川崎・登戸の事件以前から「高齢ひきこもり」を特集してきた NHK NEWS WEB は、その後も継続的に特集する。
いわゆる「8050問題」も。
NHKのテレビは、「こもりびと」という松山ケンイチ(私の最新動画v=lMbUqdZVvh4でも彼の配役でも有名なLの真似らしい中2時代の写真が載っているのでご覧になってね)主演のドラマを11月下旬に放映した(私は視聴していない)。
この前後で「見過ごされてきた女性たち ~求められるひきこもり支援~」などといった記事が多数、投稿され続ける。
そして、多くのマイノリティ(性的少数者、精神/知的/身体障害者–障がい者–障碍者など)や不登校児などの取材も多い。
しかし、私 (23) のような若年の中卒ニート引き籠りは無価値の存在"worthless, wasted youth/youths"–パンクス"punks, punk"(凡骨 bonkotsu, ポンコツ ponkotsu とは言わない)ということで全く取り上げられない。
他のオトナたちも、そういう目線なのだとよくわかる。
名称が社会的機能を持つことは、弱者は弱者として救済され、強者は強者として君臨するように有るが、若年の中卒ニート引きこもりは全くその機能が無い。
つまり、社会的に無価値で、名称の対象である存在そのものも無価値に見られている。
高齢ひきこもりと不登校児とは、私よりも不文身分の上位にあると言える。

ルサンチマン (ressentiment) ではありませんよ、客観的事実に近い説明。
常々記しているが、可能なうちは、やりたいように精神の満足を目的として努力するしかない。
その目的が、実際には遠すぎるし、本当は誰でもすぐ実現できる奇妙なもの、涅槃とはいつも言う。
元気な人は元気な人の、病床の人は病床の人の、各々の努力ね。
ぜひ日本語世界で、そういう仏教やキリスト教で知られる「死生観の個人主義(たけしさんが言わなくても一人で生まれて一人で死んでゆくという偈は仏教にもある。大乗で望むならみんななかよし仏国土)」が知られてほしい。
行いの報いは精神においてただ自己完結することを知っていても、実際にどの状況で何をしてゆくか、私に関して言えば安定的でないと思う。
そう、父親の口座からの支出で、物を購入するという傾向が強い現状は、明らか。

sādhu, sādhu, よろしい、仏性に適う改悔である。生死の道は元より独り行き独り到るものだが、相待の観点ではみな道連れにもなる。辛苦も快楽も、それは独り受けるものだが、相待の観点では自他に及ぶ。なぜならば誹謗の語を誹謗の語として聞く者がいるからである。誹謗の語を発する者と聞く者とが共に怒り、誹謗の語を発する者と聞く者とが共に喜ぶ。このように、瞋恚・驕慢の因果が先にも後にも見えると仏子は覚る。須らく自ら悪口・悪意を止(と)むべし。これが八正道の要旨である。共に在ること=サンガは、その実行者であろうに、三業の悪業をあなたがたは行ってしまった。(後略)
萌えの典籍・萌集記・諸萌篇・現世で輸提尼が応現するの事

生死重昏獨行道。忘前失後無侶到。佛子照見如是事。我等已依大乘高。
萌えの典籍・萌集記・諸萌篇・現世で輸提尼が応現するの事

生時唯獨來 死時還獨去    自受於苦樂 無有共分者
—『根本説一切有部毘奈耶』、大正蔵23巻877頁c段(2017年に私はこれと似た偈を見たが、これを見たか不明。かつパーリ語、サンスクリット語のパラレルを見つけることは困難)



2020年12月16日、肉体的な父親に関する日記メモ文章を抜粋する:

11時30分に何らかの原因でマナーモード携帯電話のバイブレーションが作動した。電話が入ったようで、私は一度、電話の終了ボタンを押したが、すぐに再びあり、嫌な予感がしながらも受話をした。相手はdocomo ドコモショップ関係者であり、「委任確認」と言ってきた。電話相手の私が契約者本人であると確認した後、d払いの件で父親(電話料金支払い者)本人が相談しているということで、相手はd払いの利用に見覚えがあるかを確認し、私にd払いを利用できないように変更することへの許可を求めてきた。いつかは何かしらの形で父親の拒否が示されると思ったが、やはりそうなったので、不承不承だが私は了承を伝えた。こういう機会で穏便に穏当に終えないと、豊橋の家に来られかねない(それはそれで平和に話し合いもできそうだと思っても、この父親は鈍感かつ強情で無理)、と以前から私は決意していた。プラスがゼロになればマシで、マイナス影響は回避したい。相手によれば、翌日からd払いが使えなくなるという。私は父親に:互いの事情を伝えあって理解をする(互いの思いやり、やや低額で利用維持)とか、「次からできるだけ使わないようにするからd払いの件を許して」とか、「システムで上限額は10万円だし、そもそも毎月そこまで使わないし、遊びのためでもないから許して」とか、そういうことを求めるために父親と通話をしたいと思わない。この件を通して父親が(2010年10月から)10年も顔を見ない子の生活や心情を思いやるなどの親の貫録を見せることもないし、反対に人間的な弱さを見せることもない。父親本人の口から私に言いたいことは無いのだと分かる。無機質で冷淡な、こういう事務的内容で終わり。2011年2月のドコモショップ件と同じく、去勢対象である私は目的を達成できず、父親の場合は達成できる。それぞれの目的は、私が自身の利益を得ること、父親が私の利益を無くすこと。当分、私はネット通販を利用しないが、次からネット通販を利用する場合、たとえば郵便貯金–ゆうちょ銀行のペイジーとかいう方法が考えられる。楽天市場で少額の利用の後、商品の発送などが無い場合に終わる。他にはコンビニ利用でAmazonギフト券をチャージするなど(Amazon Payで他通販利用も)。相変わらずスマートフォンやクレジットカードは無い。12時3分、試しにAmazonで商品を注文すると、「お支払い方法の変更が必要です」と注文履歴ページに表示された。早速d払いは利用できなくなっているらしい。手動でキャンセルした(でない場合は6日後に自動キャンセル)。平日水曜日の11時に父親が来店するということに狂気を感じる。たとえテレワークの在宅勤務でも、ノコノコと勤務時間に来店することはありえないし、有給休暇でもないとして、定年退職にも早い年齢(昭和34年生まれ61歳)なので、失業または早期退職で無職生活か?父親と住んでいる上の弟が、今どう生活しているかは2014年10月以降、いまだに不明であるが、ろくでもないであろうし、8050問題のような父親自身の老後の危険性を自覚しないでいるか?あまりにも想像を絶する父親の生き方は「火宅に遊ぶ子供」そのものである。母も含め、「親の背中を見る」ことをすると、この家族ではろくでもない。今回は金銭の話なのでそれに限って言うと、両親2人は子供や親自身の将来を考慮して有効な「投資」をしたことが無いと、現状から誰でも理解できる。無駄な金銭や精神の「消費」のみがある。他の一般の親である人物たちは「投資」ができても、我が両親はそれができない。私はせっかく金による投資に乗り出したが、この親らは話さえ聞きたがらず、彼ら自身の首を絞めること(日記メモによく用いる表現)に夢中のままらしい。親子としての人生は、お見合い結婚の最初から終末であったが、下の弟の破壊行動を本日に見られるにつけ、やはり救いようが無いと分かる。母親も勝手にグループホーム云々の動きを見せて実現性なく今に至っているし、復職は2014年から持続しなかったし、前日の(中略)。あまつさえ今のコロナ禍では、私でさえも様々な外向的行動に精神的な抑制が生じる。



2020年12月18日に最新の絵の練習記事の画像掲載を完了した。

追記になるが、記事投稿日22時33分に以下の動画を公開した。
タイトル画像、見出し画像の中に記された歌詞(メモ帳更新一覧の12月04日記事でも掲載)が歌われている。
撮影は2020年12月23日13時0分前後にされた。
どう歌うか、他人が参考にできるきっかけになるので、記事投稿の後ではあるが、公開した。



赤カーデ、緑カーゴ、「ワインレッド、カーキグリーンというポケモンのFRLGを連想させるダークなクリスマスカラーのコーデ」。
イタリア語の自作詩を歌う動画ならば、白シャツも兼ねて緑白赤の三色旗=イタリア国旗トリコローレのコーデ。